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夫婦の願い2

貴族街サンクレーン邸門前

貴族街の石畳は、早朝のひんやりとした空気を吸い込み、どこか重苦しい静けさに包まれていた。磨き上げられた馬車が通るたびに、微かな車輪の軋む音が響く。サンクレーン邸の重厚な鉄扉の前で、タカオとレンドは深々と頭を下げていた。タカオの声は、緊張でわずかに掠れている。

「この度は、私の部下が大変不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした」

タカオの視線の先、サンクレーンは白い指先で金の刺繍が施された絹のショールをそっと撫でた。その表情は一見穏やかだが、澄んだ瞳の奥に微かな悲しみが宿っているように見えた。

「いえ、私はただ悲しかっただけですよ…。この国のために自分に出来る事をしようとボランティア活動や孤児院の設立、職業の斡旋……色々と頑張ってきたつもりですが……誘拐犯扱いをされるなんて。しかし、お気になさらないで下さい。私の努力が足りなかったんですよ…。そう思われてるようじゃ、まだまだ世間が私の活動を認知していないって事ですからね。逆に、自分の至らなさに気付けて良かったですよ。ありがとうございます」

サンクレーンは柔らかな笑みを浮かべ、ゆっくりとタカオに手を差し出す。その手は、冷たい朝の空気の中でも、どこか温かみを帯びているように感じられた。タカオは「何というお気遣いを、本当にありがとうございます」と感謝の言葉を述べながら、差し出された手を固く握りしめ、再び深々と頭を下げた。

次にサンクレーンは、爽やかな笑みをレンドに向け、その手を取ろうとした。レンドは一瞬躊躇したが、渋々応じる。

「この度は……すみませんでした……」

レンドの頭が下がると同時に、サンクレーンの手が彼の右手を強い力で握り込んだ。レンドは一瞬、骨が軋むような痛みを覚えたが、すぐに顔を上げ、挑戦的な眼差しでサンクレーンを見据え、逆に強い力で握り返した。

隣に控えていたルドルフが、その様子を満足げに見つめている。「ああ、実に力強い。この国は強い兵士に守られて安泰ですな」ルドルフはそう言いながら、フッと嘲るような笑みをこぼした。

レンドの胸中には、熱いものがこみ上げていた。(やれるもんならやってみろって事か? 上等だ) 彼の心の中で、新たな決意が固まった。拳に残るサンクレーンの手の感触が、挑発のように思えた。

夫婦の家

一方、町の片隅にある粗末な家の中では、絶望と悲しみが深く垂れ込めていた。埃っぽい板張りの床には、乾いた涙の跡がまだらに残る。

「エルをこんな形で失うなんて、私は耐えられません……」

妻のソフィアは、顔を覆い、しゃくりあげるような嗚咽を漏らしていた。その指の間からは、熱い涙がとめどなく溢れ落ち、古びたテーブルに小さな水たまりを作っている。夫のジェラルドは、悲しみに打ちひしがれる妻を強く抱き寄せ、その震える肩をゆっくりと撫でた。

「俺も悲しいけど……そんなに泣くな、エルも辛くなるだろ? それに、あの人達がきっと、私達の願いを、エルの無念を晴らしてくれるさ……」

ジェラルドの慰めの言葉は、虚しく空気に溶けていく。その時、乾いた木製のドアが、突然**ドォン!**と大きな音を立てて内側に吹き飛んだ。土埃が舞い上がり、部屋に差し込む光を遮る。

「大丈夫ですか? 上に言われて様子を見て来るように言われて」

冷たい声とともに、二人の兵士が無遠慮に部屋へ踏み込んできた。彼らの甲冑がカチャカチャと音を立てる。ジェラルドとソフィアが驚きに目を見開く間もなく、兵士の一人が構えた剣が、閃光のように彼らの喉元を貫いた。血飛沫が壁に飛び散り、鮮やかな赤が灰色の壁を染める。

「なんで……こんな……」

ソフィアの絞り出すような声が、最後の言葉となった。もう一人の兵士は、いやらしい笑みを口元に浮かべる。

「口封じだよ。サンクレーン卿の評価を下げるわけにもいかないでしょ?」

その兵士は台所へ向かい、嗅ぎ慣れない油のような液体を床にばら撒いた。途端に、油のツンとした匂いが鼻を突く。そして、無造作に放たれた火が、パチパチと音を立てながら燃え広がり、あっという間に炎が部屋全体を包み込み始めた。熱気が肌を刺し、焦げ付くような匂いが充満する。

「良かったな、これで親子仲良くあの世で暮らせるぜ、ははははは!」

兵士たちの高笑いが、燃え盛る家の中に不気味に響き渡り、やがて遠ざかっていった。

鍛冶屋にて

ライムが鍛冶屋の重い木製の扉を開けると、油と鉄の匂いが混じり合った独特の香りが鼻腔をくすぐった。すでにフィオラも炉の前に立っており、赤く燃える炎がその顔を照らしている。金槌の音が規則的に響く。

「花を通じて聞いてたけど、正式に依頼を受けたのね……。こういう事を言うのもあれだけど、どんな形にせよ娘に再会出来たのは良かったんじゃない?」

フィオラの声は冷たく響いたが、その瞳の奥にはどこか優しい光が宿っているように見えた。隣でアカリが寂しげに呟く。

「そうだけど、出来たらその前に助けたかったな?」

ライムは、握りしめた拳に力を込めて力強く言った。

「俺たちが出来るのは、あの貴族と娘に酷い事をした連中を始末する事なんじゃないのか?」

しかし、アカリは呆れたように肩をすくめる。「あんたってまだまだ子供よね〜、私より年上のくせに〜。相手が相手だし、そんなに簡単じゃないよ。下手したら王直属の部隊が出てくるかもしれないしさ」

その時、フィオラは信じられないといった様子で声を上げた。

「待って……夫婦の中に入れてた種が燃えた……?まさか、死んだの?」

その言葉を聞いて、居ても立っても居られなくなったライムは、考える間もなく鍛冶屋を飛び出し、夫婦の家へと駆け出した。彼の足音が石畳に強く響く。

「あ〜あ、行っちゃった。だから子供って言ってるのに……」

アカリは呆れたようにそう言いながらも、静かに炉の炎を見つめていた。フィオラはそんなアカリの横で、燃え盛る夫婦の家の方角へ向かい、そっと手を合わせた。その表情には、冷徹さとは違う、深い感情が読み取れた。

「でも良いじゃない、初めなんだし。あのぐらい熱があった方が嬉しいよきっと……」

炎に包まれた家屋

鍛冶屋から町の通りを駆け抜けるライムの足元からは、石畳を蹴る乾いた音が響く。遠くからでも、鼻腔を刺激する焦げた匂いが風に乗って漂ってきていた。夫婦の家が近づくにつれ、その匂いは一層濃くなり、空気は熱を帯びて肌にチリチリとした痛みを走らせる。

視界の先に、夫婦の家があったはずの場所が、すでに真っ赤な炎の柱と化していた。炎はまるで生き物のようにゴォゴォと唸り、木材がパチパチとけたたましい音を立てて爆ぜる。屋根はすでに焼け落ち、黒い煙が渦を巻きながら夜空へと昇っていく光景は、地獄絵図そのものだった。

「くそっ……もう少しそばにいれば、救えたのに……」

ライムの口から、乾いた声が漏れる。炎の熱気が彼の顔を赤く染め上げ、絶望感が胸いっぱいに広がる。しかし、その途方に暮れる思考を遮るように、胸の奥から熱い衝動が突き上げた。

「いや! 俺なら救える! 今日をやり直せば!」

すでに周囲には、火事の知らせを聞きつけた野次馬たちが、ざわめきながら集まり始めていた。彼らの驚愕の視線の中、ライムは一歩も躊躇せず、燃え盛る炎の中に身を躍らせた。

炎に飛び込んだ瞬間、熱波がライムの全身を容赦なく襲う。皮膚が焼けるような激痛が走り、髪の毛がチリチリと焦げる匂いが鼻をついた。

「熱い……案外、すぐには死ねないもんだな……」

呻き声にも似た言葉が、彼の口からこぼれる。体中が燃え盛るような熱さの中、ライムは腰に差していた、熱で刃先が赤く熱くなったダガーを震える手で握りしめた。その切っ先を、自らの胸、心臓の真上へと迷いなく突き立てる。

グシャリ、と肉を抉るような鈍い音が、熱気で満たされた空間に響いた。

瞬間、意識が霞むほどの急激な胸の痛みと、全身を包む炎の熱さが彼の感覚を支配する。視界が急速に狭まり、世界は暗闇に包まれた。

しばらく、重く、何もない暗闇が続いた。そして次の瞬間、ライムの意識はハッと覚醒した。しかし、体中が燃えているかのような熱さと、まるで焼きごてを押し付けられているような胸の激しい痛みが彼を襲い、思うように体を動かせない。目の前はぼんやりと霞み、呼吸をするたびに肺が引き裂かれるような苦痛が走る。

(心臓はやり過ぎたかな……痛みで動けない……)

彼は呻きながら、ゆっくりと痛みに耐えつつ胸を強く抑えた。足元に広がる鍛冶屋の床はひんやりと冷たいのに、自分の身体だけが業火に焼かれているかのようだ。一段一段、階段を上がるたびにズキズキと痛む胸を押さえながら、彼はまるで老人のように慎重に、ゆっくりと工房を目指した。鉄と油の混じった匂いが、僅かに彼の意識を現実に引き戻す。

ようやく工房の重い扉に手をかけ、ギィィ、と音を立てて開いた時、アカリが振り返り、その尋常ならざるライムの様子を見て、驚きに目を見開いた。

「どうしたの?! ライムくん、胸が痛いの? 病院に行く?」

アカリの声には、心底からの心配が滲んでいた。しかし、ライムは彼女の言葉にほとんど耳を傾けることなく、視線を彷徨わせながら、か細い声で答える。

「いや……大丈夫……それより……武器と防具を……持って行くね……待ち伏せとかいるかもしれないし……」

彼の指先は震えながら、ゆっくりと壁にかけられた防具へと伸びる。重い革のアーマーや金属のパーツを、痛みで顔を歪めながらも、黙々と身に着けていく。その動作は普段の彼からは想像もできないほどぎこちなく、時間がかかっていた。

「それはいいけど、本当に大丈夫なの? なんか死にかけてない?」

アカリは不安そうに、もう一度声を掛けたが、ライムは答えることなく、無言で準備を続けた。武器を腰にしまうと、痛みに耐えるように胸を強く抑えながら、その場を立ち去ろうとする。

「行ってくる」

彼の言葉は短く、冷たい空気に溶けていった。その背中は、普段の彼の活発さとはかけ離れた、どこか頼りなく、そして痛みに耐えるようにぎこちなかった。

工房の重い扉が軋む音を立てて開き、ライムはよろけるように外へと足を踏み出した。朝の名残を残すひんやりとした空気が、焼けるように熱を持った肌に心地よく当たる。肌の表面に微かな風が触れるたび、さっきまで焼けるようだった胸の痛みが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。

呼吸をするたび、肺の奥に残っていた灼熱がじんわりと引いていく。その代わりに、身体の芯に、じわじわと冷静さが戻ってくるのが分かった。痛みはまだ消えていないが、血の気が引いたように白かった顔に、ようやく僅かな血色が戻る。

「……ようやく……動ける」

それが、今のライムには十分だった。彼の瞳には、熱を帯びた決意が宿っている。

「――今度こそ、間に合わせる」

日差しはまだ柔らかく、町の石畳に長い影を落としている。その中を、彼は痛みに耐えるように胸を押さえながら、ゆっくりと歩き出した。焦げ付くような胸の痛みは引いてきたものの、時折ズキンと脈打つような痛みが走る。それでも、彼の足取りは徐々に力強さを増し、町外れの、人の往来が少ない細い道を目指して、ゆっくりだが確実に歩みを進めていった。アスファルトの匂いが微かに漂う小道の先に、蹲る小さな人影が見えた。

(良かった……ちゃんと戻ってる!)

安堵の息を漏らし、ライムは少女に駆け寄る。

「エルさん!」

ライムの呼びかけに、少女はビクリと肩を震わせ、警戒するように顔を上げた。澄んだ瞳には、怯えと不信の色が浮かんでいる。

「え……? 誰……?」

エルからの警戒の視線に、ライムは一瞬言葉に詰まるが、すぐに心を奮い立たせた。

「ごめん、助けに来たんだ。もう時間がないから、ご両親の元に急ごう!」

ライムは迷うことなく、エルをそっと背負い上げた。少女の華奢な体が、彼の背中に柔らかな重みを感じさせる。

「本当に……? 酷い事しない……?」

エルの声はまだ震えていたが、ライムは気にせず、まっすぐ夫婦の家へと向かう道を急いだ。石畳を踏む彼の足音は、先ほどよりもはるかに速い。

「大丈夫! エルさんのご両親に頼まれてるから、酷い事はしないよ!」

ライムの声は、心からの熱意を帯びていた。

短すぎる再会と覚悟

やがて、見慣れた家屋が視界に飛び込んできた。煙の匂いも、焦げた匂いもしない。ただ、ひっそりと静まり返った家は、先ほどまでの惨劇が嘘のようだ。ライムがノックすると、夫婦はすぐに扉を開けた。彼らの瞳は、娘の姿を捉えた瞬間、驚きと安堵、そして深い愛情に満たされ、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。

「どうしてこんな目に遭わないといけないんだ……エル、怖かったな……」

ジェラルドが、震える声でそう呟きながら、エルを抱きしめる。ライムはそっとエルを床に寝かせると、夫婦はエルを挟むようにして抱きしめ、嗚咽を漏らしながら再会を喜んでいた。温かい、家族の匂いがその場を満たす。

しかし、その喜びはあまりにも短かった。エルは、か細い声で、しかしはっきりとした言葉で言った。

「最後に、お父さんとお母さんに会わせてくれて……ありがとう……」

その言葉を最後に、エルの小さな体から力が抜け、静かに息を引き取った。夫婦の嗚咽は、悲痛な叫びに変わる。

ジェラルドとソフィアは、変わり果てた娘を抱きしめたまま、ライムに顔を向けた。その瞳からはまだ涙が溢れているが、感謝の光が宿っていた。

「少しでも、生きていた娘に会えて良かった……無事なのが一番良いが、あなたがいなければ、死んだ娘と再会だっただろう……本当にありがとうございます……」

ジェラルドがライムの手を握り、ソフィアもその手を包み込むように重ねた。彼らの手のひらは、涙でしっとりと濡れていた。

ライムは、込み上げる感情を抑え、決意のこもった声で伝える。

「この後ですが、必ず、酷い目に遭わせた者達を始末して、恨みを晴らします……でもその前に、あなた達も……」

兵士たちに殺される、と言いかけて、ライムはぐっと言葉を飲み込んだ。夫婦の顔に再び絶望の色が浮かぶことを恐れたのだ。

「……命を狙われる可能性があるので、しばらく表で待機してても良いですか?」

二人は驚いた顔をして顔を見合わせる。

「確かに、娘の事で証拠隠滅を図るかもしれない……でも、娘を失った時点でもう……生きてる意味も……」

ソフィアの言葉が途切れる。その表情は、深い諦めに覆われていた。ライムは彼らの言葉を遮るように、まっすぐ二人の瞳を見つめ、力強く言い放った。

「せっかく知り合えた人を失うのも、悪党に好き勝手されるのも、俺は我慢できない! 自己満足ですけど、守らせてください!」

ライムの言葉は、彼の心からの叫びだった。夫婦は茫然とライムを見つめた後、ゆっくりと頷いた。

ライムは夫婦に短い敬礼をすると、そのまま外へと向かった。家の外は、まだ柔らかな朝の光に包まれている。だが、その光景とは裏腹に、彼は胸の奥に燻る怒りを抱え、兵士たちが来るのを静かに待った。通りを行き交う人々のざわめきが、ひどく遠くに聞こえる。

夫婦の家の近くに広がる草むらに、ライムは身を潜めた。夜露を含んだ草の湿った匂いが鼻腔をくすぐる。ひんやりとした土の感触が手のひらに伝わり、心臓の痛みが脈打つたびに、地面の冷たさが心地よく感じられた。草の葉が風に揺れる音だけが、耳元でざわめいている。

(あそこなら隠れれるかも……)

周囲を見回し、隠れる場所を見つけると、ライムはさらに深く身を伏せた。土の匂いが一層濃くなる。

(相手は兵士……確実に正面は不利だ……なら、首元を確実に狙わなければ……)

彼の脳裏には、先ほど自ら命を絶った時の、あの焼けるような痛みと抉られるような感覚が鮮明に蘇る。その痛みが、彼の決意をより一層固くしていた。あれからどれだけの時間が過ぎたのか、ライムには分からない。あたりは静かで、風に揺れる草木がざわめくだけだ。本当に事件が起きるのかも分からないほど、穏やかな時が流れていた。

(言ったら駄目だけど……平和だ……何もなければ、昼寝も出来そうなのに……)

そんなことを考えていると、遠くの方から重い足音と、ガシャガシャと金属が擦れ合うような鎧の音が、確実にこちらに近づいてくるのが聞こえた。音は徐々に大きくなり、地面を伝わる振動が微かに肌に感じられるようになる。

(ついに来たか!)

ライムは、震える手でダガーをしっかりと構え直した。汗で湿った柄が、手のひらに吸い付く。

近づいてきた兵士は二人だけだった。彼らは警戒する様子もなく、まるで散歩でもしているかのように、のんびりと雑談しながら歩いている。どうやら、口封じという楽な仕事だと思っているようだった。ライムが潜む草むらの横を通り過ぎても、彼らが気づくことはない。ライムはゆっくりと息を潜め、背後から最適なタイミングを計っていた。

兵士たちが夫婦の家に近づき、一人がドアの方へ、もう一人がその後ろで待機したその瞬間、ライムは一気に草むらから飛び出した。地面を蹴る音が、乾いた空気を震わせる。彼は電光石火の速さで兵士に飛び掛かり、左右の手に握った二本のダガーで、兵士の首元を同時に一突きにした。

血がブシュッと噴き出し、兵士は声を発することなく、ガクッと膝から崩れ落ちた。鎧が地面にぶつかる鈍い音が、静かな昼の空気に響く。

ライムは間髪入れずに、ノックしようとしていたもう一人の兵士へと駆け寄った。その兵士が背後の異変に気づき、わずかに振り返ろうとした瞬間、ライムは構えたダガーでその首を素早く掻っ切ろうとした。しかし、狙いが僅かに浅く、ダガーの刃が皮膚を切り裂くゾクリとした感触はあるものの、致命傷には至らない。

「なんだ、貴様は!?」

兵士は驚きに目を見開き、剣を鞘から引き抜こうと体勢を崩した。その時、予想だにしなかったことに、ドアが不意にギィ、と音を立てて開き、兵士の体にぶつかった。兵士はバランスを崩し、よろめく。

ライムは咄嗟にその機会を捉えた。

「チャンス!」

彼の体は興奮と不安で微かに震えていたが、その動きは確実だった。ダガーを迷いなく兵士の喉元に突き刺し、そのまま奥へと貫通させた。血がゴボッと喉から噴き出し、兵士は目を見開いたまま、ゆっくりと地面に倒れ込んだ。血の生臭い匂いが、昼の空気の中に広がる。

開いたドアの隙間から、ジェラルドがその光景を目の当たりにし、驚きに目を見開いていた。しかし、次の瞬間、彼の視線は血に濡れたライムの姿を捉え、安堵の色を浮かべた。

「本当に……口封じに来たんですね……ありがとうございます……それで、これは依頼料です。あなたなら信用できる」

ジェラルドはそう言いながら、血で濡れた地面にしゃがみ込むライムの手に、重みのある金貨五枚を握らせた。金貨の冷たい感触が、ライムの熱い掌に伝わる。

ライムは、任務をやり遂げた達成感に満ち溢れ、ジェラルドの言葉に力強く頷いた。

「必ず、恨みを晴らします」

金貨をしっかりと握りしめ、彼は意気揚々と工房へと足を進めた。彼の足取りは、痛みを忘れたかのように軽やかだった。


工房に足を踏み入れると、鉄と油の混じった、いつも通りの匂いがライムの鼻腔をくすぐった。彼は高揚感に包まれ、今日の出来事をみんなに報告しようと息を弾ませる。しかし、その場にはフィオラとアカリだけでなく、まさかのレンドも来ていた。

レンドの表情は、怒りで硬くこわばっていた。ライムが言葉を発するよりも早く、レンドの握りしめた拳が、ライムの顔面に容赦なく叩きつけられた。

「ドゴッ!」と鈍い音が響き、ライムの頬に熱い痛みが走る。視界がグラつき、彼はよろけるように数歩後ずさった。口の中に鉄の味が広がる。

「おう、小僧。殴ってから言うのもなんだがな……まさか兵士を待ち伏せして殺したんじゃないだろうな?」

レンドの声は怒りを帯びていたが、その眼差しはどこか冷静さを保っていた。殴られた痛みと、自分は正しいことをしたという強い思いから、ライムは反論する。

「ああ、悪いかよ! 夫婦が殺されるのも分かって、殺される前に兵士を殺して助けたんだ!」

ライムの反論に、レンドはさらに眉間の皺を深くし、彼を容赦なく蹴り飛ばした。ライムの体が鈍い音を立てて床に叩きつけられる。

「いいか? 兵士を殺してハイ終わりじゃねえんだ……よく聞けよ、小僧? 兵士を殺しても夫婦が生きてる。兵士も死んだとなると、サンクレーンはどうすると思う? さらに兵士を送るわ、自身の警備もさらに強化するだろうな……それで本部に圧を掛けて犯人を探すだろう? そうなればどうなると思う?」

レンドの低い声が、工房の空気に重く響く。その言葉に、フィオラが横から冷たい声で付け加えた。

「まあ、賞金をかけるか、王直属の部隊があなたを殺しに来るでしょうね? もしくは、異世界人にクエストとしてあなたの討伐を依頼するかもしれない……あなただけならいいけれど、仲間と思われて私たちも狙われたら散々だわ……」

フィオラの視線は冷たく、ライムの胸に突き刺さるようだった。アカリが困ったように、しかしどこか優しげな声でフォローする。

「でも、ライムくんは夫婦を助けたいって思っただけじゃないかな? 考えは足りないけどさ……」

しかし、レンドはアカリの言葉を一蹴した。

「小僧。ヒーロー気取りか分からねえが、正義だと思ってるならここにいる必要はねえ……俺達はな……悪を狩る悪党だ。その事を忘れるな……あとな、夫婦の望みは本当に自分達だけでも助けてくれだったのか? その辺をよく考えてみろ」

レンドの言葉は、ライムの胸に深く突き刺さった。その時、レンドは急に顔を上げ、どこか遠い目をする。

「俺はちょっと騒ぎになってねえか、現場に行ってくる」

レンドがそう言って工房を出ようとすると、フィオラがそれを制した。

「待って。その必要はないわ。夫婦の種が燃えてる……おそらく死んだとわかったか、別部隊を出してたのかもね……」

フィオラの言葉を聞いたレンドは、悔しそうに唇を噛んだ。彼の表情は怒りと諦めに満ちていた。

「ほらな? 一回倒せば済むってもんじゃねえ。元を断たないと何度でも来るぞ」

レンドはライムを睨みつけ、その視線は凍てつくようだった。ライムは胸にこみ上げる怒りと、レンドの言葉の重みに耐えきれず、叫びたい衝動を抑えながら、工房を走り去った。彼の足音が、廊下に虚しく響く。

アカリが「ライムくん!」と叫び、追いかけようとするが、レンドがその腕を掴んで引き留めた。

「行くな! 仲間と思われる! しばらく動けなくなったぞ、小僧のせいで……もう依頼も達成できねえかもな」

レンドはそう吐き捨てると、壁を**ドンッ!**と音を立てて蹴り上げた。壁の塗料が微かに剥がれ落ちる。彼の背中からは、怒り、焦燥、そして絶望のような感情が、重い空気となって周囲に漂っていた。

ライムは荒い息を吐きながら、血を流す胸の痛みに耐え、再び夫婦の家へと駆けていた。彼の足元からは、石畳を蹴る乾いた音が、先ほどよりも一層焦燥感を煽るように響く。遠くからすでに、焦げ付くような、鼻腔を深く刺激する匂いが風に乗って漂ってきていた。

視界の先に、先ほど救ったはずの家屋が、またもや炎に包まれているのが見えた。まだ燃え始めてすぐらしく、炎の回りもそこまで早くない。真っ赤な舌のような炎が、壁を這い上がるようにチロチロと揺れている。幸い、まだ野次馬の姿はない。

ライムは、炎の熱気を肌に感じながらも、夫婦の安否を確かめるため、燃え盛る家の中へ足を踏み入れた。焦げた木材の匂いが充満する中、彼の目に飛び込んできたのは、互いを守るようにして覆いかぶさり、息絶えている夫婦の姿だった。煤に塗れた二人の体は、まるで子を守る盾のように見えた。

(もう死んでても……娘を傷付けないように守ったんだ……)

ライムの瞳から、熱い涙がとめどなく溢れ落ちた。悔しさと無力感、そして怒りが混じり合い、彼の拳は強く、強く握りしめられた。爪が掌に食い込み、痛みが走る。

その時、外から声が聞こえてきた。足音も近く、焦げた匂いとは違う、兵士たちの持つ革や金属の匂いが風に乗って流れ込んでくる。

「本当いやになっちゃうわね〜。兵士殺しがあったと思ったら、火事まであるなんて〜。でもムラサメさんにしては早かったじゃない?」

その声はタカオだった。どこか呆れたような、しかし慣れた様子で言っているのが分かる。

「ええ……まあ、何か胸騒ぎがしまして、パトロールついでにこの辺に来ていたもので……」

レンドの、どこか疲れたような声が聞こえる。

「本当は昼寝でもする気だったんじゃないですか? まあ、それは良いとして。本部からも言われてるので、料理をする時の誤って油に引火しての火災。兵士二人は救出時のミス。これで解決です。書類も作成しときますからね」

タカオの声は、涼しい顔で真実を捻じ曲げ、事故として処理しようとしているのがありありと分かった。冷酷なまでの事務的な口調が、ライムの怒りを煽る。タカオが踵を返して去ろうとする足音が聞こえた。

「中は見なくて良いんですか?」

レンドの声は、微かに戸惑いを帯びているようだった。

「いいのいいの。もう火も回ってるし、煤が付くと臭いも汚れも嫌じゃない? 見たければ勝手にどうぞ。でも……あんまりおすすめしないわ。だって本部が目を光らせてるからね。じゃあね、また後で……」

タカオの嘲るような声が遠ざかる。外からは、徐々に野次馬たちが集まり始めるざわめきが聞こえてきた。レンドも、その騒ぎを避けるように、重い足音を立ててその場を後にした。

燃え盛る家の中で、ライムは絶望と怒りに打ち震えていた。熱気が彼の肌を焦がす。

(こんな事が、当たり前に起きてたのか……調査もせず、事故で終わらせた……この親子が気の毒すぎる……でも、こうなったのは自分のせいか……)

彼の視界の端に、燃え盛る炎が映る。あの激しい痛み。そして、胸の奥でチクチクと疼く、まだはっきりとは意識できていない記憶の欠落。

(もう一度、リトライするか……確かめたい事もあるし!)

ライムは、震える手で腰のダガーを抜き取ると、迷うことなく刃先を自らの胸へと向けた。心臓を一突きにし、肉を抉る鈍い音が響く。視界が急速に暗転し、体中の痛みが最高潮に達する中、彼は燃え盛る家の中で、再び意識を失い、その場に倒れ込んだ。

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