夫婦の願い1
フィオラは花屋の奥に夫婦を招き入れると、丁寧に椅子を勧め、花柄のティーカップに香ばしいハーブティーを注ぎ入れた。湯気が立ち上る香りは、気持ちを少しだけ落ち着かせてくれるようだった。
「依頼のことだけど……恨みがあるの? それとも“願い”?」
静かにそう問いかけると、夫婦は顔を見合わせてから、やや緊張した面持ちで腰を下ろした。少しの沈黙の後、夫の方が口を開いた。
「実は――一人娘を探して欲しいんです。三日前に、突然……攫われてしまって」
言葉を選ぶように話す夫。だが次の言葉には迷いがなかった。
「……どこにいるかは、分かっているんです。ルドルフ・サンクレーンの屋敷に囚われています」
その名前に、フィオラの目が細くなる。
「サンクレーン? あの貴族にしては珍しく、身分を問わずに接して、慈善活動も熱心って噂の?」
妻が力なく頷いた。
「……はい。だから娘も安心して、屋敷に行ってしまったんです。ボランティアの手伝いをするんだって。笑顔で……」
言葉の最後が震える。
「でも夜になっても帰ってこなくて……心配になって、迎えに行ったんです。軽い気持ちで。なのに、門番が言ったんです」
『娘? ここには誰も来ていません。お引き取りください』
「そんなはずはないと訴えると、貴族本人が出てきて――」
『なんだ? 騒がしいやつめ。まさか俺を疑っているのか? 警備兵に突き出すぞ』
「……って追い返されてしまって……でも間違いないんです、あの屋敷に娘はいるんです」
堪えていた涙が頬を伝い落ちる。だがフィオラの声は、あくまで冷静だった。
「……でもそれだけじゃ“そこにいる”とは言えないわ。本人の痕跡があったとか、目撃証言があるとか、そういうのが必要」
言葉の隙間に、窓から吹き込む風がカーテンを揺らす。
「王都では、残念ながら誘拐や人攫いは珍しくない。居場所が分かったとしても、それだけじゃ動けない。確証がいるのよ」
夫婦は目を伏せ、震える声で言った。
「でも、いっさい来ていないって……まるで、娘が最初から嘘をついてどこかに行ったみたいじゃないですか……」
「分かってるわ。でも、まずは調査が必要。少し時間をちょうだい。それと、写真があれば預かる。依頼料も決めておいて。こちらから値段は提示しないから」
夫は震える手で懐から五枚の金貨を差し出した。
「娘の名は……エルです。これで、お願いします……」
フィオラは金貨を見つめ、そして目を伏せて考えた。
「……分かったわ。まずは調査。犯人が誰か確定したら、その時に正式に依頼を受ける。そのときに金貨はいただく。連絡は、またこちらからするわ」
夫婦は深々と頭を下げ、「どうかお願いします」と言い残して店を出た。空のティーカップには、ほんの少し残った香りだけが漂っていた。
その直後――
「……おい! どういうつもりだ?」
白い薔薇の一輪が揺れ、通信が繋がる。声の主は、レンドだった。
「相手も分からねえ、証拠もねえ、しかも相手はサンクレーン卿だと? もし狂言だったら、依頼主の始末まであり得る。分かってんのか?」
フィオラは声色ひとつ変えず、軽く笑った。
「あの夫婦は嘘をついてない。それに、門番の“誰も来ていない”が嘘の可能性が高い。ボランティアを募っている屋敷なら門が開いているはず。でも閉じていた。つまり――最初からそんなイベント自体なかったのよ」
レンドは頭を掻きながら苦い顔をする。
「……誘い込む罠ってわけか」
「そう。調査をするとは言ったけど、まだ正式な依頼じゃないわ。だから安心して。私は、聞き込みにはライムが適任だと思うの」
しばらく考え込んだあと、レンドが返す。
「……それもいいな。だが俺も兵士だ。聞き込みは任せろ。何か分かったら連絡する。それと――あの夫婦の家、分かるか?」
「ええ、大丈夫。もう“種”は飲んでもらってる」
「……おめえは抜かりねぇな」
レンドは笑い、通信は切れた。
フィオラはゆっくりと残りの茶を飲み干した。その表情は、昼間の穏やかな花屋の主とはまるで別人だった。
「――言われなくても調べるよ。表が完璧すぎるやつほど、裏は真っ黒だからね」
彼女は荷台に花を積み、音もなく扉を開け、静かに家を後にした。
一方その頃、鍛冶屋の工房では、昼過ぎの光が傾きかけた頃。鉄の焼ける匂いと、乾いた油のにおいが鼻をつく中、作業台に腰かけたライムが腑抜けた声を漏らした。
「で? 何?」
アカリは手にしていたレンチを机に叩きつけるように置き、額に手を当てて呆れ顔。
「いや、『何?』じゃなくて! レンドさんが呼んでるってば。多分フィオラさんも来るんだから、行ってきなさいよ。依頼を受けるか決めるための、大事な調査なんだから!」
声が工房中に響き、吊るされた工具が小さくカチャリと揺れた。
「え、フィオラさんも来るの?」
ライムの声にほんの少しだけトーンが乗った。
「……いやでもさ、それおかしくない? 工房に飾ってる花に近づいて独り言を言ったら『調査に行け』って、意味わかんないんだけど」
ライムが指さすのは、作業台の端に静かに生けられた、白い一輪の花。
「あれはね、盗聴も通信もできるフィオラさんお手製の《白い花》なの! キレイだけど、すっごく便利なんだから!」
アカリは得意げに腰に手を当て、ちょっとした発明品を紹介するような声色で語る。
「はあ……王都ってほんと何でもアリだなあ。異世界人もいるし、魔法とか特殊な能力も信じられるよ」
ライムがため息交じりに言うと、アカリはふっと笑って、ライムの顔をのぞき込む。
「案外、身近にいるかもよ? 能力者とかさ?」
からかうように笑うアカリの顔を見て、ライムは少し間を置いてからぽつりと呟いた。
「うん、そうだよね……たとえば、死んでもその日をやり直せるとか、さ」
アカリが一瞬だけ瞬きをして、それから大きな声で吹き出した。
「あははは、なにそれ!? 生き返るのはいいけど、その日をやり直すって? 何のために? やり直して、みんなはどんな反応するの? “さっきぶり〜”とか言うの? ありえないって!」
ライムの眉がわずかに吊り上がる。
「いや、やり直しだから、みんなもその日をやり直すんだよ!」
「え? ってことは……世界中で時間がリセットされて巻き戻るってこと? ……それ、神じゃん。うわあ、でも夢があっていいね〜。お子ちゃまは♪」
アカリが慈愛に満ちた目で見てくる。子どもを見る大人の顔だ。
「いや、でも俺の方が年上なんだけど……?」
ライムが反論する間もなく、アカリはうんうんと頷きながら、満面の笑みで告げた。
「お兄ちゃん早く出てけ!」
工房の扉を勢いよく開けて、ライムを外へ押し出した。
扉がバタンと閉まり、石畳の冷たい空気が肌に触れる。
「なんなんだよ……アカリさん、ほんと怖いな……」
ライムはぶつぶつと文句を言いながら歩き出したが、数歩進んでハッと足を止める。
「あっ、どこに行けばいいか聞くの忘れてた……」
辺りをキョロキョロと見渡していると、石造りの建物の影からひょいと現れた人影があった。
「やっぱ、こんなことだろうと思ったぜ」
レンドが腕を組み、皮肉気に笑っていた。夕暮れの影が彼の顔を半分だけ照らしている。
「よお、小僧。ラッキーだったな。早速、依頼になるかもしれない調査タイムだ」
「……はあ、いきなり何なんだよ。何がなんだかさっぱり……」
ライムがぼやいた瞬間、角を曲がった先から聞き慣れた声が届いた。
「レンドさん! あ、ライム君、こんにちは。……と言っても、もう夕方だけどね?」
夕陽に透けるような花屋の制服が、風にひらりと揺れた。フィオラが穏やかに笑って立っていた。
ライムも少し顔をほころばせる。
「さっきぶりですね。何をしたらいいですか?」
フィオラがライムを見つめながら口を開こうとした時、レンドが横から口を挟んだ。
「小僧、その女はやめとけ。お前じゃ無理だ。……相手が悪すぎる」
ライムが口を開くより先に、レンドは真顔になってフィオラへと向き直った。
「それで、何をすればいい?」
フィオラは軽く頷き、懐から一枚の写真を取り出した。風に揺れないよう、指で端を押さえながら静かに差し出す。
「この子の名前はエル。ルドルフ・サンクレーンの屋敷に囚われているって話があるわ。さっきは言えなかったけど……おそらく、確定。でも情報は必要。遅い時間だから、調査は明日でも構わないわ」
「俺は……まあ無理だとは思うが、一度サンクレーン邸を見てくる。それから、いつもの酒屋を当たってみる」
レンドは視線を遠くに向けて呟き、それからライムに目をやる。
「小僧は、サンクレーン邸の周辺よりも、商業地区で聞き込みをした方がいい。貴族街じゃ警戒される」
「うん……わかった」
「じゃ、とりあえず解散ね?」
フィオラは軽やかに手を振り、それにつられてライムも同じように手を振った。
そのやり取りを横目で見ながら、レンドは溜息まじりに呟いた。
「……ったく、やれやれ。頑張れよ、小僧」
風に吹かれながらレンドが歩き去っていく。ライムはしばらくその背中を眺めてから、写真を見つめた。
ライムは一枚の写真を手に、町中の人々に声をかけて回っていた。
しかし──誰もが怪訝そうな顔をして通り過ぎるばかりで、誰一人として足を止めてはくれない。
「……やっぱりここじゃダメか。貴族街に行くしかないな」
息をつきながら、写真を軽く撫でるように見つめる。写真の中の少女──エルの笑顔は、どこか儚げで、彼の胸に淡い痛みを残した。
ライムは人波を避けながら貴族街へと足を向けた。空には淡く雲が流れ、午後の陽光が石畳に長い影を落としている。
⸻
その頃。
レンドは整えた制服姿で、サンクレーン邸の前に立っていた。
荘厳な門構え、丁寧に手入れされた庭園が見え隠れし、いかにも「格式」を見せつけるような佇まいだった。
「ちょっとお聞きしたいんですが、エルという少女がここに来ませんでしたか?」
門番に話しかける声は丁寧だったが、微かに警戒の色を含んでいた。
「捜索願いが出てましてね。まあ、私もここではないと思ってるんですが、依頼主がしつこくて」
門番が何か返そうとしたその時──邸内からゆったりとした足音が聞こえ、一人の男が姿を現した。
「ほぉ……それはお困りでしょう?」
姿を現したのは、ルドルフ・サンクレーン。
淡いグレーのスーツに金縁の眼鏡をかけ、いかにも理知的かつ穏やかな笑みを浮かべた紳士風の男だ。
「いや、失敬。声が聞こえたもので、何かあったのかと思いましてね……人探し、ですか?」
ルドルフは穏やかに問い、手を組んでゆっくりと首を傾ける。
「以前にも、似たようなことを尋ねに来た方がいらっしゃいましたが……なにぶん、ボランティアで協力してくれる方々が多くて。一人一人を把握できていないのが現状です」
「……しかし、エルという名前には、聞き覚えがありませんな。申し訳ない、協力できなくて」
軽く頭を下げると、ルドルフは再び屋敷の中へと戻っていった。
「はい、どうも。納得しました。では、失礼します」
レンドも形式的に頭を下げ、踵を返すと静かに邸を後にする。
⸻
一方その頃──
ライムは貴族街へと入った瞬間、突き刺すような声を背中から浴びた。
「そこの庶民、止まりなさい!」
思わず振り返ると、そこに立っていたのは……まさに「ザ・貴族令嬢」と呼ぶにふさわしい少女だった。
彼女の髪は陽光を浴びて白銀に輝き、ふわりと流れるプラチナブロンドのロングヘア。その毛先はやわらかくウェーブし、左右には見事な縦ロールが対称に整えられていた。
その瞳は透き通るようなサファイアブルー。見下すようなまなざしには、自信と誇りがこれでもかというほど込められていた。
真っ白なシルクドレスには金の刺繍とレースが丁寧にあしらわれ、動きやすさと優雅さを両立させている。
「何をジロジロと見てますの? わたくしに見惚れていましたの? まぁ、庶民にしては見る目があるのね〜」
高飛車な笑みを浮かべながら彼女は言い放つ。
「そんなことより、ここで何をしているのです? あなたのような者が来る場所ではありませんわ〜?」
ライムはひとつ深呼吸し、写真を差し出した。
「いや、人を探してて……この子。エルっていうんだけど」
その瞬間、彼女の表情に一瞬の変化があった──が、すぐに冷たい笑みに戻る。
「庶民に興味はありませんけれど……その子には見覚えがありますわね。確か……ボランティアに来ていたような?」
「それは本当!? どこで見たの?」
ライムが身を乗り出した瞬間、腹部に衝撃が走る。
「ぐっ……!」
一撃、見事な膝蹴りをくらい、ライムは呻きながらその場に崩れた。
「離れなさい、汚らわしい!」
冷たく吐き捨てると、彼女は腰からレイピアを抜き、キラリと刃を突きつけてきた。
「特別に教えて差し上げますわ〜♪ お父様が主催しているボランティアイベントの準備のために集められた中に? その子、見た気がしますの」
「他にも……似たような年齢の子達がいましたけれど、帰ったかどうかまでは興味ありませんわ〜おほほほ」
最後にレイピアを軽やかに納めると、くるりと踵を返して去っていった。足音は石畳の上で乾いた音を響かせ、やがて小さくなっていった。
「まぁ……情報は得たし、良しとするか……」
ライムは呻きながら立ち上がり、痛む腹を押さえつつ商業地区へと戻ろうとした。
その時──声がかかった。
「おう、小僧。ここには来るなって言っただろ? ……って、どうした、腹を押さえて?」
振り向くと、そこにはレンドがいた。表情にはほんの少しだけ、心配の色がにじんでいる。
「いや……ちょっと、高飛車なお嬢様にやられて……。でも、おかげで情報はゲットできたよ」
痛みをこらえながらも、ライムは小さく笑ってそう答えた。
「小僧、もう夜も遅いし、夫婦のところに行くのは明日にしろ。俺も行きたいが、仕事があるからお前だけで行け。その写真を見せれば、仲間だとわかってくれるはずだ」
そう言うレンドにライムは少し考えてから口をはさんだ。
「それはいいけど、今から依頼料をもらって救出に行けばいいんじゃない?」
レンドは冷静に首を振る。
「今日はもう無理だ。おそらく警備は強化されている。昼間から娘のことを何人も探しているとなれば、簡単に動けるわけがない。だからあえて明日の夜に決行するんだ。だからそれまでに夫婦の元に行って、正式に依頼を受けろ。お金を受け取れば契約完了だ。じゃあ頼んだぞ」
そう言うと、レンドは足早に去っていった。ライムも小さくうなずき、鍛冶屋に向かって歩き出した。
⸻
一方、ルドルフの屋敷の地下では怒号が響いていた。
「おい!エルってガキを探しに何人も来たぞ。親と警備兵だ。お前ら抜かりはないって言ったよな?どういうことだ?」
ルドルフの表向きの冷静な顔は消え、鋭い目つきで護衛たちを睨みつけている。
護衛の一人が震えながら答えた。
「す、すみません…行き先を家族に伝えていたようで…サプライズもあったので誰にも言うなとは伝えていたんですが…」
ルドルフは言い訳を遮った。
「言い訳は聞きたくない。ちょうど飽きてきたところだ。お前たちにやる。使い終わったら処分しろ」
そう言い放つと、ルドルフは地下から離れていった。
護衛たちは互いに顔を見合わせ、小声で囁く。
「本当サンクレーン卿は飽きるのが早いな…」
「ああ、おかげで助かるぜ。処分される前に好きにしていいってさ」
「今日は思いっきり楽しもうぜ!」
そう言うと、護衛たちは牢屋へ向かって歩き出す。
その後、絶望的な少女の声が響いた。
「いやぁぁぁぁ〜!」
⸻
鍛冶屋に戻ったライムは、少し達成感をにじませて言った。
「アカリさん、ただいま。もう正式に決まったから、明日依頼を受けてくるよ」
アカリは安心したように微笑んだ。
「ああ、良かったね。決まって本当に良かった」
「ここにご飯を置いとくから、食べていいよ。部屋は地下の奥にあるから、使ってね。じゃあ、おやすみ〜」
ライムは驚いた表情で聞き返す。
「え?ここで寝るんじゃないの?」
アカリはイタズラっぽく笑った。
「え〜?何期待してたの?エッチだ〜」
そう言いながら、ライムの前に青いクマのぬいぐるみ『ロンリーベア』を置いた。
「残念だけど、私は家があるからそこで寝るよ。でも寂しいならロンリーベアを置いていくね。一緒に寝てあげて」
そう言うと、アカリは笑顔のまま去っていった。
ライムは呆れたように呟く。
「なんだよ…クマと寝ろってかよ」
片手で持ち上げようとしたが、全く持ち上がらない。
「はぁ?全然重くて持てねぇよ。アカリはいつも片手で持ち上げてたはずなのに…」
仕方なく背中に背負うと、ズシッ、ズシッと重みが足元に響く。
「これはまるで修行かよ…」
長い地下への階段を一段一段降りていく。
その時、耳元で小さな声が聞こえた。
「お世話になります」
驚いて思わず叫んだ。
「うわぁぁ〜!?」
勢いよく階段を駆け下りると、疲れがじわじわと押し寄せてきた。
ロンリーベアをゆっくり下ろして、ベッドに横たわる。
「ご飯は起きてから食べよう…もう怖いし疲れた。今日は動きたくない…」
目を閉じて、ゆっくりと眠りに落ちていった。
ライムは、重たいまぶたを無理やり持ち上げて目を覚ました。
部屋は地下にあるため、時間の感覚がまるでない。静まり返った空間に、かすかに湿った空気の匂いが鼻についた。
(もう朝…なのか?)
時計も窓もない空間。仕方なく立ち上がると、ロンリーベアの方からまたもや──
「置いてかないで〜」
ピクリと肩を跳ねさせてライムは後ずさる。
「ま…また喋った!?マジで…!」と呟きながらも、怖さを誤魔化すように無理やり笑って背負う。
(いや、夜中ずっとボソボソ喋ってた気がするんだよな…気のせいじゃないよな…)
ガチリと肩に重さがのしかかり、階段を登るたびに「ズシッ、ズシッ」と鈍く響く音が足元から伝わってくる。
(これ何の修行だよ…)
耳元でまた一言囁かれた気がして「うわああっ!?」と叫びながら最後の数段を駆け上がった。
工房に出ると、まだアカリは来ておらず、ライムはほんの少しホッと息を吐いた。
ロンリーベアを作業台の脇にそっと下ろし、用意された朝食に手を伸ばす。焼きたてのパンと、香ばしいスープの匂いが空腹に染み渡る。
(いただきます…って、さっきまでの怖さが嘘みたいだな)
顔を洗って気を引き締めたあと、ライムは出発の準備を整えた。
(さて、まずは依頼主の所に行かないとな……でも、場所どこだ?)
思わず足を止めると、ひとつ思い出す。
(そうだ、フィオラさんなら知ってるかも)
そうして、街の中心にある「月下の花屋」へと足を向けた。
朝の街はすでに賑わいを見せていた。露店の呼び込み、商人たちの活気ある声、パンの焼ける匂い、どこかから流れてくる異国の楽器の音色──
道端には異世界から来た風貌の旅人が楽しそうに笑いながら歩いており、異世界の街であることを改めて実感させた。
(なんだか、いつもと変わらない日常だな……)
花屋に着くと、まだ店は開いていなかったが、入り口の壁に地図が貼ってあった。
「ご苦労様。ご依頼者はこちら。」とメモも添えられており、ライムは地図を手に取り、笑みを浮かべて向かった。
***
その道中。
日差しが照りつける中、ふと小道の影に、うずくまる小さな人影が見えた。
(……? 女の子?)
近づくと、その少女の服はボロボロに裂け、肌には無数の傷跡が走っていた。身体中が汚れ、髪も乱れている。けれど、その顔には見覚えがあった。
「エル……?」
「だいじょうぶか!?誰にやられた!?」
ライムが駆け寄ると、少女は微かに顔を上げ、かすれた声でこう答えた。
「……サ、サンクレーン……さん……」
ライムの中で怒りが燃え上がる。
「クソ野郎……!」
ためらいもなく背中にエルを背負い、夫婦の家へ向かう。
***
「すみませーん!」
勢いよくドアを叩くと、中から現れたのはエルの父親だった。
ライムと娘の姿を見た瞬間、彼は息を呑み、「おいっ!」と叫びながら妻を呼んだ。
二人の両親は、無言でエルの姿を見つめた。
傷つき果てた娘の体を前に、母親は膝から崩れ落ち、涙を流した。
「どうして…普通に育ってきた娘が、こんな目に……」
ライムはゆっくりとエルを下ろし、その小さな手をそっと握る。
「俺たちが、必ず仇を取ります」
その言葉に、父親は震える手で懐から封筒を取り出し、差し出した。
「……どうか、娘と私たちの恨みを晴らしてください」
ライムは封筒を受け取り、強く頷いた。
「絶対にこの件に関わった奴らは、生かしておきません」
決意とともに背を向け、鍛冶屋へと足を向けた。
***
一方その頃──
治安局。
レンドがのんびりと所内に足を踏み入れた瞬間、鋭い声が響いた。
「ちょっと!ムラサメさん!!」
怒気をはらんだ声で、茶髪の上司・タカオがすごい勢いで駆け寄ってくる。
「あっ、タカオさん。おはようございます」と軽く頭を下げるレンド。
しかし彼は食い気味に言い放った。
「おはようございます、じゃないでしょ!?サンクレーン卿からクレーム来てますよ!『屋敷の周囲を不審者がうろついている』って!」
「え、パトロールのつもりだったんですが……」
「もう言い訳はいいです!今から一緒に謝罪に行きますから!」
「え、えぇ……」
タカオに強引に腕を引かれながら、レンドはしぶしぶサンクレーン邸に向かっていった。
──その背後では、何かが大きく動き出そうとしていた。