沈黙の追跡者3
(前回のあらすじ)
青い鎧の副団長が牙を剥いた。
忠義の象徴だったはずの彼は、なぜミリアに襲いかかったのか?
喋らず、ただ迫るその姿に、誰も“理由”を問うことができない。
逃げるライムとミリア。
立ちはだかるレンドと兵士たち。
理解できぬ“想い”が、静かに、しかし確実に彼らを追い詰めていく。
教会の薄暗い廊下で、レンドと兵士たちは、青い鎧に身を包んだ副団長の前に立ちはだかっていた。彼の全身から放たれる重く冷たい威圧感が、あたりを支配している。その場の空気は、張り詰めていて、兵士たちの間からは小声のざわめきが聞こえてきた。
「やっぱり青い鎧の副団長っていえば…戦況を一変させるほどの武神ぶりで、戦場を駆け抜けるすごい人って話を聞いたことある…」
一人の兵士が、恐怖に顔を青ざめさせながら、かすれた声で呟いた。彼の声は、不安と畏怖が入り混じっていた。他の兵士たちも、その言葉に呼応するように、口々に不満の声を漏らし始めた。
「第二兵団の副団長なのか?」
「いくらなんでも相手が悪すぎる…」
「ムラサメさん、いつものあんたなら真っ先に逃げそうなのになんで逃げないんだよ」
彼らの声は、震えていて、廊下に立ち込める血の匂いが、さらにその恐怖を煽るようだった。
レンドは、その不満の声を聞きながら、平静を装って答えた。彼の声は、かすかに震えているが、なんとか平静を保とうとしているのが見て取れた。
「俺だって逃げたいけど、足が動かないんだよ」
最もらしい言い訳をして誤魔化したが、彼の内心は違った。
(さすがに、小僧を助けるために命をかけてるなんて言えねえしな…)
レンドは、しっかりと長剣を構え続けた。剣の柄を握る彼の掌には、じんわりと汗が滲んでいる。
その間も、教会の外から、タカオが中の様子を覗き込んでいた。彼の顔には焦りの色が浮かんでいる。
「ムラサメさん、早くなんとかしなさい! でも危ないと思ったら逃げなさいね!」
タカオの声は、焦燥感に満ちていて、彼の視線は、副団長と対峙するレンドたちを不安げに追っている。このまま、時間がずるずると過ぎていく膠着状態が続くと思われた。
しかし、ライムとミリアの姿が、完全に視界から消えたその瞬間、副団長の動きが豹変した。それまで微動だにしなかった巨体が、一気に動き出したのだ。
ザッザッザッザ!
その行進は、より一層重く、地面を揺らすかのような音を立てる。副団長がハルバートを一振りすると、夜の空気を切り裂くようなヒュンッという音が響いた。レンドも素早く剣で防ごうとしたが、キン!という甲高い金属音が響いたかと思うと、力負けし、彼の長剣は一気に真っ二つに折れ、床にガシャンと落ちた。その勢いのまま、副団長は猛然とレンドに突進し、**ドォン!**という鈍い音と共に彼を吹き飛ばした。レンドの身体は壁に叩きつけられ、そのまま床に崩れ落ちた。
その光景を見た瞬間、今までどうにか持ちこたえていた兵士たちの緊張の糸が切れた。彼らは恐怖に駆られ、一斉に背を向けて教会の外へと逃げ出した。ガシャン、ガシャンと鎧の音が響き、慌ただしい足音が遠ざかっていく。
副団長は、そんな逃げ腰の兵士たちには目もくれず、その勢いのまま次々とハルバードを振り回し、首を斬っていった。闇の中で、血が飛び散る生々しい音が響き、兵士たちの短い悲鳴が、次々と闇に吸い込まれていく。血の匂いが、一層強烈に鼻をついた。
教会の外からその光景を見ていたタカオは、「ヒィィ…」と小さく悲鳴を上げた。彼の顔は、恐怖に引きつり、青ざめている。だが、彼はすぐに横に急いで逃げると、副団長はタカオには見向きもせず、教会を後にしてライムたちが逃げた神殿の方角へ向かって行った。彼のザッザッザッザという重い足音が、夜の静けさの中に響き渡る。
ライムとミリアは、神殿への道をひたすらに走っていた。夜の闇が彼らを包み込み、教会の方向からは、まだ微かに兵士たちの金属が擦れるような音や、遠い悲鳴が聞こえてくるような気がした。いつ敵が再び現れるか分からない底知れない恐怖が彼らの背中を追い立てる。二人の肺は熱く痛み、荒い息が白い煙となって夜空に消えていく。それでも彼らは、止まることなく必死に足を動かし続けた。アスファルトを蹴る、二人の足音が夜の静けさに響く。
「はぁ、はぁ…もう少しで神殿ですね…ありがとうございます、助けていただいて…」
ミリアが息を切らしながらも、素直な声でお礼を言った。その声は、恐怖から解放されつつある安堵がにじんでいる。
ライムは、顔を少し赤らめ、照れ隠しのように恥ずかしそうに言葉を返した。
「いや、正直、配信は見てるし、あなたに何かあったらアカリに怒られるし…それに、危ない目に遭ってる人はほっとけないしさ…」
彼の声には、本心と少しの照れが混じり合っていた。
「ふふふ…優しいのね。自分も大変な目に遭ってるのに…」
ミリアはそう言いながら、ライムの方を見て、小さく微笑んだ。
そんなやり取りをしているうちに、二人はようやく神殿の入り口にたどり着いた。重厚な石造りの門の前に、一匹の真っ黒な猫が、まるで門番のようにちょこんと座っていた。夜の闇に溶け込むようなその姿は、一瞬見間違えるほどだったが、その目はキラリと光っている。
「あ! テトラちゃんだ! もう大丈夫です、ありがとう…」
ミリアは黒猫を見つけると、改めてライムに深くお礼を言った。恐怖から完全に解放されたのか、彼女の顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「私はミリア・エリザベートです。配信見てくれてありがとうございます♪ あなたならいつでもサロンオフ会に招待するので、ぜひ声を掛けてくださいね♪ あと、お名前を教えてください」
ミリアの声は、弾むように明るく、先ほどの怯えた様子はどこにもない。
「俺はライム…ライム・レヴィアス…。その時は、アカリさんも呼んでいいかな? 大ファンなんだ。さっきもコメント読まれたって喜んでたしさ…」
安堵からか、ライムも少し笑みをこぼした。彼の声には、ようやく肩の荷が下りたような、微かな解放感が感じられた。
「ええ、もちろん…では、私は行きますね。それじゃ、失礼します…あっ、そうだ、ふふふ」
ミリアはそう言うと、可愛らしく笑いながらライムに一歩近づき、突然、彼の身体を抱きしめた。そして、彼のほっぺにチュッと音を立ててキスをした。ミリアの柔らかい唇の感触が、ライムの肌に直接伝わる。彼女から漂う甘く優しい香りが、彼の鼻腔をくすぐった。
「今夜のことは忘れないから…」
そう囁くと、ミリアはくるりと身を翻し、神殿の奥へと向かって歩いて行った。彼女のシスター服の裾が、夜の風にふわりと揺れる。その後、黒猫のテトラも、しばらくライムの方をじっと見ていたが、やがてミリアの後を追うように、彼女の背中を追いかけて行った。
ライムは、自分のほっぺにそっと触れた。まだミリアの唇の感触が残っているようで、彼の顔はみるみるうちに赤く染まり、照れが隠せない。その時、空からポツリ、ポツリと、冷たい雨が降り始めていた。夜の空気は、雨の匂いを僅かに含み、より一層しっとりと感じられた。
一方教会の中は、先ほどの激戦の痕が残り、墨を流したような深い闇に包まれていた。窓から差し込むはずの月の光も、分厚い雲に遮られてほとんど届かない。その暗闇の中、レンドはゆっくりと目を開けた。身体のあちこちが鈍く痛み、特に背中が熱を持っているのが分かる。
(まさか、兵士たちが全滅してるとは…)
横たわる兵士たちのひんやりとした体温と、あたりにこびりつく血生臭い匂いが、彼の鼻腔を容赦なく襲う。その不快感に、レンドは思わず顔をしかめた。重い体を起こし、入り口の方へ向かってゆっくりと足を進める。床を歩くたびに、靴底が血でぬかるむような感覚が足裏に伝わり、ゾワリと悪寒が走った。
道中、兵士が落としたであろう長剣が、床の血溜まりの中で鈍く光っているのが目に入った。レンドはそれを拾い上げ、ずっしりとした重さを確かめるように腰に差すと、教会の外へと足を踏み出した。
外に出ると、ひんやりとした夜の空気が頬を撫でた。教会の入り口の脇に、身体を丸めて震えているタカオがいた。その姿を見つけ、レンドは彼が生きていたことに、ほんの少し安堵した。彼は努めて笑顔を作り、タカオに手を差し伸べた。
「タカオさん、もう副団長はいませんよ。一緒に戻りましょう」
レンドの声は、安心させるように優しかった。タカオも、レンドが生きていたことに一瞬、驚きと喜びの表情を浮かべた。震える手をレンドの手に伸ばし、彼の温もりを感じるように、ゆっくりと立ち上がる。
二人はしばらく、何も言葉を交わさなかった。ただ、お互いの無事を心の中でそっと喜び合っているようだった。
しかし、その沈黙を破ったのは、いつもの調子に戻ったタカオだった。彼は顔を上げたかと思うと、少しばかり非難がましい口調で話し出した。
「今、『戻る』って言いました? 何を言ってるの? 本部に報告が筋ってもんでしょ? そのくらい頭を使いなさい! 私は今回の通り魔のことと、副団長のことを報告書に書くから、あなたが団長殿に報告してください。いいですね?」
レンドは、タカオの突然の言葉に驚いて、思わず目を見開いた。
「えっ? 私ですか? ちょっと、そういうのは上司の役目でしょ?」
彼の声には、戸惑いが隠せない。だが、タカオはそれを聞く耳を持たないように、腕を組んで得意げに言った。
「私は体裁良くこの報告書を仕上げないといけないの! だからあなたに任せます。じゃあ、頼みましたよ!」
そう言い残すと、タカオはレンドの返事を待たずに、さっさと闇の中へと去って行った。彼の足音は、あっという間に遠ざかり、やがて夜の静けさに溶けていった。
レンドは、やれやれと肩をすくめた。心の中では、呆れと、少しばかりの不満が渦巻いている。
(このタイミングでアシュレイに会うのか…気まずいな…)
そう思いながらも、レンドは第三兵団本部へと重い足を引きずりながら、歩みを進めて行く。夜空からは、先ほどよりも少し強くなった雨粒が、彼の顔に冷たく当たっていた。雨の匂いが、教会に残る血の匂いを洗い流すように、徐々に空気を清めていく。
ライムは、冷たい雨が降りしきる中、鍛冶屋へ向かって急いでいた。アスファルトの道は雨水に濡れて黒く光り、時折、大きな水たまりができていた。頭の中では、アカリのことがぐるぐると回る。
(アカリさん、怒ってるかな? 遅すぎるとか言って…ちゃんと理由言って謝ろう…でも褒めてほしいけどな、ちゃんとミリアのぬいぐるみは手に入れたしさ)
頬を伝う雨粒も気にせず、彼は呑気に考え事をしていた。その時、ザーザーと降り続く雨の音に混じって、ザッザッザッザと、どこか規則的な足音が聞こえてきた。
(どこかで兵士が行進してる?)
ライムはそう思いながらも、徐々に近づいてくるその一定のリズムの足音に、少しずつ違和感を覚え始めていた。雨が激しくなる中、ふと道の先の暗がりに、青い鎧姿が横切ったように見えた気がした。雷の閃光が、一瞬だけその青い影を浮かび上がらせたようにも見えた。
(気のせいだよな…?)
ライムが足元の大きな水たまりを踏むと、パシャリと水が跳ね、広がる波紋が収まる時に、一瞬だけ水面に青い鎧の脚元がぼんやりと映り込んだ。その瞬間、ライムの背筋を冷たいものが走り抜けた。
彼が大通りに出ようとした時、ザッザッザッザと、すぐ近くで足音がした。ライムはゾッと背筋が凍るのを感じ、心臓がドクンと大きく跳ねた。
(もしかして、ずっと付いて来てる…?)
そう思ったと同時に、ライムは全身の力を振り絞って走り出した。激しさを増す雨粒が顔に痛く当たり、空からはゴロゴロと不気味な雷鳴が響き渡る。それでも、ザッザッザッザという、あの執拗な足音が耳から離れることはなかった。まるで幻聴のように、一定のリズムで常に彼の頭の中を駆け巡っていく。
(一体なんなんだ? もうミリアはいないだろ? なんで俺の後をつけてるんだ?)
彼は疑問と恐怖に駆られながら、必死に大通りを抜け、人通りの少ない薄暗い路地へと逃げ込んだ。路地の地面は、雨と泥で滑りやすくなっていた。鍛冶屋まであと少しというところで、あの足音はさらに大きく、はっきりと聞こえてくる。
ザッザッザッザ!
真後ろで、地面が揺れるかのような重い足音が響いた。ライムは咄嗟に後ろを振り向いたが、そこに姿は見えない。雨音と雷鳴だけが轟き、誰もいないはずの路地が、まるで生き物のように感じられた。
恐怖のあまり、ライムはたまらず大声を出した。
「いい加減にしてくれ! もうミリアさんはいないだろ? 俺には用がないはずだ!」
彼の声は、雨と雷鳴にかき消されそうになりながらも、路地に虚しく響いた。ただただ、雷鳴と雨の音だけが、彼の耳にこびり付くように聞こえている。
ライムは諦めたように再び前を向いて歩き出した、その時だった。
ドゴォンッ!!
突然、右手の壁が爆音と共に内側から突き破られ、鋭利なハルバードの切っ先がライムに向かって勢いよく飛び出してきた。飛び散る瓦礫の匂いが、一瞬鼻をつく。ライムは驚きに目を見開いたまま、ギリギリのところで正面に飛び退いて、かろうじて直撃を避けた。彼のすぐ横を、ハルバードの刃が風を切るように通り過ぎる。
彼は後退りしながら、素早くリヴォルダガーを構えた。すると、今度は逆側の壁が、先ほどと同じような**ドゴーン!**という轟音と共に突き破られ、全身青い鎧に身を包んだ副団長が姿を現した。彼は壁の破片をまといながら、その勢いのままライムに向かって突進し、**ドォン!**という鈍い衝撃音と共に、ライムを吹き飛ばした。
ライムを吹き飛ばした後、副団長は冷たい視線を彼に向けたまま、壁に突き刺さったままのハルバードを音もなく手にとった。そして、ザッザッザッザという重い足音を響かせながら、ゆっくりと、しかし確実にライムの方へとにじり寄っていく。地響きにも似たその足音は、ライムの恐怖を一層煽った。副団長はハルバードの切っ先を、地面に倒れたライムの喉元にゆっくりと突き付けた。
その瞬間だった。
ゴオォォォッ!
突如として、激しい水流が副団長に向かって飛んでいき、カンッ!という乾いた音と共に、その青い鎧に命中した。しかし、副団長はまるで気にも留めない様子で、微動だにしない。ただ、飛んできた方向へと無言で顔を向けた。
その視線の先には、深い黒のローブを身にまとった魔術師のような男が、すでに次の魔法の構えに入っていた。雨に濡れたローブからは、土と魔力の混じった独特の匂いが微かに漂ってくる。
「急で驚いただろうが、大通りでずっと君の周りを追跡してる鎧姿の男の行動が気になってな。命が危ないんじゃないかと思って、詠唱しながら後を追ったんだ」
男の声は落ち着いていて、どこか知的な響きがあった。
「追って正解だったな。おい! 大男、私が相手になってやるからかかって来い。君は早く逃げなさい!」
そう言い放つと、魔術師はライムに向かって、微かに光を放つ回復魔法を使った。フワリと温かい光の粒がライムの身体を包み込み、全身の痛みがゆっくりと引いていく。
ライムは痛みが和らいだことで、ゆっくりと立ち上がった。彼はリヴォルダガーを構え、決意のこもった目で魔術師に言った。
「ありがとう…でも、俺も戦う」
しかし、魔術師はライムの言葉を遮るように首を横に振った。
「いや、君はいい。さっさと逃げろ。君のレベルはそんなに高くなさそうだ…。私はレベル50だからな。心配するな」
その言葉に、ライムは一瞬ためらったが、魔術師の揺るぎない自信を感じ取った。彼は**「ありがとう」**とだけ言うと、その場を全力で走り出した。鍛冶屋へと一直線に向かう彼の足元を、冷たい雨水が激しく跳ねる。
だが、次の瞬間、ライムの背後で魔術師が詠唱を始めた。呪文の言葉が、雨音と雷鳴の中に響き渡る。その音を聞いた副団長は、信じられないほどの迅速な動きで魔術師に肉薄した。ズシン!と空気が震えるような音が響き、ハルバードが一閃。魔術師の胸を容赦なく貫いた。
ドスッ!という鈍い音と共に、魔術師の身体は大きく揺れ、その口から真っ赤な血が溢れ出した。ライムは、振り返らずとも、背後で起きた出来事を肌で感じ取っていた。なんの迷いもなく、確実に相手を仕留めるその姿に、ライムは改めて底知れない恐怖を感じた。それでも彼は、脇目も振らずに鍛冶屋へと一直線に走り続けた。雨粒が彼の頬を叩きつけ、まるで涙のように流れ落ちた。