万事休す
「何言ってんだ、なっちゃん?」
おじさんは、人のいい丸顔に困ったような表情を浮かべた。
「もう一回聞くよ。あなたは、一体誰?」
「俺は隣のおじさんだ。どうしちまったんだよ、なっちゃん?」
「とぼけないで。あと、気安く呼ばないで。私はあんたなんか知らない。」
「なっちゃん…?」
「思い出したの。隣は、2年前から空き家だって。」
そうなんだ。
隣のおじさんとおばさん、遠くに住んでる息子さんのとこに行った。一緒に住むためにね。
それじゃ、この人は誰?
私は今のいままでとなりのおじさんだって信じてたけど、宮司の真島さんだって、そう思い込んでたみたいだけど、違う。
そして、この気配。
全身をザワつかせるこの感じ。
ウツロ。
おじさんの姿をした何者かは、一瞬黙り込んだ。
すっと表情が消え、眼差しが虚なものになる。
虚なウツロ?
なんかシャレみたいだけど、フッと思ったのはね、だからアイツ、あのヘビの名前がウツロなんだろうってことね。
ウツロって、空っぽのがらんどうって意味じゃない?
あのヘビと土人形。
それにコイツ。
ああ、そうだよね、コイツらはみんな空っぽの何かなんだよ。
マシロサマは、コイツらは掃除屋なんだって言ってた。
空っぽの中身を埋めるために食べるものを求めてる、いつも腹ペコの何かってことなんだ。そして、今コイツが求めてるのは、私の中にあるモノなんだろう。
マシロサマは、ウツロは人間を食べようと思えば食べられるとも言ってたけど、普通は食べたりしないと思う。
コイツが欲しいのは、私の中にあるお父さんの力のかけらだ。
コイツはもう人間には見えなかった。
その輪郭が細かく震えたかと思ったら、色がすうっと抜けて、顔も服も全部が同じ色になる。
溶けたみたいに細かな部分が失われて、顔全体が丸い土色の球体に変わった。
目鼻口は球の表面に埋もれるように飲み込まれ、目と口があったところには3つの丸い穴だけが残った。
え、これってあの土人形だよね?
土ってより泥だけど、花梨に化けてたのとよく似たやつ。
で、でもコイツ、境内では人間の姿じゃなかったっけ?
以前家に訪ねて来て、私を誘い出そうとしたときも、最初は花梨の姿で、神社の結界から出て初めてこの姿になったはず。
どういうこと?
そいつの丸い口が細く細く潰れた。
両端は、耳の辺りまで届いてる。耳はとっくに頭に飲み込まれてるけどね。
その両端がつつって、上に上がった。
笑ってるんだ。
あの時と同じ。
何で!だってここは…?
その時気づいた。
家の玄関は確かに境内の中にある。
だけど、玄関から見て家の1番奥にあるのがこの部屋だ。
玄関までは、1本の長い廊下。
ということは、ここって、結界の…外?!
そいつは、大きな三日月型の口で嗤った。
マズイ!これってすごくマズイでしょ!
玄関へ続く廊下の入り口に、そいつは立ってる。
そして勝手口は、そいつの右だ。
反射神経には自信があるけど、逃げ道はどっちも泥人形を掠めて行かなくちゃいけない。
いや、これ、ムリでしょ!
泥人形のニタニタ笑いが更に大きくなる。
余裕ってカンジ?
手招きすらしようとしてない。
コイツって、見かけによらず素早いのは前回、花梨に化けてた時にわかってた。
飛ぶような速さで進んでった、花梨の後ろ姿が目に浮かぶ。
今はそこに突っ立ったまま、私が逃げようとするのを待ってるんだ。
確実に仕留めるタイミングを見計らって。
どっちの出口に向かうにしたって、コイツのリーチ圏内だ。
周りに武器になるようなモノはない。
でも、何もしないでやられる気はない。
何か、なんでもいいから、使えそうなものは?
いつだったか、学校で先生たちが、侵入者を取り押さえる訓練してたよね。
あの時、確か…。
一歩踏み出すと同時に、私は両手で椅子を掴んだ。
あれなんて名前だっけ?先生たちが訓練で使ってだヤツ?
そうだ、さすまたっての。
アレには長い柄が付いてるけど、椅子にはそんなモノはない。
でも。
私は椅子の背もたれを身体の左にして、両手で座面を掴んだ。
4本の脚を前に向けてね。
そのまま、まっすぐアイツに突っ込む。
脚がどこに当たったか見てる余裕はなかった。ただ、人型の粘土にでも突っ込んだような、グニュっとした感触があった。
重くて、少し湿ったカンジ。
そのまま左に向けて、体当たりするように力を込めた。
泥人形が、ぐらっと揺れる。
回転するように椅子を離して、ヤツの横をすり抜けた。
やった!
このまま境内まで、結界の範囲まで逃げ切れば!
ダッシュするために軸足に力を込めた瞬間、視界の端を何かが掠め、私はその場で動けなくなっていた。
前にも後ろにも進めない。
どころか、手足を動かすことも出来ない。
パニックになりそう!ナニコレ!?
頭は動かせなかったけど、目だけは動かせる。
身体を見下ろして、ザワッっとした。
泥色の何かがあちこちに巻き付いてる!
それは、何かの太い触手みたいに見えた。
締め付けられる感覚。
手足や胴体、首にまで、それは巻き付いて私の自由を奪っていた。
ゲームやアニメなんかではよくあるシーンなんだけど、実際にこうなるとおぞましさは格別だ。
こんなの、絶対リアルで体験したくない!
触手から伝わるひんやりした温度。
ギッチリと巻きつかれた圧。
やばいヤバい!
逃げようにも、身体のどこも動かせない!
ギシッと一回軋む音。
触手がほんの少しキツく締まる。
最初から身動きできないくらい締め付けてたから、そのほんの少しが問題だ。
特に、首に回されたソレが締まる感触は、言いようもないくらい怖い。
これ、詰んだ?
首が締まって息がしにくい。
頭が熱い。
顔が膨れ上がったみたいに感じる。
ヤバい…、もう一回締め上げられたら!
コイツ、私をどうする気なんだろう?
私の中にあるお父さんの力を奪うには、多分私を…殺す。
目の前に、コイツの土色の顔が、にゅうってカンジで突き出された。
近い。三日月型の口がニヤニヤ嗤う。
それに、この臭い!
湿った池の泥のにおいが漂ってくる。
泥だけじゃなくて、何が腐ったような、得体の知れない臭気も混じってて。
気持ち悪い。吐きそうだ。
チラッと思ったのは、コイツはお母さんには興味がないんだろうってこと。
コイツが欲しいモノ…食べたい物は、私の中にしかない。
コイツは精霊を喰うんだ。
ギシッて軋んだのは、触手みたいなこれじゃなくて私のアバラ骨。
息が肺から押し出される。
頭がガンガンして、視界が少しせまくなったみたいな感じだ。
首に巻き付いた触手モドキもじわっと締まった。
子供の落書きみたいなソイツの顔は、じっと私の顔を見てる。
ニタニタ嗤いが変化した。
三日月型なのは口だけじゃなく、両方の目も三日月になってる。
口と反対に、両端が下がった三日月。
楽しんでるんだ、コイツは。心底。
そう思ったら、崖っぷちの場面なのに腹が立ってきた。
なんで、こんなヤツに…⁈
なんでコイツがまた生き残ってんの!
椿さん、全部片づけたんじゃなかった?
マシロサマにも言われてたじゃない、眷属まで駆除しなさいって。
ほんっと、残念な人だよね。
詰めが甘いって、こういうことじゃん。
でも今はお願いだから!椿さんっ!
助けてっ!助けてください!
もう、なりふりなんてかまってる余裕は1ミリもなかった。
死にたくないよ…。
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