Medium
「それでさあ ウチが飼ってた犬を多摩川で散歩させてたらね」
紬は私に向かって犬の話をしながら、3限の体力測定に備えて着替えている。放課後に備えてジャージで登校してきた私は、4限の宿題と睨めっこしながら、片手間に紬の話を聞いている。
「葵ちゃん、その問題はまず微分して接線求めないと解けないよ」
いつものように紬が私の勉強の面倒を見てくれる。私が睨んでいたのは、いつも誰も解けないような宿題の最後の方にある難問だから、私は最初から解こうとしていた訳じゃなかった。みんな解けないような問題で、私がノート提出したらきっと先生に誰かにやってもらったことがバレちゃうし、優等生として先生に当てられるようになっても困るから、私にとってはありがた迷惑だった。
偏差値50くらいの、どこにでもある普通の女子校。私は紬の個別指導を無視して、馴染みの深い喫茶店やカラオケチェーンが取り壊され再開発が進む渋谷の様子を、5階の教室から眺めていた。2050年。「足並みを揃えよう」というスローガンが掲げられた近年、日ごとに伸びていく鉄骨は、いったいどこへ向かっているのだろう。
「1500メートル走嫌だなー」そんな声と陰鬱な表情がグラウンド中を席巻する中、紬はニコニコしながら、ずっと私の横で何かを喋り続けている。
「葵ちゃんってどんな人がタイプなの?」この手の話題は、暇を持て余している女子校の内側ではありふれた話題で、共学に対する愚痴と一緒に、消費され続けているネタだ。
「横川海斗くんが好きだって私ずっと言い続けているでしょ! あんた他に話題ないの?」横川海斗は二十歳の国民的アイドルだ。仲が良かった一年前からずっとこのやり取りを続けているのに、どうして飽きないのだろう。他に話題はないのだろうか。
「ええ、何がいいの? あんな特徴のない顔の」
「特徴がないから良いんだって。このやり取りもう何回目?」
「今どきの子っぽいね。ウチは桜王子の中だったら、どちらかといえば佐藤尊の方が好きかなあ。目元にある黒子がマジで」
「佐藤尊はそれがコンプだから眼鏡にしたってこの前言っていたでしょ。」私は条件反射的に紬の言葉を遮った。中高とサッカー部で、今もフットサルを大学で続けている正統派の筋肉質イケメンプリンスがグループの中で人気すぎて、バラエティでは大抵横川くんしか見ないというのに、この女は何故そんなに逆張りしたがるのだろう。
「ウチら一緒に走ろうねー。」周りを見渡すと、仲良し同士でそんな事を言い合っている。どうせ片方が裏切って周回差をつけ、終わった後に言い合いになるような、使い古された展開が果たして起こるだろうか。紬の運動神経はある程度知っているから、賢い私は意味のない吹っ掛けはしない。
笛の音と同時に、クラスの半分の20名弱が走り出す。教室の窓から横川くんみたいな人がニヤニヤと見下ろしてくるならやる気になるのになあ。横川くんどころか男すらいない限界女子校で、一体誰がこの白ジャージの群れを好奇な目で眺めるのだろう。周りを見渡すとみんな全力を出さずに群れている。これはイケメンがいないからだろうか。それとも最近の流行りのせいなのだろうか。
グラウンドを4周したあたりで、群れの周りから吐息が聞こえるようになってきた。同じバスケ部でキャプテンを張っている理沙は一切疲労の色を見せないが、かといって群れを出し抜こうともしない。そんな中、
「ウチまだまだいけるで。ギャハハハハ!」エセ関西弁のノリと一介の女子高生らしくない狩猟民族のような声をあげて、紬が猛スピードでこの羊の群れを出し抜き始めた。
「ありゃ、ちいかわのウサギだなあ。」理沙がボサッと言った。
「ちいかわ?親世代じゃん。ウケる」群れが笑い声で包まれる。
紬はトラックの反対側で、満面の笑みで駆け抜ける。あっという間に私たちに周回差をつけるも、未だ全速力だ。
結局、私たちは紬の単独ゴールから2分遅れてゴールした。胸が苦しい。息ができない。一斉にゴールしたから、水道には東南アジアのバザーと見間違えるほど長蛇の列ができている。そんな中、紬だけが涼しそうな顔で腕をぶらぶらさせている。
「お前ら集まれー」水を飲む間もなく、加藤先生が集合の声をかける。この女子校に赴任して十年近く経つ、名物女教師。私たちバスケ部の顧問。昨年結婚して名字を高橋から改めた。
「お前らそんなに息切れしとるが、全力出したんか?」
「熱中症で死にそうです!先生!」膝に手を当てたわざとらしい姿勢で、理沙が同情を誘う。
「嘘つけ!お前!」加藤先生が全力でキレた。
また皆が笑った。それは、先生が本気じゃないのを知っているからだ。
「まあまあ。お前らもすっかり現代っ子だなあ。足並み揃えて走りおって。それに比べて紬は何やっとるん。野蛮人かて」なぜかこの時、加藤先生はガチトーンで、クラスがふと静まり返った。
三年前、内閣が全面的に打ち出した「Medium」という言葉によって、社会は少しずつ変わっていった。身近なところで言えば、受験のシステムが大きく変わった。学業が優秀な生徒でも、昔ほど難関と言われる大学を目指す傾向は無くなった。今や高倍率を誇るのは東大でもFランでもなく、偏差値50前後の大学。私の女子校は、その大学群のうちの一つで、ほぼ全員が内部進学で大学に進学できる。そんなうちの高校が昨年、とんでもないことを言い出した。「総合成績のうち、中央値に近い学生から、優先的に学部選択の権利を与える」と。これといった取り柄もないと思われた私たちの高校の宣言文は、瞬く間にネットニュースの話題となった。一部では、同大学出身の首相への忖度だとも言われた。予備校業界やSNSの学歴マニアは顔を真っ赤にして批判したが、その熱もすぐに世間の波に飲まれた。
「葵ちゃんは良いよね。この前まで『行きたい学部に行けない』とか言ってたのに。今じゃウチがウチの大学に行けなくなりそうよ」紬は笑いながら言う。
勉強もスポーツも容姿も、何もかもが平凡すぎるうえに、何かに熱中しているオタクでもない。小学校では「名前がイマイチ覚えられない子」と言われたくらい無個性の私が、今じゃ学年のトップに立っている。いや、厳密にはトップではない。Mediumだ。私たちの学校では、トップと言う言葉が、なぜかMediumという意味として通っている。廊下に張り出されている成績順位が書かれた張り紙を見ると、私の名前が恥ずかしげも無くデカデカと真ん中に描かれ、それを取り巻くように生徒の名前が書かれている。円周上にまるで虫のように小さく、紬の名前が書かれていた。
「ワロタ。時代に取り残されてんぞ」軽いノリで返すが、ちょっぴり寂しい。紬ちゃんが劣等生として扱われてしまうなんて。私に「トップ」なんて肩書き、ちっとも似合わないのに。普通でいたかった。
宮益坂を登って、一通の細く入り組んだ路地を進んだところに、私たちの家がある。築40年の古い団地は渋谷区役所の公務員宿舎で、区役所に勤める両親のもと、私は生まれてからの17年間を、この団地で過ごしている。
玄関を開けると、お母さんが既に帰ってきていたらしく、リビングで掃除機をかけていた。無印の白い掛け時計、無印の白いテーブル、無印の白いソファ。リノベーションされた我が家は、建物の年季を感じさせないほど快適で、生活感がなく、人の家にあがった時に感じるような匂いはしない。それは綺麗好きでこまめなお母さんのおかげだろう。ただいまと言ってそのまま部屋へ入ろうとしたら、「葵!」と呼び止められた。
「すごいじゃない。担任の先生があなたのことをすごく褒めていたわよ。」
「なんでこうなるのよ。うんざりよ。クラスのみんなにそんなこと言われ出して。今までこんな目立ち方したことなかったのに。」
「さすが私たちの娘だわ。まっとうにあなたを育ててきた甲斐があった。あなたはずっと無個性だって自分のことを卑下していたけど、それが結局一番良かったのよ。世間様も私たちの価値観を段々と理解するようになってきたのね。」
意味が分からない。政府は何を言い出したのだろう。トップじゃなくてMediumがいいなんて。「十人十色」だとか、「みんなちがってみんないい」とか、そんなことが有り難く言われ続けた時代はどこへ行ったのだろう。小学校の頃は、ピアノができる晴子ちゃんにお母さんのことを話したときも、母は「あなたはそのままでいいのよ。」と私に言った。私はランドセルの色をみんなと同じ赤ではなくラベンダー色で登校していた純恋ちゃんにも憧れた。他にも私は、アレルギーで給食の時間に牛乳ではなくりんごジュースを飲んでいた蓮兎くんの特別さに憧れていたし、お母さんがモデルをやっている珠理奈ちゃんにも憧れていた。私には驚くほど何もなかった。だけど、お母さんは小学生女子の流行を瞬時にキャッチして、私が気後れしないように可愛い服を買ってくれた。「最近の小学生はこういうのが好きらしいわね。」と、私が特に興味があるわけでもないアニメも知らぬ間に録画予約していて、暇な時間はそれを見て時間を潰したりしていた。そのおかげで、何の特徴のない私の周りには、友達がたくさんいた。根っこの方では地味で空虚なのに、いじめみたいな人間関係で悩んだことは一度もなかった。中学生になるにつれ、私は母が今までやってくれていたことを、全て自分でできるようになった。特に興味があるわけではないのに、続々とデビューするアイドルやタレントの情報をいち早く捕まえたり、流行りの漫画を単行本で買うより先に本誌で読んだりすることができた。中学生の時、私は陸上部だったが、チアリーディング部に所属している、恋愛の噂が絶えないような女子と仲良くすることもできたし、美術部の女子の間で流行っていた、声優や二次元男性アイドルの話題にもキャッチアップできた。目立つキャラではなかったが、中学時代も相変わらず友達が多くて、友達のお兄ちゃんの話から、少年誌やグラビアアイドルの話に対しても精通していた。何者でもなかったが、充実したと言える学生生活が送れたのは、お母さんの影響であるところが大きい。
「葵は、駅徒歩○分っていうとき、それがどういう基準で決められているか知ってる?」
何の脈絡もなく、お母さんは言った。
「徒歩1分80メートルで計算されているのよ。この基準は、健康な女性がハイヒールを歩くときの速さを基準にしているらしいわ。」
「へぇ」特に興味のない話題。熱弁する母に対し、私は適当な相槌を返す。
「つまり、この速度で歩くことが、『正解』ってわけ。ハイヒールを履いた女性かどうかに関わらず。」
「は?」私は思わず返す。
「歩く速さに正解なんてあるわけないじゃない。せっかちな人だったら、徒歩1分100メートルで帰る人もいるし、のんびりしている人だったら50メートルかもしれない。」
「いいえ。100メートルだったら速すぎるし、50メートルだったら遅すぎるわ。あなたがその速さで歩くということは、不動産会社が作った基準を無視することになるのよ。」
「別にいいじゃない! そんなの無視したって。」お母さんは普段こんな馬鹿みたいなことを言わない。一体どうしちゃったのだろう。
「不動産業界は、この基準を勝手に変えて、分速85メートルとかで解釈すると処分されるらしいわ。これくらい厳格に決められたルールなのよ。これがどういうことか分かる? 住宅や都市が設計されるときは、徒歩80メートルで歩く人のために設計されるということなのよ。」
「それがなんだっていうわけ!?」お母さんがこんな話をするのは、職業病なのだろうか。私は公務員がどういう仕事なのか、ちっとも知らないけれど。
「あなたが分速80メートルで歩かないということは、あなたのために作られていない街を生きるということなのよ。どこかへ行くとき、スマホでルート検索をするわよね。そのとき、徒歩10分で着く予定だったのに、20分かかったら困るじゃない。逆に速すぎても、時間を持て余すことになるわ。そのとき、誰もルート検索の運営者に文句を言えないわよ。なぜなら、人は分速80メートルで歩く生き物なんだって、決められたのだからね。」
いきなり何を言い出すのだろう。いつからこの話になったんだっけ。
「海外に行った時に、日本語がどこにも書かれていなくて怒る人がいたら、あなたはどう思う? その国の言語を持っていないその人が悪いと思うわよね。それと理屈は同じなのよ。言葉じゃなくて、身体も精神も頭脳も、全部言語なのよ。世界を、みんなと同じように、普通に認識すること。それが世の中に存在する絶対的な真理なのよ。」
「それじゃあ、一昔前にたくさんいた、東大を目指してめちゃくちゃに勉強に励んでいる高校生とか、世界の真理を追っかけている哲学者とか、ユニークなギネス記録の獲得を目指している芸人とかはどこへ行っちゃったの?一番だとか頂点を目指す風潮とか、MENSA会員ってだけですごいとか持て囃された時代はどうなったのよ?」
「ああ、私が高校生くらいの頃は、個性があるってだけで注目されて、羨ましがられた時代だったのよ。奇抜で変わった表現をして話題を呼べば、『いいね!』がついてコメントがついて、フォロワーが増えて、人々とつながることができた。私もその頃は、サイレントなマジョリティーであることが、さも思考停止で恥ずかしいことであるような気がして、誰にも理解されない可哀想な異端児を演じようとしたわ。でも本当は心の奥底で気づいていたのよ。異端や個性は、本人にとっては正しいとしても、公共の面前では何の正当性もないということを。多くの人と同じ世界観を共有することが大切なのよ。つまり、一つのリンゴと一つのリンゴがカゴに入れられたら、ちゃんと二つに見えるということ。それが三つに見えるなんか言い出す人がいたら、その時点で議論にすらならないわよね。私の同級生でもいたわ。勉強が大好きで、東大を目指しているという子。どうやら『解像度が上がる』のが楽しいらしいけど、受験勉強や哲学で解像度を上げて、まるでトンボの複眼を持っているかのように、多くの人が見るように世界を見なくなって、本当に解像度が上がったと言えるのかしら。そういう人ほど『リンゴは3つある』とか言い出すのかもね。他人から世界がどう見えるかなんて、誰にも分からないのよ。自分の視点でしか世界を見ることはできないからね。だからせめて、周囲と同じくらい勉強して、同じくらい娯楽を楽しんで、同じように映画やドラマを評価する努力をし続ければ、Mediumでいる努力をし続ければ、多数決になる度に、自分が正当であることを認識できる。世界がMediumのために構築されていく。それでいいのよ。何者かになる必要なんて、快適に生きていくために一切必要じゃないわ。」