祈りにも似た強い願い
「むーーっ! んーーっ! ん〜〜……!?」
「ほら、息は小さく細かく吸って、ゆっくりはいて……」
「んーーっ、すっ、すっ……ふーー……」
母親が膝立ちになって、椅子の背を両手で強く掴んでいる。
口には手ぬぐいをくわえて、歯が傷むのを防いでいた。
オレと父親が部屋に入った最初のうちは、穏やかに話し合ったり、父親と母親がキスを交えたスキンシップをしていたりした。
陣痛の間隔が短くなり、破水が起こってからは、徐々にその余裕はなくなり、そして……
「もう少しだ、頭が出てきたよ、ほら、息んでっ!!」
「……んんんっ!!」
「……んなぁ んぎゃー!! ぎゃーー!!」
赤ん坊がズルリと現れて、シズネさんが大事そうにそっと受け止める。
産声が聞こえた瞬間、オレの体から力が抜けて、隣に立っていた父親に寄りかかってしまう。
いつの間にか手をつないでいたのか、父親の手がオレの手をギュッと握りしめている。
その握られた父親の手から伝わる緊張は……まだ、解けていなかった。
「バーレンシア男爵、この子をお願いします。次の子もすぐに見えてきますから!!」
次の……子?
「ええ、わかりました」
父親がオレとの手を離して、シズネさんから生まれたばかりの赤ん坊を受け取る。
用意してあった湯で濡らした手ぬぐいで、優しく赤ん坊をふいていた。
ふき終わると、バスケットに柔らかい布を敷き詰めて作った小さなベッドに横たわらせる。
「はぁはぁ……ふーーっ! すっ、すっ……」
母親が再び息み始める。
まだ、そのお腹の中に、この世界に生まれてくることを待っている命を抱えていたのだ。
つまり、母親は双子を身ごもっていたらしい。
先に生まれてきた子のぐずり泣く声と母親の苦しそうなうめき声が部屋に響く。
「がんばれ、大丈夫、もう半分は終わったから、後半分だ」
「すっ……、すっ……ふぁーーっ!」
真剣な顔つきでシズネさんが励ましの声をかける。母親は必死な呼吸をしながら、力強く頭を上下に二度振って答えた。
シズネさんが母親の額から頬に流れる大粒の汗をぬぐう。
一人目の子が生まれてから、どのくらい経ったのだろうか。
時間の感覚には自信があったが、それを打ち砕いてあやふやなものになっていた。
前世の記憶があっても、産科医でもなければ医大生でもなかったオレに、出産に関する知識などほとんどない。
あったとしても、ろくに役には立たなかっただろう。
ここは争いのない戦いの場だった。
ただ『命を継ぐ』という、古く神話の時代から続いている終わりのない戦い。
情けないことに、オレは緊迫した雰囲気にすっかり飲まれてしまい、ただ、荒く呼吸する母親を見つめていた。
反面、情けない自分の陰にどこか客観的で冷静な自分もいた。
そう……なかなか生まれて来ない二人目に対し、シズネさんの顔に焦りの表情が浮かび始めていることに気づいていた。
双子を産むということは、ただ出産を二回行なえばいいというものではない。出産を二回続けて行なわなければならないのだ。
例えるなら、マラソンを二回走るのと、二倍の距離をマラソンするのでは必要となる体力はぜんぜん違うだろう。より多くの体力が必要となるのは、もちろん後者だ。
双子を出産するということは、そういうことなのだと思う。
「限界だ……これ以上、時間をかけるのは危険だね」
倒れそうになる何かを必死に支えるような声で、シズネさんが静かにそう宣言した。
父親と母親の視線が交差し、ちらりと二人がオレの方を一瞬だけ向いた。
「バーレンシア男爵、切開の準備はいいかい?」
「ええ……」
握り締めていた父親の手がするりと離れた。
切開……?
切開とは、読んで字のごとく「切り開く」ことだ。
その準備?
ああ、父親が切れ味の良さそうな鋭い刃の短剣を取り出した。
何を? 何を切る?
聞こえてきた言葉が、きちんと処理できない。
シズネさんに支えられながら、母親がベッドへと寝かされる。
と、シズネさんがオレの前にやって来た。
「ユリアちゃん、お母様が近くに来て欲しいって」
オレはシズネさんの手で背中を押されるようにして、母親の横たわるベッドの近くに寄せられる。
「はぁはぁ……ユリィちゃん、あのねっ……」
「なに? お母さま?」
痛みを堪えながら、じっとオレの目を見つめる。何かを決意した強い眼差し。
「お利口さんのユリィちゃんに、こんなこと改めて言うまでもないかもしれないけど……。
これからも、あの人やロイズさんの言うことをよく聞いていい子でいてね?」
「…………」
「それと、今日生まれる二人のいいお姉さんになってあげてちょうだい」
「…………」
「……ユリィちゃん? お返事は?」
「わ、……わかりました」
「うん、ありがとう……それと、ごめんね……」
何が?
どうして?
そう聞き返しそうになった。母親が今、その言葉を言う必要は……必要があるとしたら、それは……
「あなた、子供たちをお願いね……?」
「ああ……マリナ、手ぬぐいをかんで……」
帝王切開。
簡単に言えば、母体を切って赤ん坊を取り出す医療技術。
前世の世界においては、自然分娩よりもずっと安全な出産方法となっていた。
「んんんんっ〜〜!!」
そう、医療技術が十分に発達した前世の世界においては、だ。
麻酔は? この世界の医療技術は、そこまで発達しておらず、そんな薬は普及していないのかもしれない。
なら、魔術は? ……オレは、生まれてから、自分以外の誰かが魔術を使っているのは見たことがない。
ーー何かしらの理由で、ルーン魔術の利用が制限されているとしたら?
母親が必死に痛みに耐えている。
麻酔の代わりになるような薬も魔術もない状況。危険な帝王切開という手術。その先にあるのは……?
「……んぎゃぁ、んぎゃあ」
わきあがる新しい産声、それと同時に糸が切れた操り人形のようにぐったりしている母親。
血を流している母親に、誰も何らかの処置を施そうとしない。
父親は、ただ静かに意識のない母親の髪をなでている。
シズネさんは、生まれたばかりの赤ん坊を抱き上げて、新しい手ぬぐいで体をぬぐっている。
このまま、オレも何もせず、母親を放置したら……
「《ガーナクト アム・ア・イド ゼーレール(大いなる力は手と心に宿る)》」
周りに人目があることも忘れ、オレは無意識のうちにルーンを紡ぎ始めていた。
まず、オレが唱えたのは、ルーン魔術の効果を増幅させるためのルーン魔術だ。
オレの体内にある魔力が活性化していくのが感じ取れる。
心の奥底、魂と呼ばれるものからコンコンとわき出る何かが、体からあふれんばかりに満ちていく。
その証拠に、オレの両手が淡く白色に輝き、精神が微かな高揚感に包まれる。
「お父様、少し下がってください」
オレの気配に圧されるようにして、父親が母親の寝ているベッドから離れる。
左手でポケットから翡翠のルーンストーンを取り出し、魔力を流し込む。ルーンストーンが緑光の明滅をする。
「《リザ・ド・フィムーラ シェレーヤ(癒やしの風よ吹け)》」
右手の五指を大きく広げ、母親に当てて魔術を使う。
母親を中心とした暖かな風の渦が発生し、傷を癒やしていく。
「《リザ・ド・フォーラ ロフーヤ(癒やしの水よ巡れ)》」
続けて、体から失われた血液を補充して、体内の回復力を高めるためのルーン魔術を使う。ゲーム的に言えば、毒や失血といった状態異常を治す効果の魔術だ。もっとも、この魔術自体も体の内側から徐々に傷を癒やす作用がある。
即効性があり、瞬時に外傷を治す風属性の回復魔術と遅効性だが状態異常を治して治癒力を高める水属性の回復魔術の併用だ。ゲームであれば、この魔術によってどんなキャラクターでも全快していた。
三つのルーン魔術を唱えて少し冷静さを取り戻す。同時に心の中に不安が芽吹く。
オレが初めて魔術を使えることに気づいてから、約二年半で、様々なルーン魔術の訓練と実験を行なった。
攻撃魔術は【一角獣の加護】のせいで使えなかったが、次に使う機会が少なかったのが対人を対象とする魔術だ。
対人を対象とする魔術、その最たるものが回復魔術だろう。
ゲームで使われていた回復魔術の基本は、キャラクターの怪我や疲労の程度を表す体力と呼ばれる数値の回復と、毒や麻痺、失血といったキャラクターに不利な影響を及ぼす状態異常の解除がある。
ルーン魔術は、使うルーンによって、それらの効果を重複させたり、消費する魔力と効果の効率を考えて魔術を作ることができたが、結局の所ゲームのデータ上での変化でしかない。
キャラクターの体力という数値と、健康状態という文字、その二つだけで表されていたからこそ、回復魔術の効果はそれだけで十分だった。
しかし、現実を生きている人物は、プログラムでできたキャラクターとは違う。
ここで一人で内緒の訓練をしていたデメリットがあった。
人相手に回復魔術の実験をしようとしたら、自分で自分の体を傷つけるしかない。
いくら治せるからと言っても、自傷するにはためらいがあった。
対象が不適正でルーン魔術が失敗する前提で、魔術の構成の確認や発生の練習はしていた。
つまるところ、どの魔術でどれだけの怪我が治せるのか? オレにとって、回復魔術はまだ実践が足らずに未知が多すぎる。
先日、ジルの足の怪我を治したのがオレが初めてきちんと使った回復魔術であり、今回が二度目の実践となる。
併用した魔術は両方とも成功したと思う。血で濡れているからわかりにくいが、切った痕はふさがっているようだ。
しかし、母親の顔に生気が戻らない。
ええと、こういうときは、どうすれば…………あ!
「《モア モァール ティス テラール(瞳が見る躯を知る)》
キャラクターの状態を確認するためのルーン魔術を思い出して、即座に使う。
オレの脳内に母親の現状が、情報化されて浮かんできた。
——対象:二十代女性/状態異常:衰弱(大)、昏睡、出産直後、血流停止、体温低下。
意識がなく、血の流れが止まっている。
考えられるのは、心肺停止状態!?
「《パム・ド・ロフーム バスノ(時の流れに逆らわず)……」
死者の蘇生……そんなだいそれたルーン魔術を使うつもりはない。
人は、呼吸や脈拍が止まっていても、まだ死んでいないというのは前世の世界で常識として確立された事実だ。
本来は人工呼吸や心臓マッサージを行なう場面だろう。しかし、今のオレにはルーン魔術がある。
「……バク ルータノ(戻るに在らず)……」
思いつくままにルーンを繋ぎ、即興で魔術を作り上げる。
もし、この魔術に意味がないと言うならば、オレはオレとして転生した意義を失うだろう。
いや、そんなモノはどうでもいいんだ……助かって欲しい。祈りにも似た気持ちで強く願った。
オレはまだ、貴女に何も返せていないんだ。
「……イフ・ド・ライーラ アニーヤ(命の灯よ燃えろ)》っ!!」
「……ぐふっ、けほけほ……」
ルーンを唱え終わると同時に強い光を放ちルーン魔術の効果が発揮された。
母親が咳き込み、頬に赤みが戻る。
それを見た瞬間、極限までに張り詰めていた緊張が緩んだのか、今度はオレが意識を失った。