グロリス・ワールド
テレビとパソコンの区別がなくなり、ただマルコン(マルチビジョン・ネットワーク・コンピュータの略)とだけ呼ばれる機械が次世代映像受信機と言われなくなった時代。
ゲームと言えば、マルコンを利用したネットゲームのことを示す。据え置き型のゲーム機は、もはやスゴロクと変わらない、古き良き「おじいちゃん・おばあちゃんが子供だったときの遊び」となっていた。
複数人同時参加型のネットゲームは、ソフトの販売や公式サイトのバグサポートはもちろん、すべてがマルコンで処理されるようになって久しい。
そんな第何次目かわからないネットゲーム全盛期。「もっとも有名なゲームは何か?」とゲーム好きのプレイヤーに質問すれば、十人中八人は、『グロリス・ワールド』と答え、一人が『メモリー・オブ・アザー・ワールド』と答えるだろう。
『グロリス・ワールド』、正式タイトルは『メモリー・オブ・アザー・ワールド』。『異世界の思い出』とでも和訳されるタイトル。今から約五年前にリリースされた、全世界でもっとも有名なネットゲームだ。
『グロリス・ワールド』とは、『メモリー・オブ・アザー・ワールド』の総合デザイナーであるグロリス・アーケディア氏から名付けられた通称であった。
公式リリース前からテストに参加できたユーザーの、各種ブログやSNSの投稿で絶賛を浴び。当時の最先端コンピュータ技術を用いて、精密に創られたゲーム世界は、“世界でもっとも美しい世界”という流行語を生んだ。
満を持して、公式リリースを迎えて、グロワー中毒者を世界で何万人も作り、国によっては専用の法律が新設されて規制までされる事態になり、ゲームに興味がなかった人を含め、社会的に認知された。
リリース当初は、月額六〇ドル、当時の日本円にして約八千四百円という、やや高額な定期料金制にも関わらず、グロリス・アーケディア氏がつくりだした『グロリス・ワールド』の世界に惚れ込んだ熱狂的なファンを生み出した。
そういった根強いファンや加熱するゲーム業界への投資の結果、『グロリス・ワールド』は、たゆまぬ運営と更新がなされ、精力的に進歩していった。
多くの複数人同時参加型のネットゲームがそうであるように、『グロリス・ワールド』でもモンスターとの戦闘が楽しめる。そして、『グロリス・ワールド』の独自の戦闘システムとして、ルーン魔術が実装されていた。
ルーン魔術とは、“ルーン”と呼ばれる特殊な言語を使った魔術という設定で、ゲーム中、すべてのキャラクターは、このルーンを詠唱し、魔力を消費することで魔術を行使できるというものであった。
ただ、その設定だけならば、今までの従来のゲームと変わるところはない。『グロリス・ワールド』の画期的であったところは、このルーンは、それ自体が確立した言語であり、言葉を組み合わせて文章を自由に作ることができ、プレイヤーが独自に魔術を研究し、創造できることだった。
ルーンを組み合わせる順番、消費する魔力の量、詠唱する際の抑揚に、発生させる効果のイメージなど、ルーン魔術はプレイヤーと発想の数だけ無限の可能性を秘めていた。一部のプレイヤーは、新しいルーンの組み合わせを考案しては、より強力な魔術を、より利便性の高い魔術を創りあげることにハマったのだ。
大杉健太郎も、そんな『グロリス・ワールド』の熱狂的なプレイヤーの一人であった。
彼は奨学金を使って、無事に大学に入学し、新入生だったときに大学で知り合ったクラスメイトから勧められるがままに『グロリス・ワールド』をはじめ、どっぷりとゲームの虜になってしまった。
『グロリス・ワールド』の世界は優しく、ゲームの世界にログインしているときは、彼のコンプレックスでもあった現実のことを忘れさせてくれた。
健太郎の少し変わったところは、攻撃魔術と呼ばれる魔術には一切見向きもせず、支援魔術と呼ばれるプレイヤーを回復させたり、強化する魔術のみを創造し続けているところにあった。
他人を助けることで活躍するプレイヤーというならば、よくある遊び方だ。例えば、一緒にモンスターと戦いに向かい回復役に徹したり、初心者の戦いを見守りながら支援魔術で援護だけをする壁役となったり。
健太郎の遊び方は、それらのケースには当てはまらない。彼の興味の中心は、効率の良い支援魔術の創造とその利用の追求だった。
まれに知り合いと一緒に、モンスターと戦いに出ることもあったが、それはあくまで魔術の研究の実践であり、検証のためであった。
反面、支援魔術の使い手としての健太郎は、一人で三人分の働きをすると評価されて、彼と一緒にモンスターと戦うと効率が五割増しになると言われていた。そのため、付き合いが悪いにもかかわらず、他のプレイヤーからよく戦いの誘いがあったり、連絡先の交換をしないか?と誘われることが多かった。
もちろん、中には真面目な付き合いをしてくれる人からの誘いもあっただろうが、その手の勧誘をするプレイヤーは、健太郎のことを“効率の良い道具”として扱いがちだった。
段々とその手のプレイヤーとのやり取りが面倒になった健太郎は、ごく一部の知り合いや気の合うプレイヤーとだけ交流するようになった。
ゲームをやめたり、完全に交流を断たない程度には、彼は他人との付き合いを嫌ってはいなかったし、『グロリス・ワールド』にのめり込んでいた。
深夜アルバイトの帰り道。
寝る前に少しログインできるかなと、急ぎ足で帰り道を歩いていた健太郎を、トラックのヘッドライトが強い明かりで照らした……。
次の瞬間、ガッ、ドンッという鈍い音とともに、健太郎は自分の身体が強く突き飛ばされる感覚を受け、意識を失う。
トラック運転手の過労による事故。罪状としては、業務上過失致死。
裁判による判決は、懲役二年六か月、執行猶予は四年となり。現行の法律に比べ、かなり軽い判決となった。
それは、被害者の大杉健太郎に遺族が居なかったこと、被告人であった運転手がまだ若かったことによる、裁判官の温情であったが……交通法の罰則をより厳しいものにしようとしている風潮に反する判決であり、世論を騒がせることになった。
しかし、その判決も世論もこの物語には一切関係ない。
関係するのは、ネットゲームが大好きだった大学生、大杉健太郎と呼ばれた彼が、現実での短い生を終えたということである。
ドォクン、ドォクン……
——温かい…………。
オレは、確かトラックにぶつかりそうになって……と、そこまで考え、その後の記憶がないことに気づく。
意識はあるが、まるで夢見ているようにボンヤリと考えがまとまらない。
ドォクン、ドォクン……
手足も上手く動かすことができない。事故のせいだろうか。
ドォクンと、太いチューブで水をポンプで押し出すような音が聞こえる。
辺りは暗く、身体は暖かな液体に包まれているようだ。
以前、ニュースで見た有機ナノマシンカプセル治療というものだろうか。
確かあれは、特殊な液体が入ったカプセルに医療用有機ナノマシンを投与して、患者を細胞レベルで治療する技術とか言っていたと思う。
つまり、オレはそれだけの重体になっているのだろうか。トラックに激しくぶつかったのだから、命があっただけでも幸いかもしれない。
けれど、それだけの考えをまとめるだけで苦労した。
苦労という表現は、少しばかりふさわしくない
今の俺は、自分自身について、ボンヤリと想像することしかできない。
そのボンヤリと想像することに、すごく時間がかかるのだ。
『Ooooo……Ooo……OooOOOOoo……』
ノイズ交じりに遠くから、外国語のような会話や歌などが聞こえてくる。
ドォクンという音のせいで上手く聞き取れないが、なんとなくオレに語りかけてくるような、そんな気がする。気のせいかもしれないが。
すごく穏やかな気持ちだ……。
周りの液体は温かく、オレは、ゆっくりと揺られるように浮かんでいる。
それがまたオレを穏やかな気持ちにさせ、意識が夢と現を行ったり来たりする。
もしかすると、誘眠作用がある薬品が液体に混ぜられている可能性があった。
それくらい寝ても寝てもすぐに眠くなる。オレは短い間隔で覚醒と睡眠を繰り返す。
もちろん、体を治すのが最優先だと考え、できるだけ眠気には逆らわず、身を委ねて楽にした。
そして、オレは突然の押し込まれるような流れに巻き込まれ、カプセルと思わしき場所から追い出された。
身体を捻じるような痛みとヒヤリとした外気を感じ、息を吸い大声で……
「ほぎゃぁ、おぎゃーっ、おぎゃーっ!」
もらした声は、明確な意味を持った言葉にならなかった。