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1945年〜1999年

1945年10月1日


国際連合が大日本帝國の大阪に発足した。インド洋会談で大日本帝國首相の提案が受け入れられた結果であった。





『国際連合発足に先立ち、8月5日には[名古屋会議]が開かれた。名古屋会議ではインド洋憲章を数個の決定事項を追加した[国際連合憲章]として可決した。[国際連合]は国際連盟の失敗を考え、平和の維持を目的に、安全保障理事会の権限を強化したものであった。安全保障理事会の下した結論は、総会よりも優越され、常任理事国の権限強大化に繋がったと言われている。国際連合は大東亜共栄圏を真似て、多数決制を取り入れた。大英帝国やフランスは[拒否権]を導入する事を提案。しかし大日本帝國がそれに猛烈に反対した。「大東亜共栄圏を真似るからには多数決制を固持するべきだ!!」と美香女帝が烈火の如く怒った。その怒り様は凄まじく大英帝国・フランスは味方の筈の、大日本帝國に睨まれ慌てて[拒否権]提案を取り消した。こうしたゴタゴタがあったが、何とか国際連合が発足した。安全保障理事会では、大日本帝國・大英帝國・フランス・オランダ・トルコが常任理事国となった。更には非常任理事国10ヵ国が任期2年で参加した。』

阿久津茉莉著

『国際連盟から国際連合へ』より抜粋






1946年


大日本帝國は、大規模な兵力の削減を行った。さすがの大日本帝國と言えども大戦の様な戦力を、恒常的に保有し続けるのは難しかった。何せ大戦中に『軍備投資税』と言う間接税を新設した程である。それに東の敵アメリカ連邦は賠償金と国内復興に、経済力を注いでいるので軍備増強は行っていない。その為、対ソ連に対する軍備を残しての削減であった。雲龍級は20隻の内、13隻が予備役となった。戦艦も例外ではなく、最早時代遅れとして大和級3隻は予備役に、長門級・紀伊級・伊勢級・金剛級は記念艦となった。また、第二次世界大戦中に建造が開始された葛城級3隻が竣工した。葛城級は雲龍級の拡大改良型で、飛行甲板に装甲を施した最初の空母である。また『戦略空軍』が『空軍』として正式に発足したのもこの年である。超重爆撃機富嶽と局地戦闘機を主力とした軍隊であった。更にこの年の5月1日〜5月3日にかけて、満州国駐留の関東軍は『日満安全保障条約改定』に伴い、『関東軍特別大演習』を開始した。そして12月10日には国際連合総会にて、『世界女性宣言』が全会一致で採択された。





1947年


5月の国連総会で『パレスチナ分割案』が決議された。これにより大英帝國領であったパレスチナを、ユダヤ・アラブ両国に分割する事となった。これは大日本帝國の強い主張によるユダヤ人贔屓の分割案であった。これにアラブ側は拒否したが、ユダヤ側が受け入れた為、11月にイスラエルが建国された。この年には、国家安全保障法が帝國議会で可決。第二次世界大戦中に設立された帝國情報局(TZK)が、帝國対外情報捜査局(TTZS)に拡大設立された。更に年の瀬も迫った12月27日に、メキシコが南北に分裂した。北メキシコはアメリカ連邦やソ連等西側諸国と友好関係を築こうとする『メキシコ民主主義人民共和国』、南メキシコは大日本帝國や大英帝国等東側諸国と友好関係を築こうとする『メキシコ民国』をそれぞれ建国された。






1948年


大日本帝國は世界初の、原爆実験に成功した。実験場所は、ビキニ環礁である。標的にされた鉄塔は、跡形も無く消滅した。時代は大日本帝國の東側陣営と、ソビエト連邦の西側陣営との冷戦時である。大日本帝國の原爆実験成功は、西側陣営に対して強烈な出来事だっただろう。この年の1月に第一次中東戦争が勃発。パレスチナ分割案に基づき建国したイスラエルに、それを認めないアラブ諸国が侵攻したのだ。結果は大日本帝國と大英帝國の軍事支援を受けていたイスラエルが完勝。アラブ側は大敗し、パレスチナ分割案以上に土地を奪われる結果となった。




1949年


続いて大日本帝國は、水爆実験にも成功。場所は原爆と同じく、ビキニ環礁で行われた。昨年の原爆、そして水爆実験により、大日本帝國の戦略は、核兵器を運用出来るか否かが軍そのものの、存在意義を左右する問題となった。そのため核爆弾を搭載可能な大型機を搭載、運用を目的とした超大型空母秋津洲を海軍連合艦隊は計画、発注した。しかし、勝負は空軍に軍配が上がった。超大型空母秋津洲は、起工から僅か5日後に建造中止となったのだ。秋津洲は『空軍が沈めた唯一の自国空母』と言われた。この事態は海軍の存在を揺るがす大事件に発展し、退役提督の山本今日子大将を筆頭に激しい反対運動が行われた。これは鈴木新聞に『提督たちの反乱』と名付けられた。




1950年


大日本帝國海軍関係者には喜ばしい、戦争が勃発した。メキシコ戦争である。遂に北メキシコが『祖国統一』を掲げて、南進を開始したのであった。この事態に大日本帝國は、国際連合総会で『北メキシコの侵略に対する報復案』として国連軍の派遣を提案した。西側諸国が加盟していない国連は最早大日本帝國の独壇場であった。此れにより総会で賛成多数により可決。続く安保理では、僅か5分で可決された。これにより大日本帝國は、美香女帝の命令で予備役の雲龍級を含めた全艦船を動員。メキシコ戦争へ全面介入した。大和級3隻も再役し、制空用の空母1隻とミサイル巡洋艦10隻・ミサイル駆逐艦10隻の第7艦隊を編成。メキシコ西海岸で艦砲射撃を開始した。





1952年


メキシコ戦争は国連軍の勝利となり、メキシコの共産化は防がれた。このメキシコ戦争で、海軍に対する風向きが変わった。大日本帝國海軍は秋津州と同規模の超大型空母の建造を帝國議会に提案。美香女帝はそれを無条件で許可し、更なる『海軍拡充計画』を開始した。これが天城で、本級4隻が現代に至る大日本帝國海軍の超大型空母の原型である。大日本帝國海軍の方針は『空母無用論』から『空母有用論』になったのである。この方針転換には理由がある。メキシコ戦争で空軍の腑甲斐なさが、露呈したからである。





『空軍の主力はジェット戦闘機空龍とジェット爆撃機富嶽であった。しかし富嶽はハワイから攻撃出来るも、空龍は南メキシコ駐留の部隊が出撃するしか無かった。しかしこれは、航続距離の観点から戦場では満足に戦えなかった。しかも北メキシコ軍のゲリラ攻撃を受け、飛行場が破壊される事もあった。富嶽による爆撃も集中した攻撃は無理であり、従来の絨毯爆撃しか行えなかった。しかしこれも北メキシコの精巧なダミーを破壊しただけで効果は少なかった。そんな中で効果を上げたのが、海軍の空母部隊である。アングルドデッキの無い大戦型で、ジェット機の事故は多かったが、空母艦載機の攻撃はピンポイントで効果があった。この海軍の活躍が、空母の大量保有の要因となっのである。更に[九尾狐]と[黒帽]もメキシコ戦争に投入され、ゲリラ狩りを行った。アメリカ連邦も北メキシコを支援したかったが、太平洋戦争で大日本帝國に国内経済を崩壊させられた為、とても介入出来る大量は無かった。賠償金の支払いと国内経済再建に財政の殆どが回されたからである。それでも民間企業は義勇軍を組織し、ソ連から直接ジェット戦闘機を購入して北メキシコの支援を行った。しかしその甲斐もなく、北メキシコは敗北。大日本帝國を主力とする国連軍に占領され、南メキシコ主導で南北が統一された。第二次世界大戦停戦後初の、代理戦争は大日本帝國の勝利となったのである。』

宮川増子著

『メキシコ代理戦争』より抜粋






1953年


大日本帝國外務大臣吉川由衣が『巻き返し政策』を提唱。メキシコ戦争にソビエト連邦・アメリカ連邦の軍事支援があるとして、共産圏諸国との軍事対決を行う政策である。自由主義圏諸国には、経済的・軍事的支援を更に行う事も政策の中に含まれていた。






1954年8月25日


世界初の『原子力潜水艦富士』が就役した。世界に名だたる大日本帝國海軍連合艦隊が待たしても、世界最強の潜水艦を建造し、実戦配備したのである。『何でも世界一』の称号を有する大日本帝國海軍連合艦隊だけに、更なる威信上昇に繋がったのである。




『そもそも[原子力艦]の構想は第二次世界大戦中にドイツが世界初と言われている。[潜水艦大国]と潜水艦だけは世界一のドイツが、ウランが核分裂を起こす際に生まれる力を使った爆弾を研究しており、この時に潜水艦の動力源として原子炉を使うアイデアが発案された。しかしウランさえ確保出来にくい戦時であり、特に大日本帝國戦略空軍の本土空襲も激化しており、とても原爆開発に資金を使える状況では無かった。そして戦後、TZKが入手したドイツの[原子力潜水艦構想]について連合艦隊は研究を始めた。そのような流れで1954年8月25日にS1S型加圧水型原子炉を搭載し、世界で最初の原子力機関を使った発電で推進する軍艦、[原子力潜水艦富士]が就役したのである。S1S型はSが潜水艦のSで、1は1番目の設計、Sは鈴木商店傘下の鈴木機関で、それぞれに意味がある。原子力潜水艦富士はその後、1954年12月6日に浮上状態で初の臨海運転を行った。そして翌年1月8日に初めて原子力を使って潜航した。この時に富士が連合艦隊司令部に送った、〔おはよう帝國、本艦原子力にて航行中。〕と言う電文がその日の新聞の一面を飾った。富士はその後1956年に世界で初めて北極点を、潜航状態で通過した。』

根本美代子著

『原子力空母開発への歴史(上)』より抜粋






1955年


大日本帝國は美香女帝が退位し、友希子女帝が即位した。第12代である。大日本帝國は、雲龍級の10番艦までと葛城級3隻に近代化改装を行った。アングルドデッキが設置され、カタパルト・エレベーターの改良が施された。雲龍級の残る10隻は、5隻が対潜空母に、5隻が強襲揚陸艦に改造された。対潜空母に改造する理由は、増大するソ連海軍とアメリカ海軍の潜水艦に対抗する為であった。アメリカ連邦海軍はソ連から中古中型潜水艦を購入し、太平洋艦隊に続々と配備を始めた。両国海軍の潜水艦部隊に大日本帝國海軍連合艦隊は、その存在感と圧倒的な対潜装備で対応した。そしてこの年、秋津州の改良型として、天城が竣工した。天城は大戦後に建造された、最強の空母である。飛行甲板は最初からアングルドデッキとなり、エレベーター4基は全て舷側配置とされた。艦橋も主船体の外に大きく張り出した構造で、これによって飛行甲板は広くなった。アングルドデッキにも、蒸気カタパルトを装備する事によって、合計4基となり発艦効率は上昇した。





1958年


東側陣営盟主大日本帝國は東京条約機構(TTO)の結成を宣言。西側陣営盟主ソビエト連邦はワルシャワ条約機構(WTO)の結成を宣言。両陣営が軍事ブロックを結成して対決する、世界的な冷戦構造が出来上がった。またこの年に、大日本帝國は世界初となる、『国民皆保険制度』を帝國議会で満場一致で可決した。そして国家財政の6割を占めていた軍事費を、4割へ削減すると発表した。この両政策の裏には毎年増大していた自殺者が、今年になり1万人を超え、国民生活が困窮していた事が理由にあげられる。これには友希子女帝が国民に対して、正式に謝罪。国民の生活向上に、努力すると発表した。




1960年


大日本帝國・大英帝國・ソビエト連邦・ドイツ第三帝國・アメリカ連邦の5ヵ国首脳によって、ジュネーブ五巨頭会談が行われた。この会談は、世界的な緊張緩和の動きを、促そうとするものであった。しかしこの会談も虚しく、大日本帝國とソビエト連邦は、核兵器開発や宇宙開発などによって、激しい競争を展開した。10月1日には大日本帝國によるハワイ占領期間が終結し、アメリカ連邦に返還された。





1961年3月9日


ソビエト連邦が有人宇宙飛行に成功した。これを受け大日本帝國は、月面着陸を60年代の内に成功させると宣言した。更に6月4日には世界初の原子力空母秋津洲を完成させた。かつて、空軍に沈められた空母が原子力空母として、蘇ったのである。





1962年


世界はハワイ危機により、第三次世界大戦が勃発する直前までになった。アメリカ連邦がハワイにミサイル基地を建設した事が、航空偵察により発覚したのである。



『大日本帝國はアメリカ連邦に、ハワイに配備したミサイルの撤去を強硬に迫ったのである。しかしアメリカ連邦はそれを黙殺。更に多くのミサイルをハワイに配備すべく、輸送船団を組織した。「最早対話の余地無し」と結論付け、ハワイの海上封鎖を宣言した。海軍が保有する全ての空母打撃群をハワイ周辺に配備したのだ。原子力空母秋津州にとってはこのハワイ危機が初出撃となった。しかしアメリカ連邦は輸送船団の出港を延期しただけで、またしても黙殺した。実はアメリカ連邦はソ連のクレムリンから、「絶対にミサイルを撤去するな」と言われていたのである。多額の賠償金を支払わされていたアメリカ連邦にとっては仕返しでもあった。アメリカ連邦の対応に遂に大日本帝國がキレた。友希子女帝は海軍に[九尾狐の派遣をし、アメリカ連邦ミサイル基地の破壊せよ。]との命令を下した。早速海軍は九尾狐第1部隊隊長の派遣を決定。強襲揚陸艦でハワイまで派遣した。第1部隊は単独潜入が主な任務であり、敵に存在を気付かれずに対象を破壊するのである。まさに今回のミサイル基地破壊には、もってこいの部隊であった。しかも隊長が直々に派遣される為、第1部隊の威信もかかっていた。ハワイ近海に到着した強襲揚陸艦は、空母打撃群と合流した。第1部隊隊長は「小型ゴムボートで夜間に上陸し、2時間で破壊する。」と宣言した。空母打撃群司令長官は驚いたが、第1部隊隊長が直々に宣言した事を受け入れ、作戦を見守る事にした。第1部隊隊長は小型ゴムボートに乗り込むと、ハワイ島に上陸した。そして丁度2時間後、ハワイ島全体を揺るがす程の爆発が起こった。此れには空母打撃群司令長官も驚いた。まさか1人で本当にミサイル基地を破壊するとは思っていなかったのである。最悪の場合を考え、空母打撃群司令長官は連合艦隊司令長官からの命令通り、空襲準備を整えていた。それが1人でミサイル基地を破壊したのである。空母打撃群司令長官は改めて九尾狐・海軍奇襲特殊部隊群の実力を評価した。しかし本当に驚いたのはアメリカ連邦とソビエト連邦であった。ミサイル基地が突如として爆発したのである。しかし大日本帝國海軍連合艦隊が攻撃を行った気配は全く無い。そこへ友希子女帝が声明文を発表した。「アメリカ連邦はミサイル基地を撤去しなかった為に、天罰が下ったのである。この天の助けを受け、帝國はアメリカ連邦に更なる要求を続ける。ハワイへミサイルを配備するのを止めよ。もしハワイへミサイルを新たに配備しようとすれば、帝國は実力を持って排除する。」この声明文がアメリカ連邦とソビエト連邦の考えをひっくり返した。アメリカ連邦はハワイへのミサイル配備を取り止める事を発表した。ソビエト連邦は反対したかったが、ハワイのミサイル基地破壊の証拠が掴めなかった為、無闇に反対出来なかった。もし反対すれば自国のミサイル基地も、大日本帝國の天罰が下ると考えた為であった。此れによりハワイ危機はアメリカ連邦のミサイル基地が[自爆]した事で、幕を下ろした。しかし東側陣営と西側陣営の溝は、このハワイ危機を切っ掛けに更に深まり、軍拡を増進させる結果となった。九尾狐第1部隊隊長は後に活躍を聞いた大英帝国のエリザベス女王から、[BIGMOTHER]の称号を授かった。この称号は世襲され続け、第1部隊隊長で尚且つ帝國の危機を救った活躍をすれば授かれるようになった。』

小池妙子著

『ハワイ危機』より抜粋






1966年2月26日


タイで社会主義派による、軍事クーデターが勃発。政府関係者は処刑され、社会主義政権が樹立された。この事態は『2・26事件』として、大日本帝國はもとより東側諸国を震撼させた。





『大日本帝國は直ぐ様、軍事制裁を決断。海軍連合艦隊空母打撃群の半数を派遣、大和級も現役復帰させた。此れにより第7艦隊が再び編成され、51センチ主砲が火を噴く事になった。この軍事制裁には、大東亜共栄圏諸国も参加。海軍・空軍はもとより陸軍も攻撃を開始。今までは味方であった大日本帝國を敵に回した代償は余りにも大きかった。高空からは海軍の艦載機と空軍の爆撃機による攻撃を受け、更には大和級の艦砲射撃も始まった。その支援を受け、陸軍がタイに侵攻。タイ社会主義連邦軍は全滅。僅か2週間でタイ社会主義連邦は降伏した。その後再び、タイは民主主義政権が樹立された。』

林真央著

『タイ戦争』より抜粋






1967年


エジプト・シリア・ヨルダンのイスラエル包囲網を打破する為、イスラエルが侵攻を開始。第二次中東戦争が勃発した。イスラエルの電撃的な侵攻により3ヵ国の対応は遅れ、イスラエルはシナイ半島・ゴラン高原・ヨルダン川西岸・ガザ地区を占領。イスラエルは支配地域を一挙に5倍に拡大した。第二次中東戦争は僅か、1週間で終結した。




1968年


人類は初めて、月面に立った。かぐや計画は大成功を収めたのである。この計画の成功で、大日本帝國の宇宙進出は更に増大。人工衛星の打ち上げも、世界最大のものとなっていった。






1970年


ソ連がチェコスロバキアに軍事介入を行った。昨年来からチェコスロバキアでは、民主主義運動が盛んに行われており、民主主義派によるクーデターが計画されていた。通称『プラハの春』である。これを察知したソ連が軍の派遣を決定。ドイツ第三帝國・イタリア・ポーランド・ハンガリー・ブルガリアも共同で軍を派遣。チェコスロバキア全土を占領。民主主義派を処刑した。これにチェコスロバキア国民は抵抗したが、結局は屈服。チェコスロバキアの民主主義化は頓挫した。この様な民主化抑圧もあったが、大日本帝國はソ連との国交正常化を図った。これにより、10月2日に日ソ共同声明が調印。即日実現され、日ソ国交正常化が成された。この日ソ超大国同士の国交正常化は、鈴木商店による貿易増加要請が大きかった。政権与党の自由党としては敵国との国交正常化はしたくなかったが、自由党が選挙に勝つには強大な組織票を有する鈴木商店の後援が必要であった。その為日ソ国交正常化へと動いたのである。大日本帝國の国交正常化はその後、他の枢軸国側にも進み冷戦終結の兆しが見え始めた。





1975年


当時の中野真帆総理が、金と円の交換停止を発表。世に言う『円危機』である。これにより円の価値が急激な下落を見せた。円は大日本帝國や大東亜共栄圏の通貨でありながら、同時に国際基軸通貨でもあった。その円の信用が大きく下落した。





1978年


円の下落により、世界は変動相場制に移行。為替相場を市場取引に委ねる制度を採用した。この変動相場制への移行が、大日本帝國の真の目的でもあった。為替相場を市場取引に委ねるこの制度は、大日本帝國帝國銀行の市場介入を活発化させ、世界の金融市場は間接的に大日本帝國の支配する事となった。大東亜共栄圏と中華帝國にはこの真意を伝えていたが、それ以外の国には全く伝えていなかった。それらの国が大日本帝國の真意に気付いた時には手遅れで、帝國銀行の市場介入により金融市場が大日本帝國に間接的に支配された後であった。





1979年


第三次中東戦争が勃発。エジプト・シリアによる先制攻撃により、イスラエルは打撃を受けるが直ぐ様反撃を実行。また駐留していた、大日本帝國空軍の火龍戦闘機がシリア空軍に大勝するなど、側面支援を実行。これにより、エジプト・シリアが再び敗走。イスラエルの勝利となった。また、アラブ側は中東戦争の度に石油禁輸を行ったが、大日本帝國・大英帝國など東側諸国も産油国であったため、アラブ側が狙った石油危機は起こらなかった。


1980年


昨年のソ連のアフガニスタン侵攻により、世界は新冷戦と呼ばれる時代に突入。東側陣営、特に大日本帝國は一大軍拡時代を迎えた。第15代の由里香女帝とその妹中曽根曜子総理大臣が『強い大日本帝國』を唱えて、対ソ連強硬政策を推進した。『平和の為の即応力』を掲げ、海軍連合艦隊の拡充を行ったのだ。計画は『シーパワー2000・600計画』と言われている。ようは、2000年に600隻の現役艦船を確保する計画であった。1980年現在、400隻の艦船が現役である。この計画には、タイ戦争後に予備役となった大和級3隻の再々復帰も含まれていた。世に言う『600隻海軍』構想である。中曽根政権発足から2ヶ月後。原子力空母大鳳級・イージス巡洋艦愛宕級・イージス駆逐艦雪風級・強襲揚陸艦東京級・原子力潜水艦赤城級の建造がスタートした。原子力空母大鳳級は2000年までに、10隻の建造を予定している。またこの年には、第二次世界大戦勝利の立役者である雲龍級が全艦退役した。そして葛城級も全艦退役した。




1981年


『シーパワー2000・600計画』に伴い、大和級3隻の近代化改装が始まった。




『大和級3隻の近代化改装には、帝國議会で激しい議論が行われた。「何故時代遅れの戦艦に大金を費やして改装しなければいけないのか?」これが反対派の意見であった。そこで中曽根総理は反対派への説得を行った。「世界的な冷戦時である今、大日本帝國は西側諸国に対してあらゆる面で優位に立たなければいけない。特に軍備(核を含めた)と経済の両方で。しかし、これに対して西側諸国も対抗してきます。私達は望まなくても、彼女達の理論で核戦争に巻き込まれるかも知れません。これを抑える為に、核でも空母打撃群でもない[切り札]、はっきり言えば[脅し道具]が必要なんです。そこで、かつて太平洋戦争ハワイ沖海戦でモンタナ級3番艦ユナイテッドステーツを旗艦とする、支援艦隊をたった1隻で全滅させた大和、及びその姉妹艦の武蔵・信濃に近代化改装を行い、核攻撃にも耐えぬき、あらゆる航空機からの攻撃にも耐えぬき、現有する世界のすべての戦闘艦に勝利する、[最強戦艦]として復活させるのです。この3隻の[切り札]、いえ[脅し道具]を大日本帝國が保有する事により、必ずや冷戦に勝利出来るでしょう。そしてこの法案を可決させた、皆様の名前が、後世の歴史に残るのです。」この演説が、反対派を動かした。帝國議会で満場一致で可決され、大和級3隻の近代化改装は認められたのだ。しかし、竣工からかなりの年月が経過していたため、老朽化が進んでいた。そのため3隻全ての、近代化改装は大規模なものとなった。第一次近代化改装(1981年〜1983年)では、老朽化部分と兵装の更新を行った。老朽化部分は切断し、レアメタルを使用した新型装甲に変更したのだ。兵装は、主砲と副砲を残し、速射砲を撤去。ミサイルを新型に更新したのだ。第二次近代化改装(1983年〜1986年)は、イージスシステムの搭載と電装関係の更新・原子力機関の搭載。老朽化していない、非老朽化部分の新型装甲への更新を行った。イージスシステムは、開発者がギリシャ神話好きであったため、イージスと付けられた。二度に渡る近代化改装は、大和級3隻を世界最強のイージス原子力戦艦として寿命を伸ばしたのだ。大和・武蔵・信濃は近代化改装終了と共に、大日本帝國海軍連合艦隊に復帰。大和級3隻が現役復帰を成し遂げた事により、第7艦隊が常置される事になった。第7艦隊は連合艦隊の中で唯一、番号を使った艦隊である。大和級3隻の現役復帰を含めて東側陣営は、再びその軍事力において西側陣営を上回ったのである。また空軍は富嶽の指揮権を海軍に譲渡。富嶽は元々、海軍が開発を始めたものであり、これは正当な行為であった。』

大内南美著

『シーパワー2000・600計画』より抜粋







1987年


大日本帝國・大英帝国・中華帝國・フランス・ソビエト連邦・ドイツ第三帝國・アメリカ連邦・イタリアの主要海軍国首脳が、大日本帝國大阪に一同に介した。大阪に集結した理由は大日本帝國の提案した『攻撃型潜水艦保有全廃条約(KSHZ)』についての会談である。大日本帝國が『シーパワー2000・600計画』で戦略潜水艦しか建造しない為、世界主要海軍国も戦略潜水艦しか保有しないようにしよう、と言う考えで召集したのである。此れには潜水艦大国のドイツ第三帝國が猛烈に反対した。しかしドイツ以外は素直に賛同し調印を決めた為、ドイツは孤立する事になった。大日本帝國はドイツを説得し、戦略潜水艦は無制限保有を認めた為、ドイツも漸く了承した。此れにより『攻撃型潜水艦保有全廃条約』は調印された。





1991年


イラク軍がソビエト連邦の支援を受け、クウェートに侵攻した。大日本帝國は、大和・武蔵・信濃の第7艦隊と天城級・秋津州・大鳳・龍鳳・瑞鳳の空母打撃群を投入した。第7艦隊は艦砲射撃と、巡航ミサイル攻撃を行いイラクの経済を崩壊させた。空母打撃群は空襲を行った。イラク本土へは、大日本帝國を中心とする西側陣営軍が侵攻した。2ヶ月後、イラクは降伏した。イラク戦争を天城級は最後のご奉公とし、退役した。しかし、疑問が残った。現書記長のゴルバチョフ女史は、改革派である。ペレストロイカやグラスノスチを行おうとし、ソビエト連邦の民主化・自由化を推進していたのだ。その理由は、2年後に分かった。10月に大日本帝國政府は、ZKS(全地球観測装置)の民間解放を行った。





1993年


アンナプーチン女史が、KGBと軍を率いてクーデターを起こしたのだ。これにより、ゴルバチョフ書記長は処刑された。プーチン女史は、書記長と大統領職を合わせたソビエト連邦女帝としてソビエト連邦を支配した。ソビエト連邦は、プーチン女帝の支配により暗黒の時代が訪れた。男性は人間性を否定され、女性による男性レイプが横行した。男性売買により、富豪になる者も現れた。世界は大日本帝國率いる東側陣営と暗黒時代を迎えたソビエト連邦率いる西側陣営の冷戦が続いている。





1999年


世界は20世紀最後の年を、迎えるのである。










次回は、2000年を迎えた大日本帝國を書きます。                        ようは次回から、本編が始まると言う事です。                           早くて20日になります。                        第七独立機動艦隊と空母大和も書かなくてはいけませんから。

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