1940年〜1945年
1940年1月1日
第二次世界大戦は、枢軸国側の奇襲攻撃で始まった。この枢軸国一斉奇襲攻撃は、後に『ニューイヤースネークアタック』と言われている。ソビエト連邦・ドイツ第三帝國・イタリアは、トルコに攻め込んだ。アメリカ連邦は大西洋艦隊と太平洋艦隊で、トラック島へ攻撃を仕掛けてきた。
『トラック島への奇襲攻撃は、大日本帝國海軍連合艦隊の誇る戦艦部隊を壊滅に陥れた。空母エンタープライズ・ヨークタウン・ホーネット・レキシントン・サラトガ・ワスプの合計6隻を配備した、海軍史上初の機動艦隊がトラック島に奇襲攻撃を仕掛けてきたのである。アメリカ連邦海軍はこのトラック島奇襲に全力を注いだ。何せ戦う相手は[大日本帝國海軍連合艦隊]である。この連合艦隊と戦うからには正攻法で戦うと確実に敗北する、連合艦隊の主力戦艦部隊は鉄鋼艦の遺伝子を受け継ぐ強敵である。アメリカ連邦海軍幹部達は連日の会議を行った。そしてアメリカ連邦海軍太平洋艦隊司令長官エレノア大将が直々に作戦を立案した。それが[空母集中戦法]であった。太平洋艦隊のみならず大西洋艦隊の空母を集中させ、トラック島を奇襲させようと言うのである。しかしそれでは大西洋ががら空きになってしまう。海軍長官や大西洋艦隊司令長官等、幹部達は猛烈に反対。エレノア長官は幹部達に粘り強く説得を始めた。説得を続ける中でエレノア長官の提案は、コーネルハル最高人民議会議長にまで届いた。ハル議長はエレノア長官案の採用を決定。大西洋艦隊司令長官に空母を出すように命じた。そこでエレノア長官は空母を出してもらう代わりに戦艦を全て大西洋艦隊に配備する事を提案した。この[空母・戦艦交換配備]はすんなりと決定され、大西洋艦隊は戦艦を主力とする[打撃艦隊]に、太平洋艦隊は空母を主力とする[機動艦隊]となったのである。機動艦隊が編成された事により、太平洋艦隊はトラック島奇襲攻撃の練習を開始した。しかし本命の雷撃機による攻撃は、無理だと言う結論に至った。雷撃機が投下した魚雷は18メートル〜20メートル程海中に沈んでから、海上1メートル〜2メートルまで浮上して敵に突撃する仕組みとなっていた。所がトラック島の『富士湾』は水深10メートルであり、雷撃が無理な深さであったのだ。此れによりエレノア長官は雷撃機による攻撃を切り捨て、急降下爆撃に攻撃方法を統一した。その為空母には護衛戦闘機と爆撃機による半分半分の搭載としたのである。そして1939年12月19日。アメリカ連邦海軍太平洋艦隊は大日本帝國海軍連合艦隊の前線基地であるトラック島へ向けて出撃したのであった。』
フローラネバラル著
『トラック島を奇襲せよ』より抜粋
『トラック島奇襲攻撃は、SADドーントレス爆撃機の独壇場であった。ドーントレスの急降下爆撃は、脅威的な命中率を誇り、大日本帝國海軍連合艦隊の戦艦部隊を壊滅させた。そしてF4Fワイルドキャットが、大日本帝國海軍・陸軍航空部隊も壊滅させた。九七式戦闘機と九八式戦闘機は、赤子の手を捻るかのように叩き落とされた。長門・陸奥・紀伊・尾張・伊勢・日向・扶桑・山城・金剛・霧島・榛名・比叡は大破し、富士湾に着底した。トラック島奇襲は、大日本帝國の完敗であった。富士湾に停泊していた連合艦隊戦艦部隊は全滅。トラック島全域の飛行場も全滅した。大日本帝國は建国以来初めて、戦闘に完敗したのである。しかし、戦闘に敗北しただけで戦争に敗北した訳では無い。アメリカ連邦はトラック島奇襲から1時間後、大日本帝國に宣戦布告を行った。大日本帝國の紗耶香女帝と帝國議会は、徹底抗戦を宣言した。特に紗耶香女帝の怒りは大きく[富士湾を忘れるな]を合言葉に、アメリカ連邦の全面占領による戦争終結を大日本帝國軍に命令したのである。しかしトラック島奇襲は大日本帝國に空母の実力を大々的に見せ付ける兵器市場のようなものであった。この実力を痛感した大日本帝國海軍は、[大日本帝國海軍連合艦隊近代化2ヵ年計画]を立案。帝國議会に提出した。その計画内容は大型空母雲龍級の20隻大量産・超弩級戦艦大和級3隻の建造・重武装巡洋艦、駆逐艦の建造・新型長距離航海潜水艦の建造・次世代航空機の開発、以上を2年で行う内容であった。帝國議会はこの計画案を満場一致で可決、陸軍の近代化2ヵ年計画案も同時に可決。軍事補正予算も可決させ、大日本帝國はその国力を総動員した戦争に突入するのであった。』
新田真美著
『富士湾を忘れるな』より抜粋
ここで欧州戦線に目を移す。ソビエト連邦ドイツ第三帝國・イタリアは『ニューイヤースネークアタック』でトルコに侵攻した。枢軸国側は圧倒的な機甲師団を誇り、トルコは為す術も無かった。侵攻・開戦から僅か5時間でトルコ陸軍は全滅。機甲師団と空軍による『電撃作戦』は大成功を収め、トルコは枢軸国に占領された。この事態に欧州の連合国側は慌てた。太平洋では大日本帝國海軍連合の戦艦部隊が壊滅させられ、トルコまで枢軸国に占領された。大英帝国はフランス・オランダ等が混乱する中で毅然とし、大日本帝國がアメリカ連邦に宣戦布告をしたのを受けて枢軸国側に宣戦布告した。此れにフランス・オランダ・中華帝國等も続き、世界は第二次世界大戦に突入したのである。
連合国側
大日本帝國・大英帝国・中華帝國・フランス・オランダ・スペイン・トルコ・琉球王国・満州国・フィリピン・ボルネオ・タイ・インド・インドネシア・オーストラリア・ニュージーランド・ベルギー・ロシア帝國
枢軸国側
ソビエト連邦・ドイツ第三帝國・アメリカ連邦・イタリア・キューバ・ポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニア・ユーゴスラビア・ブルガリア・アルバニア
1940年の第二次世界大戦勃発時の陣営はこうなっている。大東亜共栄圏各国は当然ながら大日本帝國に続いて宣戦布告。旭川市に亡命政権を樹立しているロシア帝國も宣戦布告を行い、なけなしの1個師団を中華・満州ラインに配備した。枢軸国側のソビエト連邦・ドイツ第三帝國・アメリカ連邦・イタリア以外は全て占領国で、傀儡政権を樹立させた後宣戦布告させた。トルコが連合国側なのはパルチザンやゲリラが活躍しており、無政府状態が続いているからである。
『トルコを占領した枢軸国側はフランス・オランダ侵攻作戦を開始した。総数86個にも及ぶ機甲師団の突撃は、無敵の様相を呈していた。しかし連合国側は舌嘗めずりで待ち構えていたのである。驚く無かれ[史上最長の要塞]と名高いマジノラインが、枢軸国側機甲師団の侵攻迎え撃ったのである。驚いたのは、枢軸国側である。陸軍力では絶対的な自信を持っていたのだ。それがマジノラインで進撃がストップした。ソビエト連邦・ドイツ第三帝國・イタリア等枢軸国側の戦死者は3万人を超えた。マジノラインは、枢軸国側にとっては予想外に脅威であった。驚く事にマジノラインは、オランダのエムデン〜ベルギー国境〜スイス国境〜フランス国境を沿って、モンテカルロまで作られていた。その要塞地帯に、枢軸国機甲師団は侵攻を開始した。マジノラインの完成は、大日本帝國の援助があったからだ。この地下要塞は2年経っても、未だに陥落する気配すらない。枢軸国機甲師団は、悪戯に突撃を繰り返して死者を増やすだけであった。1942年になり、枢軸国側の死者は既に10万人を超えた。連合国側の死者は、未だに1万弱だ。欧州戦は、新塹壕戦となっていたのである。』
エーリッヒハイトマン著
『ニューイヤースネークアタック』より抜粋
ここで再び、太平洋戦争に目を移す。
1940年の開戦早々に、大日本帝國海軍連合艦隊の戦艦部隊を壊滅させたアメリカ連邦海軍太平洋艦隊は、快進撃を続けた。ソロモン諸島の占領を果たしたのだ。アメリカ連邦海軍太平洋艦隊は、トルコ戦でソビエト連邦が行った電撃作戦を、海上で再現したのである。しかし1個機動艦隊の使い回しは、当の機動艦隊に対して体力面で無理を強いるものであった。開戦のトラック島奇襲を皮切りに、ソロモン諸島空襲上陸作戦・樺太空襲・硫黄島空襲・グアム空襲を機動艦隊は、粛々と続けていた。ソロモン諸島占領は大東亜共栄圏の資源国であるオーストラリアを占領する為の、重要な足掛かりであった。
そして開戦から1年半の、1941年6月15日。
大日本帝國海軍連合艦隊とアメリカ連邦海軍太平洋艦隊は、サイパン島沖で激突した。
『サイパン島沖海戦は両国の雌雄を決する戦いでもあった。アメリカ連邦海軍太平洋艦隊は、先の作戦で損傷したサラトガ・ワスプを除く4隻を投入。大日本帝國海軍連合艦隊も空母4隻を投入(赤城・加賀・翔鶴・瑞鶴)した。索敵の遅れは、アメリカ連邦海軍機動艦隊の作戦に大きく影響した。サイパン島空襲を続けるアメリカ連邦海軍機動艦隊は、大日本帝國海軍連合艦隊を見付けられなかった。そのため第二次攻撃の準備をしていたのだが、そこへ連合艦隊発見の連絡が入った。マリーゼ提督は、魚雷への換装を命令した。これは大日本帝國海軍連合艦隊の撃滅を狙った為に行われた命令であったが、現在では最低の命令だったと言われている。もしこの時マリーゼ提督が航空参謀の意見を受け入れ陸用爆弾を搭載させたまま、爆撃機を出撃させていれば連合艦隊の空母は甲板を破壊されただろう。そうなれば連合艦隊は攻撃能力を失いサイパン島はアメリカ連邦に占領され、太平洋の制海権はアメリカ連邦に奪われたであろう。このマリーゼ提督の命令が皮肉にも、我が祖国を救ったのである。陸用爆弾から魚雷への換装作業が終わろとしたその時、「敵機急降下!!」という見張り員の悲痛な叫び声が艦橋に響き渡った。サイパン島沖海戦は、大日本帝國海軍連合艦隊の大勝利であった。山本今日子連合艦隊司令長官の作戦は成功したのだ。爆弾が甲板に置かれたままの状態であったが為に、開戦以来華々しい戦歴を積んでいた歴戦の空母エンタープライズ・ホーネット・レキシントン・ヨークタウンは、4隻とも轟沈。飛び立つ事の出来たF4Fも、新型戦闘機紫電改の敵では無かった。F4F神話は、終わりを告げたのだ。太平洋戦争は、サイパン島沖海戦を境に大日本帝國優位となったのだ。』
笠井小百合著
『サイパン島沖海戦』より抜粋
1942年7月
大日本帝國海軍連合艦隊近代化2ヵ年計画が完了した。全国力を戦争に投入した大日本帝國は、あらゆる分野で新記録を樹立していった。『航空機増産記録』『戦車増産記録』『工場拡張記録』等々、数えればキリがない。アメリカ連邦は2年の内に決定的な勝利を得る予定でいたが、『予定は未定』の言葉通りに大日本帝國の国力に押され始めた。
『大型空母雲龍級の大量産完成し、総数20隻の4万トン空母が連合艦隊に配備された。搭載機数は100機を誇り、速力・防御力でも最高の性能を誇る。この雲龍級こそ、世界一の空母と言っていいだろう。搭載機は、戦闘機陣風・雷撃機天山・爆撃機彗星である。各機共に2000馬力のエンジンを搭載し、機上レーダーを完備している。未だにF4Fの改良型しか使っていない、アメリカ連邦海軍には真似の出来ない事だ。しかもサイパン島沖海戦から竣工した空母は5隻だけである。その内の1隻が雲龍級に迫る大きさのエセックスであり、残る4隻はタンカー改造の小型空母である。トラック島奇襲で大破した、戦艦部隊も修理され対空火器やレーダーを搭載する改修まで施された。要するにアメリカ連邦海軍は大日本帝國に改修しやすいように、大破させたようなものなのである。大和級3隻も完成している。更には超弩級戦艦大和級も完成させた。この大和級は大日本帝國が建造した、世界最大最強最後の戦艦と言われている。基準排水量は80000トンであり、全長は300メートル。主砲は51センチ砲3連装4基12門を装備している。アメリカ連邦海軍のモンタナ級が勝てる相手ではない。しかもアメリカ連邦海軍はトラック島奇襲で、空母の有効性を知らしめたのにも関わらず、未だに大艦巨砲主義である。それがエセックス、ただ1隻しか建造しなかった事に現れている。大和級も大艦巨砲主義ではないかと思われる方もいるが、51センチ砲は当然の装備である。何せ長門級が、46センチ砲を装備していたからだ。そして陸軍も近代化2ヵ年計画を完成させた。その主力が[四二式戦車]と[二式自走砲]であった。アメリカ連邦陸軍の戦闘車輌を凌ぐ能力を有しながら、大量生産に適した車体設計により記録的な大量産となったのである。更に山本長官は[海軍奇襲特殊部隊群・通称九尾狐]を創設。世界の特殊部隊の先駆けとなる組織の誕生であった。』
細川久美子著
『対米反攻作戦』より抜粋
1942年12月
遂に大日本帝國の反撃が始まった。反撃はソロモン諸島方面から、始まった。
『アメリカ連邦はソロモン諸島に突如出現した大艦隊に有効な手を打てなかった。戦力が違い過ぎる。大和級を主力とする戦艦部隊と雲龍級を主力とする機動部隊は、ブーゲンビル島に攻撃を開始。5時間にも及ぶ攻撃にブーゲンビル島駐留の陸軍・海兵隊は、まともな対抗手段も無くただただ耐えるしか無かった。そしてこの年創設したばかりの大日本帝國海軍陸戦隊が上陸を開始。敵地上陸を主任務とする陸戦隊は海軍の指揮下に有ながら、第三軍としての地位を築いた。陸戦隊は圧倒的な火力で海岸線を制圧、橋頭堡を迅速に構築した。2日後にはアメリカ連邦陸軍をブーゲンビル島から、叩き出した。その後アメリカ連邦陸軍・海兵隊はガダルカナル島へ集結。大日本帝國海軍・陸軍・陸戦隊はガダルカナル島への総攻撃を開始した。更にはオーストラリア・ニュージーランド・インドネシアも海軍・陸軍を派遣。インドネシア・ラバウル駐留の海軍・陸軍両航空部隊もガダルカナル島に空襲を慣行。ただガダルカナル島に集結しただけであるアメリカ連邦陸軍・海兵隊は、戦闘機・対空砲が欠乏しておりまともな迎撃は出来なかった。[質は量を凌駕する][量は質を凌駕する]と言う相反する両方の考えを同時に実行する[最高性能品を最大量産体制で]との信条を持つのが大日本帝國である。世界最大の大国を怒らせた代償は、余りにも大きかった。ガダルカナル島守備隊は玉砕したのであった。』
楠木遥香著
『南太平洋の激戦』より抜粋
1943年1月には、ソロモン諸島奪還となった。紗耶香女帝の怒りは全く納まる気配も無く、帝國議会で更なる反撃を宣言した。連合艦隊司令長官山本今日子大将は、紗耶香女帝の意向を受け入れ『ハワイ攻略作戦』を立案した。海軍軍令部はそれを許可し、連合艦隊の総力を結集してハワイ攻略作戦を開始するに至った。
1943年2月10日
ハワイは大日本帝國海軍連合艦隊に完全包囲された。ハワイから飛び立った航空機は叩き落とされ、ハワイから出撃した艦船は撃沈され、ハワイは太平洋に浮かぶ孤島と成った。
『ハワイ攻略は、熾烈の一言であった。大和級以下戦艦の対地制圧射撃はハワイの大地を抉り、雲龍級以下空母艦載機は爆弾を雨のように投下し続けた。それが5日間も続きハワイにそびえ立っていた建造物は全て崩壊した。かつてトラック島を奇襲された恨みを数倍にして返したのである。相次ぐ砲撃と空襲。大日本帝國本土からは、戦略空軍も空襲を慣行した。そして1943年2月16日、ハワイに大日本帝國陸戦隊と陸軍が上陸を開始。アメリカ連邦陸軍・海兵隊守備隊は、オアフ島の地下要塞に集結した。この地下要塞で抵抗している間に、ハワイ支援の為の艦隊がサンディエゴから駆け付ける予定であった。確かにその地下要塞は役に立った。モンタナ級3番艦ユナイテッドステーツを旗艦とする、支援艦隊がハワイに駆け付けたのである。しかしそのアメリカの希望であった艦隊は、大和ただ1隻によって壊滅させられた。戦艦1隻・巡洋艦10隻・駆逐艦15隻もの規模を誇った[ワシントンエキスプレス]は全滅したのであった。そして、1943年3月1日。ハワイは陥落。地下要塞が予想外に強固で有り、大日本帝國はあらんかぎりの攻撃を行った。その最たるものが2月25日に行われた海空陸の同時総攻撃であった。海軍連合艦隊・陸軍・陸戦隊・戦略空軍の同時総攻撃に、さすがの地下要塞も耐えきれなかった。このハワイ陥落によりアメリカ連邦海軍太平洋艦隊司令部は、サンディエゴに引き揚げた。連合艦隊は、ハワイに進出。アメリカ連邦海軍太平洋艦隊も事実上壊滅した為、太平洋の制海権は大日本帝國の手中に落ちた。』
島田里江子著
『ハワイ総攻撃』より抜粋
連合艦隊・戦略空軍がハワイに進出した為、アメリカ連邦西海岸は連日のように空襲・砲撃を受ける事になった。特に戦略空軍が保有する6発の超重爆撃機富嶽はその航続距離を活かして、アメリカ連邦に対する本土空襲を開始した。この空襲は世界初の『戦略爆撃』であり、アメリカ連邦の経済は崩壊の坂道を転がり落ちた。最早アメリカ連邦の反撃も小さく、太平洋戦争は終結したと言って良かった。ソビエト連邦の侵攻に備えて満州・中華ラインに配備されていた陸軍は休暇を満喫していた。欧州戦ではマジノラインに侵攻を阻められて3年となり、そんな状況で極東の要塞地帯への攻撃を仕掛ける余裕は無かった。しかも中華・満州ラインは大日本帝國が自分で造ったものであり、マジノラインよりも強固に造られていた。よもや二正面作戦による泥沼をソ連が望む筈もなかった。
1943年5月1日
紗耶香女帝に次いで第11代美香女帝が即位した。怒り狂っていた紗耶香女帝は脳梗塞を起こし、遂には還らぬ人となった。『女帝が変われば国家政策も変わる』とは昔からの大日本帝國の特徴であった。美香女帝は『融和政策』を発表。紗耶香女帝が計画していた、『アメリカ本土上陸作戦』を白紙撤回し、戦略爆撃だけで追い込む事を決定した。更に美香女帝は欧州戦支援を決定。連合艦隊の半数と陸軍・陸戦隊の派遣を命令した。山本長官はすぐさま、派遣部隊の編成を行った。
5月15日
欧州派遣部隊はハワイを出航。山本長官直々の指揮である。
5月28日
パナマ運河制圧。航空奇襲を加えた連合艦隊にアメリカ連邦守備隊は為す術も無かった。パナマ運河は然したる抵抗も無く制圧され、即日パナマ政府に返還したのだ。これによりパナマ運河は、パナマ政府に戻ったのだ。これに感謝したパナマ政府は大日本帝國及び大東亜共栄圏各国の、永久無料通過を許可したのだ。欧州派遣部隊はパナマ運河を通り、6月6日にカリブ海に到達した。カリブ海通過の際に、アメリカ連邦海軍・陸軍はとんでもない攻撃を仕掛けてきた。航空機で直接艦船に突撃する、『自爆攻撃』を行ったのである。突然の突撃に、連合艦隊は唖然とした。国を守る為に、自爆攻撃まで行ってきたのである。しかし尊敬しているだけでは被害が増すだけで、直ぐ様山本長官は迎撃を命じた。陣風戦闘機が攻撃を開始すると、旧式のF4Fはバタバタと叩き落とされていった。「余りにも敵が可哀想でならなかった。」とは山本長官が戦後に言った言葉である。祖国を守る為に命を掛けて、そして散っていった少女達に山本長官は、艦橋から涙を流しながら最敬礼した。この『自爆攻撃』は太平洋方面でも行われ、終戦までの僅か6日間で散った少女達は1万人以上とも言われている。
1943年6月12日
大日本帝國とアメリカ連邦がハワイで講和会議を行った。度重なる本土空襲にアメリカ連邦の経済は、最早完全に崩壊した。大陸横断鉄道も破壊され工場・市街地も壊滅した以上、大日本帝國と戦い続けるのは無理だとの結論に至った結果であった。人民議会はコーネルハル議長に講和会議の開催を要求。ハル議長はこれを受け入れ、大日本帝國に講和会議開催を要請した。美香女帝は当然ながら此れを受け入れた。これが3日前のことであった。ハワイで行われた講和会議は終始大日本帝國が、主導権を握り講和条約調印となった。
ハワイ講和条約
一、太平洋は日本海と改名する。
一、ハワイは第二次世界大戦終結から数えて15年間占領する。
一、アメリカ連邦は50億円の賠償金を支払う。
このハワイ講和条約が賠償金を求めた最後の講和条約だと言われている。此れにより『太平洋戦争』は終結した。しかし第二次世界大戦はまだ続いており、大日本帝國は『連合国側』に、アメリカ連邦は『枢軸国側』にそれぞれ付いている。その為アメリカ連邦は大日本帝國の敵国であることに変わり無く、両国の関係は講和条約締結後も国交断絶状態となっているのである。大日本帝國は太平洋戦争終結させたが、第二次世界大戦は幕引きさせずに、高みの見物と洒落込む構えであった。確かに大日本帝國はアメリカ連邦に宣戦布告したが、ソ連・ドイツ・イタリアには宣戦布告していない。第二次世界大戦には『支援』として応援するのであった。
1943年6月14日
ジブラルタルに到着した連合艦隊は本国からの命令を受け取った。『連合国欧州統合作戦司令部の指揮下に入り、作戦を遂行せよ』との内容であった。山本長官は早速連合国欧州統合作戦司令部に赴き、命令内容を説明した。驚いたのは司令部側であった。世界最強の連合艦隊を第二次世界大戦終結までとは言え、指揮下に入れるのである。動揺が走った。しかしそこは山本長官。司令部側を宥め、自ら作戦を立案した。その作戦は連合国欧州統合作戦司令部の会議に提出され、一部修正ののち可決された。
1943年6月20日
連合国側は、反撃を開始した。その中心となったのは当然ながら大日本帝國軍であった。反撃開始はイタリア海軍壊滅作戦から始まった。
『反撃の開始は、イタリア海軍壊滅作戦からであった。6月21日にジブラルタルを出港した日英仏統合艦隊は、一路タラント湾へ向けて進撃した。そして5日後の6月26日。統合艦隊はイオニア海に到達。タラント湾に停泊するイタリア海軍に総攻撃を開始したのであった。数百機にも及ぶ艦載機の空襲と、大和級を中心とする砲撃にイタリア海軍は為す術も無かった。特にイタリア海軍は陸軍に比べて士気が極端に低く、開戦してからタラント湾から出撃した事が無かった。海軍の意味は無く幹部達は常に愛人と[うっふん]しており、兵士達も風俗店に通い詰めていた。その意味で言えば、連合国の反撃開始は軍事演習であったと断言出来るだろう。僅か3時間で壊滅したイタリア海軍に、統合艦隊の幹部達は呆れ果てた。しかし山本長官は冷静に艦隊集結を命じ、キプロス島への出撃を命令した。統合艦隊は大日本帝國領であるキプロス島に集結した後、トルコ解放を目的とした[アンダルヤ上陸作戦]を開始するのであった。』
三嶋麗子著
『連合国の反撃作戦』より抜粋
『イタリア艦隊を壊滅させた統合艦隊は、7月1日にキプロス島に集結した。キプロス島は大日本帝國領であるが、全くと言っていいほど攻撃を受けていなかった。ソ連も何度かキプロス島占領を目的とした作戦を計画したが、キプロス島は大日本帝國の圧倒的な力によって要塞化されており、「とてもじゃないが海軍を使ってまで占領するような島じゃない」と結論付けられた。しかしそのキプロス島に統合艦隊が集結し、大日本帝國本土からも戦略空軍が進出。超重爆撃機富嶽が配備された。万全の準備が整った7月3日遂に、[アンダルヤ上陸作戦]が開始された。日英仏合同上陸部隊が統合艦隊による圧倒的な空襲と対地制圧射撃によって上陸。20万の兵士がトルコを解放するべく上陸した。キプロス島から戦略空軍も出撃し、トルコのソビエト連邦軍に空襲を仕掛けた。戦略空軍の主力超重爆撃機富嶽は、第二次世界大戦での傑作爆撃機と言われている。[超空の要塞]の異名を持つ6発の超重爆撃機は、空を飛ぶだけで威力があった。その機体には20トンの爆弾が搭載されており、とてつもない被害をもたらした。更には機体下部に20ミリ機関砲を100門装備した[掃射機]も存在し、枢軸国側の兵士は精神的にもダメージを受けていた。
そして8月12日。トルコ全土は連合国により解放された。トルコ・ソビエト連邦国境には、大日本帝國陸軍が展開。戦略空軍もソビエト連邦の侵攻に備え、偵察飛行を続けた。』
桜井紀香著
『トルコ解放作戦』より抜粋
8月15日
大日本帝國戦略空軍は、枢軸国側空襲を決行。ソビエト連邦首都モスクワ・ドイツ第三帝國帝都ベルリン・イタリア首都ローマ、枢軸国側の主要国の首都は大空襲を受けた。この空襲を皮切りとして、大日本帝國戦略空軍は枢軸国側空襲を連日のように開始した。アメリカ連邦の時と同じく終戦を呼び掛けてくるのを待つ構えであった。
それから1年4ヶ月。
欧州戦は再び、膠着状態となった。トルコへは、ソビエト連邦が散発的な攻撃を仕掛けてくるだけで、大規模な攻撃はなかった。枢軸国側は大日本帝國戦略空軍の空襲をひたすら堪え忍んだのである。大日本帝國海軍連合艦隊はその1年4ヶ月の間に一度本国に帰還。訓練を終えた九尾狐を搭載し、再び欧州に戻り九尾狐を枢軸国側に解き放った。彼女達は1年4ヶ月の間敵国に留まり、内部から敵を撹乱した。彼女達が破壊した車輌・航空機は、1万を超えると言われている。大英帝国はその活躍に驚き、九尾狐を真似たSASを創設した。大日本帝國陸軍も九尾狐の活躍に別の意味で恐怖を感じ、陸軍特殊作戦群(通称黒帽。黒色のベレー帽を被っている事から名付けられた。)を創設した。
『1945年1月1日。枢軸国側は、再びニュイヤースネークアタックを仕掛けて来た。マジノラインに突撃したのは総数40万人であり、第二次世界大戦で最大規模の攻撃であった。航空部隊・機甲師団も突撃を開始。フランス・オランダ・大英帝國の将兵達は、死を覚悟した。しかし、彼女達には強力な味方がいた。大日本帝國である。山本今日子連合艦隊司令長官率いる、欧州派遣部隊は枢軸国側陸軍に対して、一大空襲作戦を行った。枢軸国側の突撃開始から、2時間後にはキプロス島の戦略空軍も支援に駆け付けた。枢軸国側はこれを最終決戦と挑んでいただけに、連合国側の反撃を受け撤退を始めた。枢軸国側総数40万人のニューイヤースネークアタックは、失敗に終わったのだ。死者は20万人近くと言われている。』
スカーレットチャーチル著『第二次世界大戦回顧録』より抜粋
ニューイヤースネークアタックの失敗を受け、枢軸国側主要3ヵ国は会談を行った。戦争を続けるかどうかをである。
また1月20日には、連合国側の大日本帝國・大英帝國・フランス・中華帝國の首相が、インド洋の大和艦上にて会談を行った。この会談は、戦後の世界秩序を決める会談であった。最終的には、『インド洋憲章』が調印された。
1945年2月11日
枢軸国側は連合国側に、休戦を呼び掛けたのだ。連合国側は、翌日休戦提案を受け入れた。連合国側は確かに、ニューイヤースネークアタックを弾き返した。しかし、死者は10万弱にも達していたのである。対する枢軸国側も大日本帝國戦略空軍の空襲に最早完全に国内経済は崩壊。先のニューイヤースネークアタックが最後の賭けであった。しかしそれを弾き返された以上、戦いを続けるのは無理である。そこで連合国側へ停戦を提案したのであった。美香女帝の融和政策もあり、連合国側と枢軸国側はすんなりと停戦を迎えた。
1945年3月1日
最終的には、スイスのジュネーブで行われた休戦会議の結果を受け、連合国側と枢軸国側は全面的に停戦となった。第二次世界大戦はこれにより、終焉を迎えた。
『確かに第二次世界大戦は終焉を迎えた。しかし、それは停戦において終焉を迎えたのだ。現に未だ世界は、東西冷戦の真っ只中。いつ熱戦になっても、おかしくない。それにハワイ危機では、核戦争になりかけた。世界が平和な時代になるのは、無理だろう。』
1965年3月6日付
『鈴木新聞社説』より抜粋