1600年〜1914年
時は1600年。
関ケ原の戦いは激戦の末、引き分けに終わった。徳川家康と石田三成は共に戦死。死傷者は数万人以上と言われている。引き分けの原因は多々あり、有力なのが『鉄砲隊・大砲隊の大量配備』である。東軍・西軍共に保有する全ての銃火器を投入し、雨あられと撃ち合ったと言われている。この関ケ原の戦いが引き分けに終わった事で、日本はその後再び無益な戦乱の渦に巻き込まれたのである。
1601年2月
遂に朝廷が動いた。後陽成天皇陛下が日本の荒廃を食い止める為に立ち上がった。しかし朝廷は軍団の編成から始めなければならなかった。朝廷の有する兵士は総数9000の弱小軍団であった。たった9000の軍団では、自らの京都さえも防衛出来ない数である。後陽成天皇陛下は『軍団強化』と『鉄砲・大砲・軍馬の量産』を命じた。この勅令に朝廷は大いに揺れた。ろくな人員も居ない京都・朝廷だけで『軍団強化』と『鉄砲・大砲・軍馬の量産』が出来る訳が無い。これには命じた本人である後陽成天皇陛下も頭を抱えた。そこへ提案をしたのが、後陽成天皇陛下の妻である前子皇后であった。前子皇后は『関ケ原の戦いで負傷した兵と、夫を亡くした未亡人を京都に集めたら。』と言ったのだ。正に目から鱗の提案であった。後陽成天皇陛下は早速、『関ケ原の戦いのみならず、戦いで負傷した兵と夫を亡くした未亡人を京都に召喚せよ。全ての生活は保証する。』との勅令を下した。これを受け朝廷から大量の馬車部隊が全国津々浦々まで散っていった。
1601年10月
丹波と丹後の両国が朝廷に下り、山城に併合された。両国は関ケ原の戦いに参加し、大いに疲弊しており併合は自ら望んだ事であった。この両国併合により『朝廷が兵士を集めている。』との噂は全国へ広まった。しかし所詮は素人が行っている事である。大名家や兵士達は特に脅威を感じる事も無く、自らが全国統一を開始するべく戦いを続けていた。しかし負傷兵や未亡人達は続々と、京都へ集結していた。『京都へ行けば治療してもらえる。』『生活が保証される。』馬車部隊の活躍は成功したのである。また、鉄砲鍛冶も大量に京都へ集まり始めた。『激戦続く所で仕事をするよりも、安全な京都の方が仕事が捗る。』馬車部隊が負傷兵や未亡人を勧誘する途中で、鉄砲鍛冶も勧誘した結果であった。当然鉄砲鍛冶も安全な所で仕事をするに越した事はない。京都での鉄砲生産を開始したのであった。また鉄砲鍛冶の一部は大砲の生産を開始。そのまた一部は鉄砲・大砲の改良強化を進めた。それと同時に軍馬の繁殖にも力を入れた。
1602年3月
負傷兵も完治し鉄砲・大砲・軍馬の生産も順調に進み、後陽成天皇陛下は軍団編成と訓練の勅令を下した。
『とにかくこの約2年の間に大量の資金を使い、準備を整えた朝廷に人々はある種の疑問を持ち始めた。「この潤沢な資金は何処から。」後陽成天皇陛下はその疑問を払拭する為に、説明を行った。「朝廷には全国の大名達が官位や役職を貰う為に、大量の品が献上された。一級品の鉄砲から大砲・書物に至るまで様々で、当然金銭での献上も有る為、資金も潤沢なのである。極め付けは織田家と豊臣家の遺産を朝廷が保有しているのも大きい。これが資金潤沢な理由である。」この説明は町民と兵士の士気を高め、更なる人口流入を呼ぶ事となった。軍団編成は続々と完了し、厳しい訓練は軍団の戦闘能力を高めていった。特に前子皇后直々の編成となった[騎鉄隊]は朝廷軍屈指の戦力を有する軍団であった。騎馬隊に連発銃2挺を装備させ、走攻守全てで敵を凌駕するのが騎鉄隊である。更に前子皇后は舞鶴港で[水軍]を編成。織田家の遺産である鉄甲船を徹底改良した、鉄鋼艦が朝廷水軍の戦力であった。鉄鋼艦は木造外洋船に鉄鋼を張り巡らし、鉄砲・大砲を大量に搭載した艦船である。これらの活躍に後陽成天皇陛下は前子皇后を皇軍の[最高司令官]に任命。自らは最高司令官を補佐する、[軍師](後の参謀長)となった。』
篠崎葉子著
『知られざる朝廷軍の実力』より抜粋
1602年12月
前子皇后率いる皇軍が遂に全国統一を掲げ大和国に侵攻。大和国を統治する真田家は突然の大軍に対応が遅れた。皇軍は前子皇后直属の騎鉄隊が突撃を開始し、大砲隊の支援砲撃も熾烈であった。五條城に立てこもった真田軍も態勢を立て直し反撃を開始。
しかし反撃も微々たるものであり、皇軍に然したる被害を与えなかった。そして五條城も籠城の甲斐無く、落城。大名の真田幸村は前子皇后自らの手で、射殺された。大和国侵攻から僅か2週間のことであった。勢力を拡大させ、圧倒的な武力を有する朝廷に、他の大名家は危機感を抱くようになった。現在、最大勢力は北条家である。北条家は甲斐・信濃・伊豆・駿河・遠江・相模の国を支配していた。北条家は武家の名に掛けて朝廷との決闘に備えていた。
1609年9月
皇軍は西日本全域の統一を成し遂げた。
『西日本全域統一の戦いは熾烈であり、皇軍にも大量の死傷者が出た。特に激戦だったのが薩摩国の[薩摩川内の戦い]で、皇軍と島津家が激突した西日本統一に於ける最大の戦いであった。両軍共に真正面から激突、島津家も鉄砲の生産に於いては全国屈指の量を誇る為、騎鉄隊に死傷者が集中した。騎鉄隊は前子皇后直属の軍団である為、全員が未亡人で構成されていた。この事態に前子皇后は大砲隊を投入。支援砲撃を開始させた。水軍の鉄鋼艦に搭載している長距離砲を軍馬に曳かせて配備している為、機動力も十分であった。この支援砲撃に島津家の軍団は大混乱に陥った。こちらの大砲よりも遠くを飛んで砲撃されるからである。この隙を逃すほど前子皇后は甘くなかった。騎鉄隊に突撃を命令。島津家の軍団を全滅させることに成功した。これにより島津家が滅亡、九州全域が陥落した事により西日本全域統一が達成されたのであった。』
熊田香織著
『西日本を統一せよ〜皇軍の進軍〜』より抜粋
1610年6月3日
東日本統一を成し遂げた北条家と西日本統一を成し遂げた皇軍が関ケ原で激突。ここに『第二次関ケ原の戦い』が勃発した。この戦いに勝利した軍が全国統一を達成する事が出来る為、両軍共に負けられない戦いであった。戦闘は皇軍の騎鉄隊の突撃から始まった。これに北条家は鉄砲隊で反撃を開始。騎鉄隊に被害が出始めた為、前子皇后は長距離砲砲撃を命令。北条家は噂で皇軍の大砲に関する情報を得ていたが、『敗軍の誇張情報』として真剣に捉えていなかった。これが北条軍の命運を分けた。『砲撃支援による騎鉄隊の突撃』これが皇軍の必勝戦法であった。この必勝戦法を開始した皇軍に、北条軍は為す術も無かった。
1610年6月7日
前子皇后率いる皇軍は小田原城にて、北条家の処刑を行った。この北条家皆殺しにより、北条家は滅亡。遂に皇軍は全国統一を成し遂げたのであった。北は樺太から南は九州まで、皇軍の名の下に統一されたのだ。
1610年7月
京都二条城へと帰還した後陽成天皇陛下と前子皇后は、この度の戦乱が首都にあると考えた。そこで星占いを行い、平和をもたらす都市を選んだのだ。その星占いで選ばれたのが、江戸であった。これにより後陽成天皇陛下と前子皇后は、江戸に入った。それと同時に、江戸を『東の京』東京と名を改めた。
1611年
後陽成天皇陛下は皇位を、前子皇后に継がせた。これにより、初代前子女帝が即位。それと同時に前子女帝は国名変更を発表。『大帝が統治する日の本の國』と言う意味で『大日本帝國』と変更した。前子女帝は即位と共に、数多くの改革を行った。まず初めに前子女帝が行ったのは、『五箇条の御誓文』であった。
五箇条の御誓文
一、早期に憲法を制定し国家発展を進める。
二、議会を開く。
三、国民を守る。
四、軍備を増強し外国勢力を凌駕する。
五、外国と広く交易を行う。
五箇条の御誓文は神々と、国民に向けて発布された。国内政策としては第一に、女尊男卑を強力に推し進めた。女性の社会的地位は、飛躍的に上昇し、男性の社会的地位は急降下した。第二に、版籍奉還と廃國置県を行った。版籍奉還は各国の大名(基本的に全ての大名は皇軍に処刑された為、傀儡大名が各国に存在した。その為問題無く、版籍奉還と廃國置県が行われたのであった。)から領地を、一度女帝陛下に返上させたのである。この領地返上を受けて、廃國置県を行ったのである。これは旧國を廃止し、都道府県を置いた。これが現在に至るまでの都道府県制である。都道府県を正式に設置した事で、各都道府県に知事を置いた。これは傀儡大名を知事職に着けただけのことである。この諸改革により、大日本帝國は世界初の『中央集権国家』と成ったのだ。第三に、農業政策を推し進めた。これにより農作物の生産数は増大、この農作物増大に合わせて税収体制の変更を行った。これが硬貨と紙幣であり、十進法に基づく『円・銭』を採用。これにより『帝國銀行』と『地方銀行』が創設された。帝國銀行は大日本帝國唯一の造幣局としての役目を担い、後に世界の金融界を支配する超銀行として君臨するのであった。農業・商業は、女帝及び女性議会の手厚い保護により、発展していった。女性議会とは、女帝を補佐するものとして前子女帝が即位した時に、設立されたものである。この女性議会は世界初の政党政治の始まりでもあった。女性議会設立時は、自由党・民心党・帝國党の3つであった。
1612年2月11日
前子女帝の名の下に、『大日本帝國憲法』が女性議会に提出された。女性議会は反対する事無く、全会一致で可決。即日前子女帝が国民に直接公布・施工した。
この大日本帝國憲法は世界初の憲法であった。そして大日本帝國憲法公布から10日後、大日本帝國全土で総選挙が行われた。この総選挙で200人が国会衆議院議員(女性議会で活躍していた100人は形だけの選挙で当選)に選ばれた。そして真新しい国会議事堂に入り、女性議会は帝國議会と改名して新しく発足した。
男性の出生率が世界的に著しく低下を始めたのもこの年である。この理由は、2000年代になっても解明されていない。科学的説明が未だに出来ていないのである。同じ年、前子女帝は『男性諸法度』を帝國議会衆議院に提出。帝國議会は全会一致でまたもやこれを可決。即日公布された。
男性諸法度
一、男性は女性に生涯尽くす。
一、男性は女性に身を委ねる。
一、女性は男性に対して何をしても良い。
女性上位社会を実現させたのであった。
また前子女帝は、キリスト教の信仰も許可し、宗教の自由を認めた。これにより、キリスト教布教のため大英帝国・オランダ帝國・スペイン帝國・ポルトガルが大日本帝國に来航し始めた。帝國議会は、キリスト教を認める事により日本が外国に、侵略されないかと危惧したが、それは考え過ぎであった。『政教分離』を前子女帝は宣言し、不穏な動きを見せれば『帝國から叩きだす』とも宣言した。またそれら欧州各国も大日本帝國水軍の鉄鋼艦に出迎えられれば、自らの木造外洋船が撃沈される事は分かり切っている為、おとなしくするしか無かった。
1613年
大日本帝國は、亜細亜諸国に進出(『大日本帝國の南進』と2000年現在では世界史に記されている)を始めた。
『大日本帝國が亜細亜進出に際して最初に遭遇したのが琉球王国であった。琉球王国は軍隊を保有しておらず、帝國議会では[琉球王国占領すべし]との声が挙がった。しかし前子女帝は欧州各国の植民地主義を[搾取・隷属主義]と断言し、大日本帝國独自の方向性を示した。[琉球王国と国交を樹立し、平等な貿易を行う]と宣言したのである。女帝陛下の御言葉に逆らうのは死に値する愚行であり、帝國議会は前子女帝の宣言を支持した。これにより正式に琉球王国と国交を樹立し、[日琉相互支援条約]を締結した。琉球王国と遭遇してから2ヶ月の早さであった。大日本帝國は琉球王国と国交を樹立した事で、港の利用が許可された。この琉球王国を中継とし、大日本帝國は亜細亜進出を本格的に始めた。フィリピンに到着した大日本帝國水軍はフィリピンでの内乱を目の当たりにした。スペイン帝國の植民地であったフィリピンは、本国の没落で独立派が進駐軍に攻撃を仕掛けたのが内乱の始まりであった。水軍艦隊司令官は独断で独立派支援を決定。オールと帆の両方を備えた大日本帝國水軍艦隊の鉄鋼艦は細かい動きが可能で、フィリピンのスペイン帝國進駐軍を正確に砲撃した。スペイン帝國進駐軍は突然の砲撃に大混乱に陥った。その砲撃に騎鉄隊がマニラ湾に上陸。スペイン帝國進駐軍はこの強敵に騒然とした。馬に乗った人間が鉄砲を乱射してくるのである。この時期大日本帝國騎鉄隊は4連発銃の開発に成功しており、単発銃のスペイン帝國進駐軍が適う相手ではなかった。軍馬牽引の大砲(この時期から自ら走る砲と言う意味で、自走砲と呼ばれ始めた。)の砲撃も開始。スペイン帝國進駐軍はその殆どが戦死し、大日本帝國軍介入から3時間で降伏した。このフィリピン独立派支援は本国の前子女帝と帝國議会に報告された。この報告には捕虜にしたスペイン帝國進駐軍からの情報も付け加えられた。それによると亜細亜は大日本帝國以外は、全て欧州各国の植民地となっていたのである。これに前子女帝は[解放作戦]を宣言。キリスト教布教に訪れていた大英帝国・オランダ帝國・スペイン帝國・ポルトガルの宣教師に勧告書を手渡した。[亜細亜全域の植民地を独立させなければ、武力を使用して亜細亜から叩きだす。]前子女帝の並々ならぬ決意が込められていた。』
駒井友里子著
『大日本帝國の植民地解放』より抜粋
1614年1月
欧州各国は大日本帝國に植民地独立を約束した。特に大英帝国は自らの艦隊が世界最強と思っていたが、大日本帝國水軍艦隊の鉄鋼艦に恐れ戦いた。スペイン帝國は自らの上をいく大英帝国よりも、更に上をいく強国の存在に即答で独立を約束した。オランダ帝國・ポルトガルも同じである。フィリピン解放・独立から、亜細亜全域の解放。これに植民地であった民族は、大日本帝國の対応に涙を流して感謝した。しかも自立出来るまで大日本帝國が全ての面で、支援してくれるのである。欧州各国も大日本帝國の対応に驚いた。植民地を奪いたいが為に綺麗事を並べたと思っていたら、本気で亜細亜諸国に支援を行い始めたのである。世界は大日本帝國の行動により、植民地独立へ突き進むのであった。
1620年
欧州各国は植民地を完全に独立させた。
『世界は大日本帝國の意向により、植民地が次々と独立した。アフリカも例外で無く、アメリカも独立した。アフリカは黒人が奴隷として使用されていたが、大日本帝國はそれに断固反対の意思(しかし男奴隷は存在を許された。当然であろう、大日本帝國の経済は男奴隷に支えられている。)を示した。欧州各国はそれを受け入れ、奴隷解放を宣言したのである。
もはや帝國主義は[植民地]の数が力では無く、[友好国・同盟国]の数が力となっていた。その点で言えば、大日本帝國は亜細亜のみならず欧州・アフリカに友好国・同盟国を大量に有し、世界最強の大国として君臨していた。この時から第一次世界大戦勃発までを[パクスニポニア]と欧米各国は呼んでいた(第三次世界大戦終結後からも[パクスニポニア]と再び呼ばれ始めた)。更に大日本帝國には欧米各国が使節団を派遣し、政治制度について学び始めた。国会・内閣制度・憲法を自国で行う為であった。』
広瀬幸恵著
『植民地解放』より抜粋
1675年
第3代栄子女帝が即位。栄子女帝の即位を待っていたかのように、清が朝鮮王国に侵攻を始めた。
『清の朝鮮王国侵攻は大日本帝國にとって予想外の出来事であった。だが朝鮮王国とは同盟関係にある為、栄子女帝は早速、帝國議会に開戦を命令。帝國議会は直ぐ様それを受け入れ、内閣総理大臣は水軍艦隊と騎兵隊(1655年に名称変更。)に朝鮮王国支援を命じた。水軍艦隊は長崎県佐世保基地を母港とする第3艦隊と騎兵隊は九州各地の合計6個師団を派遣した。清は古き帝國主義を掲げており、朝鮮王国を自国領とする為に攻め込んだのである。しかしその行動が国家滅亡の引き金になるとは清は微塵にも考えていなかっただろう。平壌にまで迫っていた清軍に朝鮮王国軍は劣勢に立たされていた。その状況を挽回すべく、大日本帝國騎兵隊は水軍艦隊の支援を受けて黄海から平壌強襲の為上陸した。突然の騎兵隊の上陸に、清軍は慌てふためいた。強力な対地砲撃の支援に、騎兵隊は清軍を圧倒的な武力で薙ぎ倒した。強力な援軍を得た朝鮮王国軍は、逆襲を開始。清軍を国境から叩きだすと、清への侵攻を開始した。』
木下里恵著
『大日本帝國の戦争(2)』より抜粋
『近代化に遅れていた朝鮮王国軍は装備が悪く、騎兵隊6個師団が正面に立って清へ侵攻した。栄子女帝はこれを機会に徹底的に清を叩き潰す事を決定。内閣総理大臣に騎兵隊4個師団と広島県呉基地を母港とする第1艦隊の派遣を命令。内閣総理大臣はそれを受け入れ、山東半島青島に派遣した。それを阻止する為、清は水軍を出撃させた。ここに大日本帝國と清だけの正真正銘の[日清戦争]が勃発(先の平壌強襲作戦に於いては朝鮮王国軍との共同作戦であった。しかも名目上は大日本帝國は朝鮮王国支援であった。)した。海戦は大日本帝國水軍艦隊の長距離砲撃から始まった。清水軍は長距離砲撃に為す術も無く、次々と撃沈されていった。大日本帝國水軍艦隊の鉄鋼艦にも漸く清水軍の砲弾が命中したが、鉄鋼艦の装甲に跳ね返された。海戦終了後、清水軍は全滅した。大日本帝國水軍の名は全世界に轟いた。敵を薙ぎ倒した大日本帝國水軍は青島に到達。騎兵隊4個師団が上陸を開始した。第1艦隊はその後第3艦隊と合流。清の首都北京へ向けて砲撃を開始。当然ながら射程距離はそこまで無かったが、心理的な打撃を清国民に与えた。砲撃を続ける中、騎兵隊と朝鮮王国軍が北京に到達。清は遂に降伏を決意。大日本帝國に降伏の意向を伝えた。大日本帝國はこれを受け入れ、清の降伏で日清戦争は終結したのであった。』
河島海江著
『徹底解析!!日清戦争の全容』より抜粋
終結から1週間後、大日本帝國の下関にて講和会議が開かれた。会議は終始大日本帝國と朝鮮王国有利に進み、下関条約が結ばれた。
下関条約
一、賠償金として清は5000万円を支払う。
二、台湾島を大日本帝國に割譲する。
三、清は解体し中華帝國を建国する。
四、清北東部に満州国を建国する。
台湾島は賠償金を取りすぎると、国家再建が難しくなる為領土割譲で解決させたのである。特に満州国建国は清の分断とも言われたが、朝鮮王国の防波堤になる為建国された。しかしその朝鮮王国は、大日本帝國に自国併合を懇願した。青天の霹靂とはこの事である。栄子女帝は朝鮮王国の防波堤になると思い、満州国建国を決定したのである。栄子女帝は悩んだ末に朝鮮王国併合を決定。帝國議会と内閣はそれを支持した。大日本帝國の領土は日清戦争によって、増大したのであった。
1700年
栄子女帝は大日本帝國軍の発展を発表。『大日本帝國海軍連合艦隊』と『大日本帝國陸軍』が設置された。この時期大日本帝國周辺は元より亜細亜周辺の制海権は大日本帝國の手中に有り、貿易は右肩上がりに増大していた。欧州にも貿易は行われ、大日本帝國には豊かな資本が蓄積された。更に男奴隷を工業の労働者として利用した。また大日本帝國全土の資源にも恵まれており、科学技術の発展に内閣は力を入れた。
1730年
大日本帝國の技術者折原裕子が大英帝国が開発した蒸気機関の改良型を発表。この蒸気機関はあらゆる分野の機械動力として、用いられ産業革命が始まった。この蒸気機関の動力への利用によって成立した機械工業は、大量生産を可能とし大日本帝國の発展を推し進める要因となった。
1855年
第8代絵莉女帝が即位。大日本帝國は125年の間に驚異的な発展を遂げた。
『大英帝国の開発した蒸気機関を大日本帝國が改良型を発表し、世界で初めて産業革命を迎えたのだ。大日本帝國では、大量生産が浸透し、大規模工場が作られていった。大日本帝國の重工業は、俗に[太平洋工業帯]と言われる所に集中。特に大日本帝國の鉄工業は発展し、鉄材の輸出は世界中に及んだ。そして朝鮮半島に存在した大規模炭田により、大日本帝國は石炭業も発展。エネルギー革命をもたらした。そして更に蒸気機関の応用により、[蒸気船][蒸気機関車]も開発された。蒸気機関は大日本帝國が特許を取っていた為、使用料だけで最早中流国の国家予算を凌ぐ資金が大日本帝國に入っていた。大日本帝國全土のみならず、亜細亜諸国に鉄道網が整備された。[大日本帝國国有鉄道(国鉄)]が発足したのもこの年である。蒸気船の定期航路は亜細亜諸国のみならず、欧州・アメリカまで整備された。更にこの年には、帝都東京にて第1回東京万国博覧会を開催した。大英帝国のエリザベス女王も蒸気船に乗り、大日本帝國までやって来た。ここに至り両国は正式に[日英相互同盟]を締結。両国の軍事・経済その他で協力する内容であった。』
渡辺真梨子著
『産業革命による大日本帝國の発展』より抜粋
1860年
樺太・北海道・台湾にて、油田が見付かった。絵莉女帝は早期に採掘開始を命令した。絵莉女帝及び女性議会の期待は大きかった。また帝國議会は教育基本法・労働基準法・労働組合法を制定。学校教育を充実させ、労働者の労働環境を良くした。しかしその一方で、男奴隷は教育も受けられず劣悪な環境で労働に従事していた。また陸軍の射撃練習としても男奴隷は利用された。
1880年
第9代綾希子女帝が即位した。大日本帝國は、国策として富国強兵・殖産興業を推し進めた。富国強兵は、大日本帝國軍を世界最強のものとしたのである。殖産興業は、大日本帝國の重化学工業・国力を更に押し上げた。更に電機工業も発展。大日本帝國の殆どの大企業を傘下に入れていたのが鈴木商店である。その鈴木商店に4大財閥が対抗を始めたのもこの時だ。更にこの年、大日本帝國と大英帝国は共同でスエズ運河を買収。エジプトが財政難に陥っていたのも、両国が運河を買収するに至った経緯である。大日本帝國が6割・大英帝国が4割の株式を保有するに至り、共同で『スエズ運河管理公社』を設立した。殖産興業で国力が増大した裏には、男奴隷の力があったからである。この事を、綾希子女帝及び帝國議会・内閣は黙認した。
1900年
第10代紗耶香女帝が即位した。大日本帝國は、大東亜共栄圏の設立を発表。琉球王国・満州国・フィリピン・ボルネオ・タイ・インド・インドネシア・オーストラリア・ニュージーランドが大日本帝國の大東亜共栄圏に加盟した。此等、大東亜共栄圏加盟国は油田・炭田・鉱山等の資源地帯が多く発見された。亜細亜は、大日本帝國の大東亜共栄圏と中華帝國により平和が訪れた。戦争の起こる状況では無い。世界では、大英帝国・フランス・オランダ帝國・アメリカ合衆国・ロシア帝國そして大日本帝國と中華帝國。7ヵ国が列強と言われた。大日本帝國は『世界の工場』と言われ、世界経済を独占している。
1904年
日露戦争勃発。大日本帝國は久し振りの戦争を経験したのである。
『日露戦争は突然に勃発した。ロシア帝國が宣戦布告もせずに、満州国と樺太に侵攻して来たのである。紗耶香女帝は、直ぐ様徹底抗戦を宣言。大日本帝國陸軍は朝鮮半島の4個師団を満州国に、大日本帝國海軍は舞鶴基地の連合艦隊第4艦隊を樺太にそれぞれ派遣した。満州国に侵攻したロシア帝國陸軍は、大日本帝國陸軍の猛烈な反撃にあった。満州国の戦いは、当事国の満州国陸軍はもとより、中華帝國・インド・タイ陸軍も参戦。他の大東亜共栄圏各国も大日本帝國を支援するべく軍を派遣。チチハルにおける、ロシア帝國陸軍と大東亜統合陸軍との陸戦は、結果から言えば大東亜統合陸軍の勝利に終わった。チチハルにおける陸戦は、大日本帝國の誇る工業力が猛威を奮った。18センチ加濃砲は、ロシア帝國陸軍の度肝を抜いた。見えない所から、砲弾が空から降ってくるのだ。大東亜統合陸軍は、圧倒的な支援砲撃を受けて前進を始めた。満州国侵攻から3ヶ月後。ロシア帝國陸軍は、満州国から叩きだされた。樺太に侵攻するべく進撃したロシア帝國陸海軍であったが、大日本帝國海軍連合艦隊と間宮海峡で激突([間宮海峡海戦])。大日本帝國海軍連合艦隊とロシア帝國極東艦隊は大規模な砲撃戦を開始した。巡洋艦主力の極東艦隊は快速を活かして突撃を始めた。しかし相手は世界最強の戦艦を保有する連合艦隊である。激しい訓練を乗り切り、士気も高い連合艦隊は精密射撃を開始。極東艦隊は精密長距離砲撃の雨に突撃を続けた。しかし巡洋艦の装甲が戦艦の主砲弾を防げる筈もなく、次々と撃沈されていった。圧倒的な戦力の違いにロシア帝國極東艦隊は遂に壊滅。護衛を失った輸送船団は窮地に陥った。「非武装船への攻撃は戦争ではない。虐殺だ。」艦隊司令長官はそう言うと、輸送船団への降伏を勧告した。輸送船団はそれを受け入れ、輸送船80隻が拿捕され3個師団の将兵が捕虜となった。』
倖田真紀著
『日露戦争』より抜粋
『間宮海峡海戦の大敗北を受け。ニコライ女帝は、ロシア帝國最強のバルチック艦隊の派遣を決定。戦艦主力のバルチック艦隊は大日本帝國へ向けて出撃した。しかしバルチック艦隊の遠征は、無謀なものであった。スエズ運河が当然ながら通行出来ない為、喜望峰を通って行くしかない。しかしそこには大英帝国海軍が待ち構えていた。[喜望峰沖海戦]の勃発である。大英帝国海軍巡洋艦艦隊の待ち伏せ奇襲攻撃に、バルチック艦隊は大混乱に陥った。巡洋艦艦隊は快速を活かして突撃を開始。[間宮海峡海戦]ではロシア帝國極東艦隊の敗北の原因となった戦法であるが、今回ばかりはこの巡洋艦突撃は大成功を収めた。遠征による疲労と奇襲による混乱にバルチック艦隊は正しい対応が出来なかった。巡洋艦艦隊の魚雷は次々とバルチック艦隊に命中。更には魚雷を避けようとした戦艦同士の衝突事故も発生した。この嵐のような巡洋艦艦隊による突撃奇襲攻撃は、バルチック艦隊の2割を撃沈する成果をあげた。バルチック艦隊は残存戦艦を再編し、気を取り直して進撃を再開。漸くインド洋へバルチック艦隊は到達した。しかしそこで遭遇したのは大日本帝國海軍連合艦隊であった。司令長官東郷麻美大将はインド洋まで進出し、バルチック艦隊を迎え撃つ作戦を決めていたのである。驚いたのはバルチック艦隊であった。まさか2回続けて待ち伏せされるとは思っておらず、油断していたのだ。[インド洋海戦]は連合艦隊旗艦[三笠]の長距離砲撃から始まった。大日本帝國海軍お得意の戦法であり、バルチック艦隊はジグザグ航行したが連合艦隊の方が練度は上であった。精密な照準による砲撃は高い命中率を誇り、次々とバルチック艦隊を沈めていった。漸くバルチック艦隊が連合艦隊を捉えた時には、バルチック艦隊は半数以下にまで数を減らしていた。バルチック艦隊の砲撃が命中しても大日本帝國海軍は朝廷水軍鉄鋼艦の血を受け継ぐ戦艦である。防御力に於いても強靭であった。最終的にバルチック艦隊は全滅。東郷麻美司令長官率いる連合艦隊は、意気揚々と帰還したのであった。』
井原尚子著
『インド洋海戦』より抜粋
バルチック艦隊全滅を受けてロシア帝國ニコライ女帝は、大日本帝國に対し講和を提案。元々ロシア帝國政府は大日本帝國との開戦に反対していたが、国内経済の不振が続き資源も輸入に頼っていた為国民の怒りが溜まっていた。それを解消するべく資源の多い樺太と満州国を占領しようとニコライ女帝の鶴の一声で開戦したのだが、大日本帝國の逆鱗に触れたのであった。特に大日本帝國領の樺太に侵攻しようとしたのも原因である。その為バルチック艦隊全滅を受けて、漸くニコライ女帝も諦めたのであった。紗耶香女帝はニコライ女帝の提案を快く受け入れた。
1905年
札幌にて講和会議が開かれ、札幌条約が締結された。
札幌条約
一、ロシア帝國は大日本帝國に対し賠償金15億円を支払う。
二、満州国・樺太・朝鮮半島・中華帝國に対してロシア帝國は一切の干渉をしない。
ロシア帝國は国内の不振を払拭する為に行った戦争だったが、負けてしまった為に多額の賠償金を支払う結果となってしまった。しかしそれでは可哀想だと、紗耶香女帝は帝國議会にロシア帝國全土の地質調査を提案した。当然ながら帝國議会が女帝陛下の御言葉に反対する訳もなく、ロシア帝國への地質調査団を派遣する事となった。その中心を担ったのは鈴木商店の傘下企業『鈴木石油』の地質調査員であった。そして『鈴木石油』の地質調査員を中心とする地質調査団はロシア帝國へと派遣された。
1906年3月
八幡製鉄所が完成。従来まで世界一の製鉄所として、栄えていた旭川製鉄所よりも更に巨大なものである。この八幡製鉄所は、大日本帝國の重化学工業を支え、更なる発展をもたらしたのであった。そして更にこの年の6月。世界の海軍関係者にとっては忘れられない戦艦を大日本帝國海軍が完成させた。
『その新型戦艦の名前は[轟天]である。この轟天が建造されたのは日露戦争の、インド洋海戦が大きく影響している。インド洋海戦に於いて連合艦隊は、艦橋から一元的な距離を指示し、砲側では一切修正しない[斉射射撃方法]を採用。東郷麻美司令長官が効率的な砲撃を考案した結果であった。日露戦争終結後、東郷麻美司令長官は早速[新型戦艦]の建造を提案。海軍軍令部は実戦部隊の声を採用し、此迄の戦艦の概念を一変する新機軸を多数取り入れた全く新しい[新型戦艦]の建造を始めた。設計図は従来設計図に手を加えて書き直した。その結果僅か2年で完成したのが[轟天]であった。中間砲を撤廃し、連装主砲塔4基・連装副砲塔4基で構成されている。主砲4基と副砲2基は船体上に1列に並べられ、残りの副砲は両舷に装備された。更に魚雷艇対策として備砲も30基搭載された。此れにより片舷火力で最大、主砲4基・副砲3基の砲が使用可能となった。この戦力投射数は世界最大である。この轟天は[1隻で2隻分]の働きをすると期待された。しかしその期待は良い意味で外れた。轟天は新型の蒸気タービン機関を搭載し、一躍22ノットの高速戦艦となった。この高速により、[距離の支配権]を握れるようになった。敵よりも巨大な主砲を装備し、敵の主砲攻撃に耐える装甲を装備し、蒸気タービン機関を装備。これにより敵は攻める事も逃げる事も難しくなったのである。主砲・副砲・備砲が大量に搭載出来た要因も、蒸気タービン機関の小型化によるスペースの有効活用と軽量化による船体全体の重量軽減にある。轟天完成により、世界中の戦艦が旧式艦の烙印を押された。この屈辱を晴らす為に、世界は建艦競争に突入するのだが、これは大日本帝國の作戦であった。強力な戦艦である轟天を[1隻]だけ建造し、世界の出方を伺ったのである。後に海軍軍令部は「轟天は設計図を書き直しただけの、実験艦である。」と断言している。世界は実験艦に旧式艦の烙印を押されたが為に、血眼になって建艦競争を始めたのであった。』
村上千江子著
『新型戦艦轟天の建造』より抜粋
1908年
2年に及ぶ地質調査の結果、ロシア帝國西部に大規模炭田がある事が分かった。この知らせに俄かにロシア帝國全土が活気づいた。早速ニコライ女帝は採掘を命じ、大日本帝國から採掘会社を呼んだ。紗耶香女帝直々に出張命令を受けた採掘会社は、ロシア帝國の会社に技術を教えつつ採掘を開始した。日露戦争の時が嘘のように、両国は親密な関係になっていたのだ。これこそ大日本帝國だけが有する特技である。数百年前にフィリピンで激突したスペイン帝國とも今でも友好国である。そしてこの年、世界初の大衆車『クラウン』を鈴木商店傘下の、豊田自動車が発売した。流動式生産方式により大量生産が開始され、価格も大量生産する為に安くなっていった。
1914年
サラエボ事件をきっかけに、世界大戦が勃発した。
次回は、第一次世界大戦〜第二次世界大戦です。 次回も結構長いかもしれません。