悪役令嬢アリス 〜ヒロインにフィアンセを奪われたので仕方なく世捨て人になる〜
「はぁ……はぁ…………み、水を……!」
ルポライターの男は山道をさまよっていた。
秘境の湖。あまりの美しさに息をも忘れるという伝説のそれを探し求めて山に入ったものの、山への認識が甘かった。もとより人の入ることのなかったこの山ですぐに遭難。飲水も食べ物ももう有りはしない。
日差しが容赦なく差す。汗も出尽くした。……このまま死んでしまうのだろうか。
その時、一筋の希望の光が走る。
「人の足跡だ……!」
ルポライターは命を懸けて辿った。
山の中腹の開けた場所に、一軒の木造の小屋がある。それは新しく、頑丈な造りで、人の気配が感じられた。
「どなたですの!?」
ルポライターは目を見開いた。何故ならその声は山奥には似合わない、鈴のように可憐で、上品で、少しの棘を思わせるものだったから。
国民なら誰もが知っている。否、知っていた。
「アリス様……?」
王国での壮大な結婚式。国民全員が祝福したそれは、王子とその婚約者アリス嬢……ではなく。王子と、異国から突如訪れた美しい姫君とのものであった。
アリス嬢はきつい性格ゆえ、貴族からはこれまた非常に嫌われていた。さらに婚約破綻。そうなれば彼女の受ける風当たりがどのようなものなのかは猿でもわかる。
結婚式以上に壮大ないじめだった。誰もがこぞってアリス嬢を叩き始める。……王子と姫君の目の届かない場所で。
結果として彼女は雲隠れした。中には暗殺疑惑も存在していた。
それがどうだろう。このような人目離れた山奥でアリス嬢が暮らしているとは!
彼女は世捨て人になっていたのだ!
新鮮な水と幾らかの食料を恵んでもらい、ルポライターは命を取り留めた。だが彼の喜びは別の場所にある。
とびっきりのネタを手に入れたのだから。
秘境の湖など、どうでも良くなるほどの!
あの嫌われ者のアリス嬢は、山奥でさえもその美貌は衰えていなかった。
絹の糸ような薄紫色の長髪。見るものを凍らせる碧の瞳。新雪の肌。
……ただ服装はオートクチュールのドレスではなく、至って簡素で平民のほうがまだマシなものを着ていたかもしれない。
眺めていると、元は執事であったろう老人が山の実を運んできた。
「どうぞ。お口に合えば宜しいのですが」
「バトス! なんて簡素なものを! 昨日煮詰めたジャムをお出しなさい」
「かしこまりました。お嬢様。……いえ、アリスさん」
「いやはや〜、それにしても驚きですな。アリスお嬢様、いつからこのような暮らしを!?」
ルポライターが卑しい笑みを浮かべて聞き出す。
「お嬢様だなんて、もう止めてくださいまし。私はもう貴族のしがらみから開放されたのですの」
「国中大騒ぎでしたよ? まさか、こんな辺鄙な……おほん、失敬。このような自然豊かな場所でお過ごしになっていらっしゃるとは。
王宮へ戻る気はございますか? いつ頃まで世捨て……おほん、山に滞在する気で? 国民への言葉は!? 結婚された王子と姫へなにか一言!!」
「おだまりになって!!!」
ガタン、とアリス嬢は立ち上がる。あまりの剣幕にルポライターは少し後ずさった。
「……私はここでの生活に満足しているのです。当分王宮へ戻る気はなくってよ」
「戻る気はない、と……ふむふむ」
アリス嬢は運ばれてきた木苺ジャムを木のスプーンで薄桃色の口へ入れた。
(歌声)
ああ〜♪麗しき王子との日々〜〜♪
なつか〜しき黄金の夢〜♪(バイオリンの音)
あっちはまるで宝石〜♪
こっちは薄暗い山の中〜♪
(語り)
でも、それでいいのよ。小鳥さんおはよう!
(小鳥のさえずり)
鎖はも〜うないの〜♪
鳥のように〜蝶のように〜♪
じゆ〜うに〜〜〜♪
生きる〜〜の〜〜〜〜♪♪(ビブラート)
ルポライターはアリス嬢の一挙一動を記録した。
「……お願いがあるのです。どうか私達をそっとしてくださいましね」
「えぇ、えぇ。もちろんですとも。いくら有名人といえどもプライベートは尊重しますよ。ですが、うまく行けばあなたの名声の回復だってあり得るのですよ?」
「私はもう……疲れてしまいましたの」
ルポライターは帰り道を教えてもらい、無事に下山した。
そして翌日、朝刊の一面にはデカデカと彼女の顔があった。
"元婚約者
アリス=ディザードは生きていた!!
「もう疲れた」
世捨て人と化した彼女の生活とは!?"
人の少ない静かな山に、波のように人が訪れる。彼女のプライベートはすべて崩壊した。
……そっとしておいて欲しかったのに。また、なにもかも奪われた。
しかし断固としてアリス嬢はその小屋を動かなかった。無礼極まりない取材陣にも真摯な姿勢で応じた。たまに歌った。
朝も夜も心休まる暇が無い日々は、永久に続くように思えた。日々アリス嬢はやつれていく。
あるべき居場所を失った悲劇の令嬢。
しかしその姿は、彼女を嫌っていた他の地位ある者にとっては格好のカモでしかない。
ある時、小屋は燃えた。明らかに放火であった。執事のバトスと共に、また自分たちの居場所を造り始める。猫の手も借りたい状況でも、取材陣は心を蝕みに来た。
人々が山を踏み荒らしたせいで、木の実がならなくなった。湧き水を汲んでいた小川が汚された。畑も荒らされ、食料が底をつきた。貧相な野草を少しだけしか食べられない日もあった。
栄養失調のせいか、体調をひどく崩した。バトスが一日中看病をしてくれた。見舞い品も持たない輩が無断で小屋の中に入ってきて、言葉を求めた。かすれた声で話すと、同じ質問をもう一度された。
それでも。それでも、アリス嬢は怒りや悲しみに身を任せることは無かった。
誰でももてなし、誠意を持って答えた。これは彼女が一時でも、一流の貴族だった誇りだ。
逃げず、怖じけず、アリス嬢は彼女の使命を全うした。
―――これは、私への罰かもしれない。
アリス嬢は昔、現在の王子の妻である異国の姫に、多くの仕打ちを行った。
それだけじゃない。自分の権威を振りかざして、酷く横暴を働いたものだ。
こんな今になったからこそ感じる。
今までの行為の愚かさ。
数々の仕打ちを受けた者の気持ち。
わがままな自分にずっと付き合ってくれたバトスへの感謝。
「バトス……いつも、ごめんね。ありがとう」
隣で看病をしてくれているバトスに辛うじて声を絞り出す。
バトスは目に一杯、こらえきれぬ程の涙を溜めて、震える声で応えた。
「……もったいない、お言葉……!
私は、私は……お嬢様に仕えることができて幸せでございます………!」
軽く戸を叩く音がする。
礼儀を弁えた取材陣もいたものだ。
「お入りください」と声をかけると、華奢な手がするりと入ってくる。
その者は、取材の為に来たのではなかった。
一般的な町娘。しかし心はあまりにみすぼらしく、疲れ果てていた。
まるで、現在のアリス嬢のように。
「シスター! 珍しいお花を摘んで参りました」
「まぁ。それはデイジーですよ。……きっとバトスも喜んでくれるわね」
シスターと呼ばれた婦人が振り返る。顔には多くのシワが刻まれているが、髪は年齢を感じさせないほど艷やかな薄紫色をしていた。
デイジーをきれいな花束にして写真に手向ける。
「……メアリーが摘んできましたのよ。この山じゃ珍しいでしょう?」
数十年前。メディアに大々的に取り上げられ、吊るし上げられたアリスという令嬢がいた。
しかし彼女の記事は、同じく居場所をなくし、頼れる者のいない女性たちの心を強く打つことになる。
貴族に虐げられ、貧しい暮らしを送る者にとっては、彼女の人生は憐れみや加虐の対象ではなかった。
大きな記事だからこそ、さまざまな階級の者たちの目に留まったのだ。
そしてアリス嬢の住む山の小屋は、そんな女性たちの心の巣となった。
彼女らは復讐を望まない。
ただ、強く、清く生きることにした。
―――野に咲く花のごとく。
今日も誰かが戸を叩く。弱々しく、今にも消えてしまいそうな小さな音で。
シスターは誰であっても、ここへ訪れる者を優しく迎え入れる。
「お入りください。…………あなたは……!」
忘れるはずもない。……否。忘れられなかった。
今は王妃である筈の、異国の姫君。
年老いても桜桃のような可愛らしさが面影にあった。
どうして―――口を開く前に彼女はシスターの膝下へ糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「私…………私……捨てられたんですの……」
泡のごとし声が零れる。
「なんてこと……おやつれになられて……。気がすむまで、どうかここでお休みになられてね……」
シスターは彼女を優しく抱きしめる。体温で心の氷が溶けていく。
二人の間にはもうすでに、過去のわだかまりは無かった。ここに居るのはただ、傷ついた一人の女と、慈しみをもった修道女だけである。
花瓶が水晶のように日の光を虹に変える。
渡り鳥の乙女達は傷めた白い羽を癒し、旅立ってゆく。
友達に読んでもらったら「百合オチかよ」と言われましたw
シスターは恋愛禁止なのかな?
連載中の「竜の娘」もよろしくお願いしますm(_ _)m