その6 初めての夜と屋敷の夕食
西の空に日が落ちて、空が夜の帳につつまれたころ。
僕の姿は変わらず池のほとりにあった。
強めの風が出てきたようだ。時折ザワザワと木の葉の鳴る音がした。
・・・・・。
いざ行かん大空へ! って言ってたって?
ああ言ったよ。飛び立つ気満々だったよ。
でも飛べなかったんだよ。
さて皆さま、私の足元をご覧ください。
おや? 見慣れないロープが見えますね。
ロープの先はどうなっているのでしょう?
ほうほう、私の着陸脚につながっていますね。
ではその反対側はどうなっているのでようか?
なんと。それはそれは立派な樹木に、しっかりと結びつけられているではありませんか。
・・・・・・
チクショー! あのピンク髪のお嬢様、やりやがった!
翼の下に潜り込んでたあの時だ。
僕が逃げ出さないようにこっそり木に結びつけてたんだ。
可愛い顔してなんてしたたかな女だ。
僕の脳裏には「今頃気がつきまして? おーっほっほっほ!」と悪役令嬢のような高笑いをするティトゥの姿が浮かんだ。
きいいいっ、悔しい。ビクンビクン。
どうにかロープを切れないものかと、いろいろと試してみたものの、エンジンの生み出す力が直接タイヤに伝わる自動車と違って、この身体は一度プロペラを回して、その風力で地面を走る方式なので、いかんせん馬力が足りない。
どこに隠し持っていたのか知らないが、しっかりとした作りのロープのようで、引っ張ったくらいでは全然びくともしない。
こうなっては、手のないこの身体ではどうしようもない。たかがロープをほどくことも出来ないし、刃物で切ることもできないのだ。
手も足も出ないというか、そもそも手も足も付いていないし。
今はエンジンも切っているので、辺りは静寂に包まれている。
それに少し気になることもある。
そのことについてはある程度時間が経たないと判明しない事なので、一先ず置いておくことにする。
それに今は、そんなことを考えている余裕がない。
また風が吹いたのだろう、ザワザワと葉が音を立てた。
夜行性の生き物が行動を開始したのだろうか、藪の中から不規則な音が鳴り、謎の鳴き声も響き渡った。
ぶっちゃけ、スゲー怖い!
今朝まで僕はガチガチの引きこもり系インドア派男子だったのだ。
いくら今の身体が青空駐機上等系ボディーでも、精神の方が平気でいられる訳がない。
いや、理屈では多分大丈夫だというのは分かっているんだよ?
こんなこじんまりとした森に、この全長10mの鉄の身体を脅かす生き物なんていないってことくらいは。
そもそもココってティトゥの家の敷地内らしいし、そんな危険な生き物を放置しておくなんてどう考えてもあり得ないし。
でもね、恐怖心というのは、理屈じゃないんだよ。
トイレに花子さんなんていないって分かっていても、怖いものは怖いんだよ。
それにここって異世界だよ? 危険な生き物はいなくても、ヌルヌルだったりベトベトだったり見た目が怖かったりする生き物とかがいるかもしれないじゃないか。
こっちの人達にとっては平気でも、日本人の感覚的には受け入れられないのとか普通にいそうだし。
ドラ〇エに出てくるモンスターだって、可愛く描かれているからいいけど、あれって普通に考えたら人間大のいも虫とか腐った死体とかだぜ。
もし今目の前に出てきたら、正気を保っていられる自信ないよ。
・・・ダメだ、常に何か関係ないことを考えてないと、怖くてどうしようもない。
なんか、木や茂みで視界が遮られているのが余計に想像力を刺激してヤバイよ。
こんなことなら、人に見つかる危険があっても荒野のド真ん中に着陸しておけば良かった。
もし今何かが飛び出してきたら、まるで初めて戦場に立った新兵のように、20mm機関砲の残弾が空になるまで発射ボタンを押しっぱなしにする自覚があるよ。
こうして僕は異世界生活最初の夜をまんじりともせず孤独にすごしたのだ。
夜よ、早く明けてくれ。
僕は恐怖に身を震わせるのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
マチェイ家の食堂は沈黙に包まれていた。
食事を摂る際に立てる音だけが小さく響く。
下士の家といえども、貴族に連なる地位である。当然食事中に会話をするような不作法はない。
とはいえ家族で囲む食卓である、いつもであれば、食前酒と前菜の間、前菜とメインとの間、など料理の間にちょっとした会話くらいはある。
だが今日はそれすらもない。
一番年下の7歳の長男以外はその理由を知っている。
そして唯一理由を知らない彼も、いつもにない沈んだ雰囲気に委縮したのか食が進んでいない様子だ。
そう、屋敷の人間はそれこそメイドから庭師に至るまで全員が知っているのだ。
マチェイ家の次女、ティトゥの婚約が破棄されたということを。
そんな暗い空気の漂うなか、当の本人であるティトゥだけはこの場の空気を全く気にしていなかった。
上機嫌すぎてそのことに気が付いていなかったのだ。
そして彼女のその姿を見て周りの人間は彼女が無理に明るく振舞っていると思い、さらに場の空気が重くなるという負のループ。
だが唯一ティトゥの本心を知る彼女付きのメイドは、昼間ティトゥを止められなかった罰でメイド長から厩の掃除を言いつかっていてまだ屋敷に帰ってきていない。
もっともカーチャが何を言ってもティトゥが聞くことがないのは誰しも知っていることなので、同情した料理人からは掃除に向かう前にこっそりとクッキーを差し入れてもらっていた。
「ねえ、お母さま。ちょっと聞きたいことがありますの」
気の重くなる食事も終わり、食後のお茶の時間。
ティトゥは母親に話しかけた。
動揺した母親の手にしたティーカップが受け皿に当たり大きな音を立てた。
ただそれだけのことで、張りつめていた場の空気がサッと凍る。
そのことで、今初めてこの場に漂う不穏な空気に気が付いたティトゥだが、元々他人の目を気にするような性格ではないので、自分の質問を優先することにしたようだ。
「な・・・何かしら? 私が答えられることならいいのだけれど。お父様に聞いた方が良いかもしれないわよ?」
突如妻に売られた夫が、信じられないものを見るような目で妻を見た。
妻はあえてそちらに視線を向けず、目の前のティーカップに目を落とす。
そんな夫婦間の緊迫したやりとりをよそに、ティトゥは話を続けた。
「ドラゴンってどんな名前を付けるものなのかしら?」
「「ドラゴン?」」
予想もしなかった内容に夫婦の声がハモった。
「ええ。人間に付けるような名前を付けるのも、ペットに付けるような名前を付けるのも、どちらもドラゴンにはふさわしくないと思うの。」
なぜ娘が急にドラゴンの名前を話題にしたのかは分からないが、夫婦にしてみてもそれなら気軽に乗れる話題だ。
妻に強引に巻き込まれた夫にとっては特にそうだった。
彼は口ひげを撫でながら娘の問いかけに答えた。
「そうだね。子供向けの物語や騎士譚では獄炎の銀朱龍とか、水浅葱色の氷結龍とか聞くけど、どっちも名前というよりは誰かがつけたあだ名みたいな感じだしね」
「あだ名って言い方はないですわ。カッコ良く”二つ名”と言ってほしいですわ。」
娘のダメ出しにバッサリ切られ、父親涙目である。
親の心子知らず、子の中二心親知らず。
お父さんはこれでも頑張った方なのだ。
そう、この世界にドラゴンはいない、いや、存在を確認されていない。
そもそもドラゴンなどおとぎ話の中の生き物なのだ、子供はともかく大人が真面目にする話題ではない。
地球で未確認飛行物体を見た人がそれをUFOと呼ぶように、この世界の人間にとっては未確認飛行物体はドラゴンなのだ。
昔の日本人が恐ろしいモノを何でも鬼と呼んだように、形や大きさに特に決まったルールがあるわけではない。
誰かが見たと言っている、実際にいるのかいないのか分からない与太話。それがこの世界でのドラゴンの正体であった。
「昔話なら、それこそドラゴンから知恵を授かった賢者の話や、ドラゴンを騎乗した竜 騎 士の話もあるものね。もし本当にドラゴンがいるなら、私達人間がそうするみたいに、ドラゴン同士では名前で呼び合っているんじゃないかしら?」
「! それですわ!」
ドラゴンには親ドラゴンがつけた名前がある。
当たり前のようだが、目から鱗の発想であった。
ましてやティトゥが知るドラゴンは、彼女の分からない言語で、いや、彼女の名付けた言葉”聖龍真言語”で喋るのだ。名前を持っていてもおかしな話ではない。
幸いなことにドラゴンは屋敷に帰る前にロープで太い木に結びつけてきた。
ドラゴンが森に降りたのを見た時、念のために持って行ったロープが役に立った。
屋敷で馬を繋ぐのに使っている丈夫なロープだ。身体が弱っているドラゴンが切って逃げ出したりはしないだろう。
明日はドラゴンと絆を深め、名前を教えてもらおう。
夜よ、早く明けて頂戴。
奇しくもそれは、彼女と彼女のドラゴンと、時同じく心同じく願った想い。
ティトゥは明日に心躍らせるのだった。
次回「明けない夜はなかった」