その9 逃げ道
帝都の北、カルヴァーレ侯爵領。
異変の原因に注意を奪われていた僕は、飛行タイプのネドマの群れの真っただ中に、不注意に入り込んでしまったのだった。
「まずい!」
そう思った時には時すでに遅し。
ネドマの群れはすでにこちらをロックオンしていた。
目の前の飛行タイプの群れがフラリと揺れると、無数のネドマがこちらに向かって殺到して来た。
「ティトゥ! 急いでこの場から逃げるよ!」
『ええ、了解ですわ!』
ティトゥは背後を振り返ると、エルヴィン王子を胴体内補助席に押し付け、手早く安全バンドで固定した。
そして自分も安全バンドを掴むと僕に叫んだ。
『ハヤテ! 行って頂戴!』
「了解!」
僕は機体を180度ロール。天地が逆転すると同時に垂直降下、そして流れるように機首上げ。空中に半円を描くように反転した。
戦闘機の代表的な空中戦闘機動、スプリットSである。
『うぐっ』
強烈な重力加速度にエルヴィン王子が押し殺した悲鳴を漏らす。
スプリットSの優れている点は、位置エネルギーを運動エネルギーに変える事で、速度を落とさずに進行方向を変えられる点にある。
だが、その代償として搭乗員の体に負荷がかかってしまう。慣れているティトゥはともかく、エルヴィン王子には負担が大きかったようだ。
「――つっ! しまった!」
進行方向真正面に大型種が!
咄嗟に二十ミリ機関砲の発射把柄を押し込むが、四丁の機関砲は何の反応も示さない。
そうだった。先程の戦いで残弾はゼロ。弾倉内には一発も弾が残っていなかったのだ。
マズい、ぶつかる! くそっ! 間に合えーっ!
僕は鋼線も千切れよとばかりに、方向舵の鋼線を引き絞った。
機体の進行方向に対して、機首が左に振れる。少し左斜めに向いたまま真っ直ぐ飛ぶような形である。
バカーン!
右主翼が折れたのではないかと錯覚するほどの激しい衝撃と共に、大型ネドマが木端微塵になって後方へと吹っ飛んで行くのが見えた。
危なかった。ギリギリの所で正面衝突だけは避ける事が出来たようだ。
もし、あれだけの質量に真正面からぶつかっていたら、プロペラブレードの大破は免れなかっただろう。
そうなれば最悪、動力を失ってそのまま墜落。仮に運良く無事に着陸出来たとしても、そこはネドマの群れの真っただ中だ。そのままヤツら餌食になる未来しかなかったところである。
しかし、ホッとしたのも一瞬の事。視界には次のネドマが飛び込んで来ていた。
バツン! ベチン!
今度のはさっきよりも小型だったせいか、衝撃もそれ程では無かった。
とはいえ、四式戦闘機の飛行速度は時速300キロ以上。
今の状況は、プロ野球のピッチャーが投げる球の倍以上の速度で、野球ボールの数倍の質量が飛んで来ているようなものだ。
当たり所が悪ければ、例え金属製の外皮を持つ応力外皮構造の戦闘機といえども無事では済まない。
「だからと言ってどこに逃げれば――」
僕は焦って前方を見回すが、完全に飛行ネドマに取り囲まれていて逃げ場はない。
スプリットSで反転したのは失敗だったか?
安易に高度を下げた事で、飛び上がって来るネドマの群れに正面から突っ込む形になってしまったようだ。
だからと言って上下が逆方向の反転方法――インメルマンターンを選んだとしても、それ程違いは無かっただろう。
スプリットSが位置エネルギーを運動エネルギーに変えるのに対し、インメルマンターンは逆に運動エネルギーを位置エネルギーに変換する機動。
速度が落ちれば、その分だけネドマに時間的余裕を与えてしまう事になるから、結局、厳しい状況になっていたのに変わりはなかったのではないだろうか?
・・・せめて少しでも二十ミリ機関砲の弾丸が残っていたら。
あの時、深く考えずに引き返さない選択をした事を、僕は今更ながら激しく後悔していた。
「いや、今は過去を悔やんでいる時じゃない。ここから逃げ出す道を見つけ出さないと――待て。そうか、位置エネルギーだ!」
僕はグイッと機首を上げた。
丁度正面から向かって来ていた飛行ネドマが、機体下部に激しくぶつかる。
バンッ!
危ない。後コンマ数秒、機首上げが遅れていたらプロペラにかすっていたかもしれない。
僕はカウルフラップを展開するとエンジンをブースト。重力に逆らって上昇を続けた。
ゴオオオオオオ!
ハ四五誉エンジンが轟々とうなりを上げる。
バチンバチンという音は、小型ネドマが機体に激突し、バラバラになって弾け飛ぶ音である。
「予想通りだ! やっぱり上空の方が大型ネドマが占める割合は低くなっている!」
囲まれた事にすっかり慌ててしまっていたが、落ち着いてよく見てみればネドマの分布には明らかな偏りがあった。
具体的に言えば、翼の大きな小型の個体はより高い位置に多く、低い位置には大型の個体が多い。当たり前だ。重量があれば、その分だけ上昇するのに――位置エネルギーを得るのに時間がかかるのだ。
「そんな事にすら気が付かなかったなんて、僕はどれだけ焦っていたんだか」
小型のネドマも危険な事に違いはないが、流石に大型種程ではない。
その小型ネドマの数すらも、高度を上げるにつれてみるみるうちに減っていく。
やがて高度が五千メートルを超えると、飛行ネドマは一匹も見当たらなくなってしまった。
ちなみに実際の四式戦闘機・疾風が、高度五千メートルまで到達するまでにかかる時間は4分30秒。
四式戦闘機は格闘戦をこなせるだけの運動性能を持ちながら、重戦闘機並みの上昇力を兼ね備えた、当時の日本陸軍の誇る万能戦闘機なのである。
『――テ! ハヤテ! ハヤテ!』
巡航速度で飛んでいた僕は、ティトゥの声にハッと我に返った。
いけない、いけない。ピンチから逃れられた安心感に、少しボーッとしていたようだ。
「ゴメン、ちょっとボンヤリしてた。二人共大丈夫だった?」
『私達なら何ともありませんわ。それよりハヤテの方こそ大丈夫なんですの?』
ティトゥの言葉に、エルヴィン王子が小さく手を振って応えた。
少し憔悴している様子だが、確かに二人共ケガなどはしていないようである。
次に僕は丹念に自分の体を見回した。
人間の頃なら、こんな手間をかける必要もなかったのだろうが、四式戦闘機の体に転生して以来、暑さ寒さに加え、痛みもほとんど感じなくなっている。
面倒でもこうやって目視で損傷個所を確認するしかないのだ。
痛みは身体からの危険信号、とも言うが、確かにこういう時には痛みを感じない体は不便なのかもしれない。
「うわっ・・・これは結構ハデにやられちゃったなぁ」
全身の至る所に大小様々なキズが出来ているが、最も目立つのは右の主翼の大きなへこみ跡だろう。最初に大型種がぶつかった時のアレである。
「右主翼前縁がベッコリへこんでるのが見えるかな? どうもフレームから歪んじゃってるみたい」
『それって大丈夫なんですの?』
大丈夫かどうかで言うと、多少の振動を感じるくらいで、特に飛行に影響はないようだ。
とはいえ、派手に損傷しているのは間違いないので、激しい機動なんかは避けておいた方が無難だろう。
「という訳で、ネドマを完全に振り切れたと確認出来るまでは、今の高度を維持しときたいんだけどいいかな?」
周囲には一匹もネドマの姿は見当たらない。
察する所、飛行ネドマの限界高度は二~三千メートル付近にあるようだ。
とは言っても、無理をすれば多少の高度ならついて来れるかもしれないので、念のために今の高度を飛んどいた方がいいだろう。
ティトゥはホッと安堵の息を吐いた。
『もちろんですわ。エルヴィン殿下――』
ティトゥが今の言葉を伝えると、エルヴィン王子は微笑を浮かべて頷いた。
『こちらも構わないとも。それにしても、さっきの空中戦はすごかったな』
空中戦、ねえ。
僕はバツの悪い思いに、思わずため息をつきそうになった。
感心してくれているエルヴィン王子には悪いけど、さっきのは戦いなんて立派なものではなかった。
自分の能力を過信した挙句、自分のみならずティトゥとエルヴィン王子まで危険に晒して、アタフタとみっともなく逃げ回っていただけ。
最初から慎重に行動していれば、あるいは落ち着いて周囲を良く観察していれば、そうすれば、あんな醜態を晒す事は無かったのである。
全く持って恥ずかしい。僕は一体何をやっているんだ。
四式戦闘機・疾風はこの世界では未来兵器。その能力は正にチートと言ってもいいだろう。
しかしそれを生かすも殺すも、僕の操縦一つにかかっているのだ。
こんな事で、本当に大災害の被害を未然に防ぐ事なんて出来るんだろうか・・・
僕はこの世界に転生して以来、久しぶりに感じる挫折感に深く落ち込んでしまうのだった。
次回「エミネク砦の両国首脳」