その26 転生
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炎に包まれる大きな館。建物に囲まれた小さな中庭に男が一人、額から血を流しながら呆然と立ち尽くしていた。
大陸を統べる強国、ミュッリュニエミ帝国の皇帝ヴラスチミルである。
長い髪はほつれてざんばらになり、これ一着で平民が一年間は暮らしていけそうな高価な寝間着は、ススを被ってまだら模様に汚れ、あちこちに丸い焼け焦げを付けている。
ヴラスチミルは憔悴しきった顔に焦りの色を浮かべながら、周囲に呼びかけた。
「誰か、誰かおらぬか。皇后は、皇后は無事なのか」
しかし皇帝の声に答える者はいない。
聞こえて来るのは、パチパチと建材がはぜる音と、どこかで焼けた建物が崩れ落ちる音だけ。
「・・・ワシを助けよ! これは命令だ! 誰でもいい、誰でもいいからワシを助けよぉぉぉ!」
ヴラスチミルの悲鳴は虚しく周囲に吸い込まれた。
その夜、帝国全土を激しい地震が襲った。
その規模は震源地となるカルヴァーレ侯爵領で震度4から震度5弱。
ちなみに日本は地震大国とも呼ばれ、その数では世界第一位。世界中の地震の約二割が日本周辺で起きているとも言われている。
震度4以上の地震に限ったとしても、日本では年間で五十回以上。多い年では百回以上も観測されている。
つまり震度4は日本ではそれ程珍しくない規模の揺れなのだが、ほとんど地震の起きた事のないこの大陸ではまた別であった。
この揺れで耐震構造が考えられていない建物の多くが倒壊した。
時刻が深夜だったのは被害者にとって不運でもあり幸運でもあった。
不運は、地震が人々が寝静まっていた時間――つまりは全員が家で寝ていた時間に起きたため、家の倒壊に巻き込まれてしまった者達が多かったという点。
幸運だったのは、寝ていたため誰も火を使っていなかった――つまりは火災による二次災害の被害が無かったという点である。
しかし、皇帝ヴラスチミルの住まう館、ヴラス=ベリオ館では別である。
皇帝の住居として、ここでは一日中灯りを絶やさない。
そしてヴラス=ベリオ館のある場所はカルヴァーレ侯爵領。
そう。館は今回の地震の震源地に建てられていたのである。
最初の揺れで多くの者達が館から逃げ出した。
その中には皇后ベリオールも含まれている。
寝室で寝ていた皇帝ヴラスチミルは、この流れに乗り遅れた。
彼の寝室は館の最奥にあり、外に出るためにはいくつも部屋を通らなければならなかったからである。(ならばなぜ皇后ベリオールはすぐに館の外に出られたのかと言えば、それは皇帝と一緒に寝ていなかったため――つまりは別の場所で歳の若い恋人と密かに逢瀬を楽しんでいた最中だったからである)
地震の揺れで火のついた灯りが倒れたのか、それとも逃げる際に誰かが火を倒したのか。
館のあちこちで火の手が上がり、誰も消し止める者のない火は瞬く間に建物中に燃え広がっていった。
皇帝ヴラスチミルが這う這うの体で中庭に出た時には、既に館は一面の炎に包まれていた。
「誰か、誰かおらぬか。皇后は、皇后は無事なのか」
彼は若く美しい皇后の安否を気遣った。
皇后ベリオールは真っ先に恋人と一緒に館を逃げ出していたのだが、当然ヴラスチミルは知らなかった。
ヴラスチミルは周囲を見回した。
ここは建物に囲まれた小さな中庭である。
大きな建物を建てる場合、明かり取りや建物内の風通しなどを考えて、このようなオープンスペースが設けられる事がある。
地球でもギリシャやイタリア、スペイン、イスラム圏などで見られる習慣である。
館は完全にもぬけの殻となっていた。
いくら今が深夜とはいえ、館には不寝番の騎士もいれば泊まり込みで働いている使用人達もいる。
その誰もが皇帝を助けようとはせず、我が身可愛さのあまり逃げ出した点からも、ヴラスチミルの人望のなさが伺われた。
「・・・ワシを助けよ! これは命令だ! 誰でもいい、誰でもいいからワシを助けよぉぉぉ!」
ヴラスチミルは悲鳴に似た命令を叫んだが、その言葉は無人の館に吸い込まれただけに終わった。
「ワシはこんなところで死ぬのか? そんな恐ろしい死に方はイヤだ。ワシは死にたくない。ワシはまだ死にたくはないのだ!」
ヴラスチミルは赤く血走った目で周囲を見回した。
どの方向に逃げるにしても、そのためには燃える建物の中を通る必要がある。
この短時間で火の勢いは益々強まり、今や近付いただけで肌があぶられて痛みを感じる程である。
仮にこの炎をどうにか出来たとしても、立ち込める煙で呼吸困難になり、ろくに前に進むことも出来ずに倒れてしまうのは間違いない。
だからと言ってこの場で救助を待とうにも、今や火の粉は四方八方から降り注ぎ、庭木に燃え移るのも時間の問題と思われた。
そもそも建物が焼け落ちて来れば、大量の焼けた建材によって生き埋めにされてしまう。
先に進むも死。この場に留まるも死。
不可避の死の運命に、小心者のヴラスチミルの心は耐え切れなかった。
「ハア・・・ハアハア・・・オゲエエエ」
彼は荒い息を吐くと、緊張のあまり嘔吐した。
ヴラスチミルは口を吐しゃ物で汚したまま、降りかかる火の粉から少しでも逃れようと、フラフラとした足取りで中庭に作られた東屋へと向かった。
東屋の真ん中には巨大な宝石の原石が飾られている。
カルヴァーレ将軍から献上された、例の赤い宝石である。
ヴラスチミルとしては最初、広間に飾るつもりでいたのだが、周囲からの反対に遭い、この場に置かれる事となったのだ。
反対の理由としては、各地の貴族から美術品が送られて来ているため、広間には是非そちらの方を飾りたい。この宝石は大きすぎて置き場所を取ってしまうため、出来れば他の場所に飾りたい。との事だった。
一見、最もな理由のようにも思えるが、それらの美術品が元皇后派――反カルヴァーレ将軍派から送られている事を考えると、彼らが元皇后派から金を握らされているのは明白であった。
つまりこの巨大な宝石が広間ではなく、東屋に飾られる事になったのは、政治の力が働いた結果という訳である。
宝石は炎の灯りを反射して、まるで血に濡れているかのように輝いている。
ヴラスチミルは宝石の元にたどり着くと、倒れ込むように抱き着いた。
「ワシは、ワシは絶対に死なんぞ! この国は誰にも渡さん! この国も、この世界一の宝石も全部ワシの物だ!」
宝石はまるで鼓動のように怪しく脈打っている。
その時、大きな音を立てて館の屋根が焼け落ちた。
「イヤじゃ! 死ぬのはイヤじゃ! ワシは死にとおない!」
最後の瞬間。ヴラスチミルの心を占めたのは死への恐怖。
そしてその恐怖は一昨年の戦勝式典の際、彼を人生の絶頂から一転して恐怖のどん底に突き落とした恐ろしい化け物、ミロスラフ王国のドラゴン、ハヤテの記憶と重なった。
生への強い執着。そして死への強い恐怖を抱いたまま、帝国皇帝ヴラスチミルは死んだ。
しかし、事態はそれだけでは終わらなかった。
ヴラスチミルの死の直後、彼の魂は肉体から離れると、そのまま赤い宝石――魔法生物の種と呼ばれる物へと吸い込まれたのである。
魔法生物の種。
そう。かつてチェルヌィフの砂漠の地で叡智の苔を生み出し、二年前にミロスラフ王国で四式戦闘機・疾風を生み出したあの宝石状の物体である。
赤い宝石はそれ単体では何も生み出す事はない。それは単にエネルギーの塊であり、魔力が物質化した物でしかないからである。
しかし、宝石が意志の力を、生き物の魂を取り込んだ時、それはこの世に【魔法生物】と呼ばれる新たな生き物を生み出す。
そのため、この赤い宝石は叡智の苔から【魔法生物の種】と名付けられていた。
死にたくない。
死に、たく、な、い・・・。
死・・・に・・・オオオオオオオオオ。
ヴラスチミルは魔法生物として転生した。
しかし、叡智の苔やハヤテの時とは異なり、彼の心は大きな力の渦に完全に飲み込まれていた。
オオオオオオオオオ
死・・・死・・・死・・・
死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死
あるいはヴラスチミルの小さな心は、死の恐怖に耐えられなくなり、宝石に取り込まれる以前にもう壊れていたのかもしれない。
しかし、壊れてはいても心は心。
魔法生物の種はその力を使って、宿主の心を反映した新たな命を生み出そうとしていた。
ボキッ・・・ボキボキ、ボキ
瓦礫に埋もれた中、赤い宝石は次第に姿を変えて行く。
一部が大きく伸びるとそこが手足となり、首が出来、尻尾が伸びると、背中にはコウモリのような大きな翼が生えた。
その姿はヴラスチミルにとってこの世で最も恐ろしい存在。死と恐怖の象徴。
それは彼の悪夢の中に存在する、禍々しくもおどろおどろしい巨大なドラゴンの姿だった。
【オオオオオオオオオ】
ドラゴンへと転生したヴラスチミルは、燃える瓦礫の中でおぞましい産声を上げた。
次でこの章も終わりとなります。
次回「エピローグ 厄災を呼ぶ赤い宝石」