その37 冬の時代
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いつもであれば艦内は、どんな時でも船乗り達の声で溢れかえっているのだが、今はシンと静まり返っている。
遠くに聞こえる木を叩く音は、船大工が作業をしている音だろう。
帝国海軍、黒竜艦隊の旗艦は、現在、トルランカの港で船渠入りして修理中である。
ひと気のないまるで廃墟のような艦内を一人、ゆっくりと見回している初老の男。
黒竜艦隊指揮官、ハイネス艦長である。
「艦長! こんな所におられたのですか!」
真面目そうな青年貴族が艦長の姿を見付けると、慌てて駆け寄った。
「副長か。一体どうした?」
「あ、いえ、その、特に何か用事という訳では。・・・あの、損傷した箇所をご自分の目で確認しておられたのでしょうか?」
ハイネス艦長の視線の先には、丸く抉られたような拳大の穴が開いている。
化け物の攻撃――ハヤテの20mm機関砲の弾丸――によって穿たれた破壊孔である。
この船にはこんな穴が、それこそ何十か所も空いている。
だが一体、どのような力が加われば、分厚い舷側の板にこれ程の破壊の跡を残せるのだろうか?
副長は思わず表情をこわばらせた。
「船大工が言っておりました。この破壊をもたらしたのは、親指程の大きさの金属の塊だったと」
ハイネス艦長も同じ報告を受けていたのだろう。副長の言葉に小さく頷いた。
ハヤテが特に狙いも付けず、適当にばら撒いた20mm機関砲弾。そのうちのいくつかは船の外板を貫通し、海中に消えたのだが、中には柱や構造物に食い込み、船内に残った物もあった。
それらの弾頭は船大工の職人達によって取り出され、ハイネス艦長達に提出されていた。
「鍛冶師によると、金属は、元は整えられた棒状だったと思われるそうです。それが恐ろしい威力で船体に食い込んだ事で潰れ、あのようないびつな形になってしまったのではないかと、彼らはそう語っていました」
「恐ろしい事だな」
ハイネス艦長は目を閉じてかぶりを振った。
「・・・あれはやはりミロスラフ王国のドラゴンだったのでしょうか?」
「確証はない。――が、他には考えられんな」
ミロスラフ王国のドラゴン。
一昨年、半島平定に向かったウルバン将軍の南征軍に襲い掛かり、撤退にまで追いやった恐るべき怪物である。
その力は人間の体を引きちぎり、バラバラに消し飛ばすと言われている。
なる程。硬く分厚い外洋船の外板にすら容易く穴をあける化け物である。もし、これと同じ力が柔らかな人体に向けられたらどうなるか? その結果は想像するまでもないだろう。
「しかし、思ったよりも負傷者が少なかったのは幸いでした。これも艦長の撤退の判断が早かったおかげですね」
副長は敬意を込めて、あの時のハイネス艦長の判断の正しさを称えた。
怪物が――ハヤテが黒竜艦隊に襲い掛かった時、ハイネス艦長はすぐさま後退の命令を出した。
「後退?! 本当によろしいのですか?!」
副長は驚きの声を上げたが、ハイネス艦長は副長の危機感の足りなさに苛立ちを覚えた。
「相手は我が艦隊の大型輸送船を一撃で航行不能にした怪物だぞ! このまま艦隊を全滅させるつもりか!」
そう。相手は巨大な輸送船すら沈めてしまう程の化け物なのだ。
輸送船よりも一回り小さなこの船など、怪物の前にはひとたまりもないだろう。
無線通信もないこの世界では、旗艦からの命令は、小舟を使った伝令か信号旗。夜間の場合は光の合図でしか行えない。
この混乱の中では、当然、伝令など出せるはずもないため、使えるのは船舶信号旗しかない。
行動開始の僅かな遅れが、そのまま艦隊の全滅に直結する恐れすらあった。
――だが、ご存じの通り、ハヤテは一日二発しか250キロ爆弾が使えない。
ハヤテは開幕早々、これを四隻の大型輸送船のうち二隻に対して一発づつ使っているため、今日の分は打ち止めである。
つまり、ハイネス艦長の心配は完全に杞憂なのだが、それはハヤテの仕様を知っている者にしか分からない事であり、帝国側にそれを知る者は誰もいなかった。
そして250キロ爆弾がなくなったからと言って、ハヤテの攻撃が終わった訳ではなかった。
ヴ――ン!
「ば、化け物が襲って来たぞ!」
「ひいいいいいっ!」
ハヤテは逃げる船を追い散らすように襲い掛かると、20mm機関砲を打ち込んだ。
手も足も出せない敵から一方的に命を狙われる恐怖に耐えられる者は多くはない。
ハイネス艦長の判断は、むしろ妥当なものだったと言えるだろう。
こうして黒竜艦隊は戦場を放棄。ヘルザーム伯爵領のミコラツカの港へと後退した。
ちなみにハイネス艦長が被害報告を受けていた丁度その時、最後まで戦場に残って兵を救出していた大型輸送船が、ようやく艦隊に合流した。
輸送船の艦長の勇気ある決断と、乗組員達の我が身を顧みない活躍で、黒竜艦隊はこれ以上の命を失わずに済んだのであった。
こうして黒竜艦隊は、奇跡的に人命に関しては、それ程大きな被害を出さずに済んだ。
しかし、帝国海軍の虎の子、新型の大型輸送船を同時に二隻も失ったのは大きかった。
帝国皇帝ヴラスチミルは、この報告を聞くと直ぐに軍の撤退を命じた。
彼が欲しかったのは、格下相手の圧倒的な勝利の報告であり、それは貴重な新鋭艦を損なってまで得たいものではなかった。
そう。彼は自慢の新兵器を失うのが、急に惜しくなってしまったのである。
戦いに絶対はない。そして兵器というのは消耗品である。仮に敵に破壊されなくても、不慮の事故で損失するなど良くある事である。
だが、皇帝ヴラスチミルにはそれが理解出来ていなかった。いや、大事な兵器を失う覚悟がなかった。
彼にとって黒竜艦隊は、自分の権威の一部。ピカピカの鎧を着た儀仗兵のようなものだったのである。
黒竜艦隊はヘルザーム伯爵領を後にすると、母港のトルランカの港へと戻った。
その結果、ヘルザーム伯爵は、突然、帝国から見捨てられる形となった。
ヘルザーム伯爵家は、大騒ぎになった。
家臣団の中には、あくまでもミロスラフ王国軍との徹底抗戦を唱える者達、そして降伏を望む者達とで意見が割れた。
ハイネス艦長達が伯爵領を去る頃には、何人かの血が流れていたようである。
「結局、我が軍は半島くんだりまで行って何をしたかったんでしょうね」
副長の言葉に、ハイネス艦長は長い思考から覚めた。
半島に行って何がしたかったのか。それに答えられる者はいないだろう。おそらくは出兵を命じたヴラスチミル皇帝ですらも、明確な答えを持っていないに違いない。
兵士達は訳も分からないままに異国の地で戦い、無駄にその命を散らしたのである。
帝国は――この国はいつからこんな国になってしまったのだろう。
前宰相ベズジェクの病没から始まり、ウルバン将軍が敗戦の責を負って更迭させられ、跡継ぎである皇太子ダリミルが粛清された。
今や王城はカルヴァーレ将軍とその一派が我がもの顔でかっ歩し、皇帝ヴラスチミルは若い皇后に夢中になるあまり、すっかり国政に興味を失っている有様である。
「冬の時代・・・か」
この国は今、長い冬の時代に入ってしまった。
そう言ったのは誰だっただろう?
付き合いのあるチェルヌィフ商人か、あるいは酒の席で誰かが漏らした愚痴だったか。
帝国にとっての寒く厳しい冬の時代。しかし、いつまで我慢し続ければ降り積もった雪が消え、暖かい春が訪れるのだろうか?
「艦長? 何か?」
思わずこぼれた呟きに、副長が怪訝な表情を浮かべた。ハイネス艦長は「何でもない」と小さく手を振った。
「それよりも、しばらくの間ここを留守にする。その間の事は副長に任せた」
「それは構いませんが、いつ頃お戻りになられるのでしょうか?」
艦長は小さく苦笑した。
「いつだろうな。あるいはもう戻れないかもしれんな」
「! そ、それはまさか――」
ハイネス艦長は懐から折りたたまれた手紙を取り出した。
手紙の蜜蝋にはミュッリュニエミ王家の紋章が箔押しされていた。
「王城に出頭せよとの命令だ。今回の敗戦の責任を問われるのだろうな」
「敗戦――いえ、我々は負けた訳ではありません! 本国からの撤退命令さえなければ、まだ戦えていました!」
「いいのだ、副長。新鋭艦を二隻も失ったのは事実。その責任を誰かが取らなければならないのだよ」
「た、確かに船は失ったかもしれませんが、ほとんどの兵士は救出されております! 船などまた作ればいいのです!」
ハイネス艦長は寂しそうな表情を浮かべた。
「王城にはそう思わない者達もいる。兵士などいくらでも替えの効く消耗品。それよりも対外的にも見栄えがいい、最新鋭の船の方が大事。そう考える者も確かにいるのだよ」
副長はこの時、なぜハイネス艦長がこんな所に一人でいたのかを察した。
艦長は今までずっと苦楽を共にして来た自分の船に、最後の別れを告げていたのだ。
「艦長・・・」
「なに、そう難しい顔をするな。ひょっとすると、陛下は直接私から言い訳を聞きたいだけかもしれんぞ。その場合、話が終わればあっさりここに戻って来る事になるだろうな」
ハイネス艦長があえて口にしてみた楽観的な予想。だがこれは残念ながら現実のものにはならなかった。
王城で彼を待っていたのは、カルヴァーレ将軍一派の苛烈な責任追及だった。
彼らは自分達自身は一度も戦場の土を踏んだ事がないにもかかわらず、したり顔で艦長の戦いをあげつらった。
結局、ハイネス艦長は、皇帝に釈明する機会すら与えらないまま、艦長の任を解かれ、軍を追放される事となるのだった。
次回でこの章も終わります。
次回「エピローグ ダリミル皇太子の呪い」