その43 夜の密会
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夜。聖王都の町の家々に明かりが灯る。
夜空に瞬く星々の光を圧倒する街の灯りは、自然に抗う人間の文明の象徴なのかもしれない。
そんな美しき聖王都を見下ろす荘厳な白亜の城。聖国王城の最奥。
静謐な広い廊下を一人の若者が、護衛の騎士と従者を連れて歩いていた。
やや小柄な若者だ。ただ背が低い訳ではなく、服の上からでも良く鍛えられた引き締まった体である事が分かる。
母親譲りの燃えるような赤毛。そして意志の強さを思わせる太い眉。
ただ歩いているだけで、自然と人目を集めてしまう高いカリスマ。
この国の第二王子カシウスであった。
「ここまででいい。ご苦労であった」
カシウス王子はドアの前に立つと、付き従う者達にそう告げた。
王子の言葉に従って、護衛はドアの両脇に。従者達はその場で立ち止まって頭を下げた。
この扉の先は彼ら王族が生活する区画。
勿論、そこにも護衛も従者もいるが、現在、王子に従っている者達とは役職が異なっている――所属と管轄が異なっているのである。
ここからは王族を支える一族によって管理された場所。モニカの祖母マルデナ・カシーヤスが守る、この国で最も安全が保障された領域なのである。
分厚いドアがゆっくりと開くと、王子の姿はその奥へと消えたのであった。
自室に戻った王子は、寝室から聞こえる僅かな物音に眉をひそめた。
聖国の王族に生まれてこの方、彼にはプライベートな時間はほとんど与えられていないと言ってもいい。
しかし、寝室での時間だけはその僅かな例外。彼に許された数少ない自由な時間となる。
そのためカシウス王子は、日頃から寝室に人の出入りを許す事はほとんどなかった。
朝起きる時でさえ、寝室の外から声を掛けさせている程である。
(今日は妻と寝る日ではなかったはずだが?)
カシウス王子は夕食の後に食堂の外で別れた妻の顔を思い出した。
そもそも、彼女が部屋にいるなら、外の護衛がその事を彼に報告しない訳がない。
ならば不審者の線だが、普通に考えて聖国王城の最奥に忍び込める者がいるとも思えない。また、仮にいたとしても、護衛に気付かれずに王子の寝室にまで入り込むような手練れが、王子にその存在を悟られるとも思えない。
となると、考えられる可能性ははただ一つ。
「――兄上。そこにいるんでしょう? 隠れていないで出て来たらどうですか?」
呆れたようなカシウス王子の声に、寝室の物音はピタリと止まった。
やがて観念したのか、しばらくすると寝室のドアが開いた。
「何で分かったんだい? さては護衛の連中だな。やれやれ、僕がいる事は黙っておくように念を押しておいたのに」
寝室から現れたのは、全体的には高貴な印象でありながら、どこか緩い印象を受ける二十代半ばの青年。
王子の兄、この国の第一王子エルヴィンであった。
カシウス王子は小さなため息をついた。
「護衛は何も言っていませんでしたよ。大体、この国の第一王子から『黙っておけ』と言われて、喋る者などいるはずがないではないですか」
王子はそう答えながらも、「部屋に入る前、護衛達の様子がいつもと違って妙に落ち着かなく見えたのは、こういう理由だったのか」と納得していた。
「それで? 今日は私に何の用事ですか? 前回、兄上の頼みごとを叶えた結果、私は大変だったんですが」
「ハヤテの件かい。アレは本当に助かったよ。僕には使者を頼めるような人材に心当たりが無かったからね。まあ、今なら叔父上に頼めばどうにかなりそうだけど」
「兄上の叔父――レンドン伯爵ですか? レンドン伯爵が今、王都に来ているんですか?」
「いや、叔父上は今はもう当主ではないそうだ。当主の座は先日、息子に譲ったらしい。つまり、先代レンドン伯爵という訳だね」
カシウス王子は驚きに軽く目を見開いた。彼はレンドン伯爵家が代替わりした事も、息子に当主を譲って身軽になった先代当主ミルドラドが、自ら王都に来ていた事も知らなかった。
(いや、違う。知らなかったのではなく、知らされていなかったのだ。三侯オルバーニ侯爵だな。侯爵が自分達の派閥にとって不利益な情報だと判断して、あえて俺に知らせなかったのだ)
世の中には、相手に自分に不利益な情報を知られる事で、自分の印象が僅かでも低下するのを病的なまでに気にする人間もいる。
カシウス王子はオルバーニ侯爵の、いかにも神経質そうな肥満顔を思い出していた。
「兄上が上機嫌な理由が分かりましたよ。先代レンドン伯爵にとって兄上は姉の息子、甥に当たるわけですからね。兄上にしてみれば満を持しての強力な援軍の到来、といった所ですか」
「その点も含めて、お前に礼を言っておこうと思ってね。だからこうしてコッソリ部屋に忍び込んでいたという訳だ」
「?」
なぜ礼を言うためにコッソリ忍び込むのかはともかく(※おそらくあまり意味はないのだろう)、先代レンドン伯爵が王都に来た件が、一体どう自分に関係するのかが分からない。
カシウス王子は怪訝な表情を浮かべた。
兄・エルヴィン王子の説明は、カシウス王子にとって理解の外だった。
いや、意味は分かるのだが、あまりに予想の斜め上過ぎる展開に、常識人の彼の脳が理解する事を拒んでしまったのである。
「竜 騎 士ですか。私が新年式に呼んだナカジマ家の当主とそのドラゴンが、三伯を巻き込んでそんな事をしていたなんて。しかし他国の人間が、なぜこの国でそのような行動をしたのでしょうか?」
「さて。契約者のナカジマ家の当主はともかく、ハヤテはドラゴンだからねえ。ドラゴンが何を考えて何をしでかすかなど、想像するだけ無駄じゃない? 価値観どころか存在からして俺達人間とは違う生き物なんだから」
ハヤテが聞けば思わずショックを受けそうな言葉である。
エルヴィン王子は上機嫌で、コルベジーク伯爵領とレンドン伯爵領でのハヤテ達竜 騎 士の活躍を語った。
先程カシウス王子は、兄の機嫌が良いのは頼れる叔父が来てくれたせいかと思っていたが、この様子だと、ハヤテが活躍したのが嬉しくて仕方がないらしい。
王子は、そう言えば、元々、彼らを呼ぶように頼んで来たのは兄上だったな、と思い出した。
「まさか兄上は、こうなると思って私に竜 騎 士を呼ぶように頼んだのでしょうか?」
「違う違う。さっきも言ったけど、ドラゴンのやる事など、誰にも分かるはずがないじゃないか。何度も言うけど、僕は本当に一度ハヤテをこの目で見てみたかっただけなんだよ。いやあスゴイ生き物だよねドラゴンは。あの時は儀仗兵の隊長の気の毒な姿を見て、ついしり込みしてしまったけど、やはり一度背中に乗せて貰っておくんだったよ」
ハヤテの魅力を熱っぽく語るエルヴィン王子の言葉に、ウソや誤魔化しといった気配はまるで感じられなかった。
流石は権謀術数渦巻く聖国の王族――という訳ではない。
信じ難い事だが、実はエルヴィン王子というのは、この手の腹芸を大の苦手としているのである。
カシウス王子は兄のこういった性格を、他の誰よりも――おそらくは両親よりも――良く理解していた。
そう。一般には次期国王の座を巡って対立していると思われている、第一王子エルヴィンと第二王子カシウス。
しかし、王女の多い聖国王族の中において、数少ない王子達。しかも年齢が近い事もあってか、エルヴィンとカシウスは昔から互いの事を誰よりも良く知っている、数少ない理解者だったのである。
カシウス王子は、不満顔で兄に愚痴をこぼした。
「その分、私の方は大変だったんですがね。派閥のバランスを考えて、ラザルチカ侯に今回の仕事を任せたら、何を勘違いしたのか、全力でナカジマ殿を取り込もうと動き出すし、それを知った姉上に恐ろしい剣幕で詰問されるしで。おかげで私が招待しておきながら、最後まで挨拶にすら向かう事が出来ませんでしたよ」
自分では手段のない兄に頼まれ、カシウス王子はナカジマ家の当主ティトゥを(※そしてハヤテを)聖国王城の新年式に招待した。
その際に派閥のトップのオルバーニ侯ではなく、二番手のラザルチカ侯を使ったのは、彼なりのバランス感覚によるものである。
しかし、なぜかラザルチカ侯が予想外にこの一件を強く受け止め、カシウス王子の思惑を超えて積極的に動いてしまった。
それだけラザルチカ侯が現状の自分の立場に危機感を抱いていたためだが、これは王子にとっては全くの想定外の出来事だった。
このラザルチカ侯の動きに、オルバーニ侯も過敏に反応した。こうなると王子としても迂闊にティトゥ達に会いに行く訳にはいかない。
王子としてはただの挨拶のつもりでも、周囲がそれをどう受け取り、どう反応するかが予測できなかったためである。
ティトゥが「カシウス王子は自分とハヤテを呼びつけておきながら放置している」と感じた裏には、このようなやむにやまれぬ事情があったのである。
更にはこの話を聞きつけた王子の姉、宰相夫人カサンドラまでもが彼の所に怒鳴り込んで来た。
王子としては、人前で詳しく事情を話す訳にもいかず、「勘弁してくれ」と思いながらどうにかその場を取り繕ったのであった。
「ああ、それは本当に済まないと思っていたよ。なにせあの姉上に怒鳴り付けられるなんて、僕なら想像しただけで・・・ブルブル。
以前に話した事があったよね? 僕が四、五歳くらいの頃、丁度物心ついてすぐくらいの頃だったかな。何でそうなったのかは覚えてないものの、僕はあの人と二人で城の中庭を歩いていたんだよ。僕はまだ幼かったこともあって、本当にただただ恐ろしくて。何せ姉上はあの頃から聖国きっての才女として知られていた人だから。で、そんなものだから、僕はついうっかりあの人が俺に話していた言葉を聞き逃してしまったんだ。それを知った時の姉上の目といったら――」
エルヴィン王子はその時の事を思い出したのか、端正な顔をイヤそうに歪めた。
「その話なら何度も聞きましたよ。そうは言っても、何だかんだで姉上は案外身内には甘いし、それ程酷い事にはならなかったと思いますがね」
「いやいや、お前はあの目を見ていないからそう思うだけだって。あれは子供に向けて良い目じゃなかったんだって。石畳の隙間から生えた雑草を見る時ですら、あの人はもっと温かみのある視線を向けると思うぞ」
残念ながら兄の言葉は弟にはあまり共感を得られなかったようだ。
カシウス王子にとってカサンドラは完全に血の繋がった(※つまり父母が同じの)姉になる。そういった理由もあるが、単純にエルヴィン王子が姉を苦手としている原因として、何度もこの話をしているために、新鮮味が薄れているという物もあった。
この話を聞いていつもカシウス王子が感じる事。
それは、この兄は、何だかんだと言いながらも、やはり天運のようなものを持って生まれているのだな、という事であった。
「何でそうなるんだ?」
「今回の件もそうでしょう? 兄上に頼まれて、新年式にナカジマ家の当主を招待したら、結局、巡り巡って兄上にとって望ましい結果に落ち着いたじゃないですか。それに比べて私の方は、派閥トップのオルバーニ侯とラザルチカ侯がいがみ合うわ、姉上には噛みつかれるわで、本当に散々な目に遭いましたよ」
「いや、それは、本当に悪かったと思っているよ。だからそんなに怒るなよ」
実際に結果だけ見れば、カシウス王子派閥には亀裂が入り、エルヴィン王子派閥はこの上ない強化がされたという事になる。
全ては竜 騎 士のしでかしが原因なのだが、その竜 騎 士の二人がこの国に来るきっかけを作ったのがエルヴィン王子だった事を考えれば、それも含めて、これもエルヴィン王子の持つ天運、と考える事も出来るだろう。
以前、エルヴィン王子は補佐官のエドムンドに、「ハヤテには自分とどこか似た物を感じる」と語った事がある。
その時は彼が良く言う冗談だと思われ、軽く流されてしまったが、良かれと思って取った他意のない行動が、終わってみれば結果、都合の良い形に収まってしまう所など、なる程、彼とハヤテは確かにどこか似ているのかもしれない。
あるいはエルヴィン王子は独自な感性でそれを察していたからこそ、「どこか似ている」という言葉で表現したのではないだろうか?
(やはり聖国の王になるべきは私ではなく、兄上なのだろうな)
カシウス王子は自分の様々な能力が、同年代の平均値を上回っている事を自覚している。
人より優れている。しかし、言ってしまえばそれだけだ。
知力と器量では王族きっての才女と呼ばれた姉カサンドラの足元にも及ばず、ここぞという時の不思議な引きの強さにおいては、兄エルヴィンには到底敵わない。
自分は器用な秀才でしかない。
カシウス王子は明晰な頭脳を持つが故に、自分という人間の才能の限界にも気付いていた。
例え周囲の者達の考えがどうであろうと、彼本人としては、少なくとも姉が兄エルヴィンを認め、彼の後ろ盾になっている間は、自分が兄に成り代わり国王になるなど考えられない事であった。
その時、部屋の外で誰かが言い争う声が聞こえた。
エルヴィン王子は「あちゃ~」といった表情で天を仰いだ。
「どうやらエド(※補佐官エドムンド)が僕を捜しに来たようだ。やれやれ。じゃあカシウス、僕はこれで行くよ。今回の件のお礼と埋め合わせはまたいつか何かの形でさせて貰うから」
エルヴィン王子はそう言って弟の横を通り過ぎようとしたが、何かを思い付いた様子でふと立ち止まった。
「そうだ。もし、お前がこの国の王位を望んでいるなら、それを代わりにしてもいいよ? 実際、お前なら十分に僕より上手くやれるだろうしね」
カシウス王子は少し驚いた顔をした後で、小さなため息をついた。
「そんな事を言って、兄上は自分が楽をしたいだけでしょうに。私と姉上の目の黒いうちはそんな事はさせませんからね。二人で兄上を支えて差し上げますよ」
「そんなつもりは――なかったとは言えないかな。だけどまあ、お前と姉上が協力してくれるなら僕も安心か。じゃあな、カシウス。おおい、ドアを開けてくれ」
「――殿下! やっぱりここに来ていたんですね! トイレに籠っているように見せかけて逃げ出すなど、悪質にも程があります! 殿下がどこかお体を悪くされたのかと、担当の医者が青ざめていましたよ!」
部屋のドアが開いた途端、スリムなスーツを隙なく着こなした青年が、エルヴィン王子の姿を見つけて詰め寄った。
王子の腹心の部下。補佐官のエドムンドである。
エルヴィン王子は「悪かった、悪かった」と謝りながら、弟の部屋を後にするのだった。
次の話で第二十章も終わりとなります。
次回「エピローグ 予想外の再会」