その42 ビブラ伯爵領のその後
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これはハヤテとティトゥがビブラ伯爵領から立ち去って何日か後の話。
この数日、ビブラ伯爵は多忙な日々を過ごしていた。
娼館のオーナーが仕組んだ一等樽の買い占めの影響は、事件発覚当初に予想していたよりも大きな波紋を広げていた。
「このまま放置しておけば、また今回のような事が起きるやもしれん。一度領内の酒の流通を見直す必要があるな」
保守的な商人達をどうやって説得するか。ビブラ伯爵は頭を悩ませていた。
コンコンコン。
伯爵がノックの音に顔を上げると、開けたままになっているドアの外に、彼の妻が立っていた。
「旦那様、お茶に致しませんか? それにまたこんな風にドアを開けっぱなしにして。お体に障りますわよ」
「締め切っていると、空気が淀んで眠気が増すのだ。少しくらい肌寒い方が頭がハッキリしていい。――ん? これはナカジマ銘菓か?」
妻の従者がお茶の準備を整えると、お茶請けに小さなお菓子を置いた。
「愛らしいでしょう? ナカジマ銘菓、ナカジマひよこだそうですわ」
「ナカジマ、ナカジマと、あの女はどれだけ自分の名前を誇示すれば気が済むんだ? ・・・ふむ。美味い」
疲れた頭に、ナカジマひよこの甘さは有難かった。
伯爵はペロリと平らげると、お茶で口を湿らせた。
「これだけ美味ければ、自分の名前を付けて自慢したくなる気持ちも分かるな」
「まあ、酷い。これでも、料理人的にはまだまだ不満があるそうですわよ」
ナカジマ家の料理長、ベアータから直々にナカジマ銘菓の作り方をレクチャーされた二人の料理人。彼らはこの数日間、毎日腕を磨いていたが、未だに納得出来る域には到達していないという。
この銘菓は試作品を伯爵の妻がムリを言って貰って来たものであった。
「これだけ美味いのにどこに問題がある? その料理人達には早くこれを売りに出せと命じておけ。なにせ、ナカジマ銘菓をよこせと俺の所まで陳情が来ているくらいだからな」
町の女達に芽生えた甘味への欲望は、ビブラ伯爵の予想を超えていた。
彼女達は夫を、あるいは父親を動かし、伯爵に「早くどうにかして欲しい」と要望を上げていた。
この後、二人の料理人は、それぞれ別の店を持つ事になる。一人はナカジマひよこを、一人はナカジマ・スイートポテトを看板に掲げ、甘味の老舗として町の人間に親しまれ続けていく事になるのであった。
ここでノックの音と共に、屋敷の家令が部屋に入って来た。
伯爵は怪訝な表情で眉をひそめた。
「――なぜ、お前達はいちいちノックをするんだ? 効率が悪いだろうが。どうせドアは開いているんだ、勝手に入って来ればいい」
「マナーでございます。それよりも、伯爵様。商人達が集まっておりますが」
「むっ、もうそんな時間か。分かった、今から向かう」
ビブラ伯爵は冷めてしまったお茶を一息に飲み干すと、イスから立ち上がったのであった。
その部屋に集められた商人達は、いずれも町で名の知れた豪商達であった。
その中にはハヤテ達が世話になった、酒問屋のエルカーノも含まれていた。
「今日、お前達に集まって貰ったのは他でもない。ベルディホの港の改修工事に関してだ」
いかにビブラ伯爵家とはいえ、所有している現金の量はそれ程多い訳ではない。
勿論、総資産で言えば、この土地で伯爵家に匹敵する者は誰もいない。
しかし、大掛かりな公共事業に必要なのは直ぐにでも動かせる現金の量。金庫の中に納められている現金の量なのである。
そのため、今回のような工事には、彼らのような町を代表する豪商達の協力が不可欠だった。
伯爵はあらかじめ用意しておいた資料をめくった。
「全体的に酷い有様だ。今まで大きな事故が起きていないのが不思議なほど、各所で老朽化が著しい。改修工事はかなり大掛かりなものとなるのを覚悟しなければならないだろう」
このビブラ伯爵領唯一の港、ベルディホ。
古い小さな港だが、外洋船も停泊できる、この地方の海の玄関口である。
しかし、近年、港では施設の老朽化が問題となっていた。
とはいえ、施設の補修工事は売り上げには特に直結しない。勿論、使い勝手が良くなる事によって、作業の効率化が図られ、結果として時間当たりの売り上げが伸びるとは思われるが、投資量に対して結果が実感し辛いのも事実である。
そのため、豪商達の返事も振るわなかった。そう、今までは。
(今回の一件はある意味ではいい機会だった。俺の発言力が増したこの機を逃さずに押し通す)
ビブラ伯爵は豪商達の反発に備えて下っ腹に力を入れた。
こうしている今も、彼の明晰な頭脳は、何十通りもの受け答えをシミュレートしている。
耳が痛くなる程の長い長い沈黙。しかし、実際は僅か数秒に過ぎなかったのだろう。
やがて商人の一人が口を開いた。
「施設の修理は分かりましたが、それで一体、何隻の船が新たに入れるようになるのでしょうか?」
「? 今までと変わらんが?」
ザワッ!
その瞬間、豪商達の間に動揺が広がった。
「ど、どういう事だ? 施設の工事が終われば、港を使える船が増えるのではなかったのか?」
「今が絶好の商機だと思っていたのに、それでは当て外れだ」
「なんという事だ。なんという事だ」
ビブラ伯爵は予想外の展開に、一瞬、呆気に取られてしまった。
しかし、彼の聡明な頭は無意識のうちに豪商達の言葉を拾い出し、彼らが何を言っているのかを推測していた。
(つまり、コイツらは、港の施設が新しくなれば利用できる船便が増えると期待していた、という事か?)
ビブラ伯爵は知らなかったが、実は今、町では若い層を中心に外の文化が大注目を浴びていたのである。
きっかけとなったのはナカジマ銘菓。
斬新な見た目と味、そして新しい甘味が、今までずっと変化に乏しかったグレイザーの町の、停滞していた価値観をぶち抜いたのである。
町の外にはこんなに美味しい物がある。それらをもっと知りたい。もっと美味しい物を味わってみたい。
長年に渡る抑圧が解放へと転じた時、その力は町全体を揺るがせた。
そう、いわば今、グレイザーの町は、空前の外の文化ブームに沸き返っていたのである。
利に聡い商人が、この流れを見逃すはずはない。
しかし、他領に通じる街道は、山を越える狭い峠道のため、運べる荷物の量はかなりの制限を受ける。
自然、彼らが船の便に期待をかけるのも当然の成り行きであった。
「伯爵様、どうにか今より船便を増やす事は出来ないでしょうか?」
酒問屋のエルカーノがビブラ伯爵に尋ねた。
この機会を逃す伯爵ではない。
伯爵は用意しておいた資料をあっさりとゴミ箱にブチ込むと、笑みを湛えながら商人達に向き直った。
「俺も前々から今のベルディホの港の規模では、将来の我が領の需要に応えられないんじゃないかと思っていたのだよ。そうだな、予定通り、老朽化した施設の補修も手を付けるが、同時に港そのものの拡張工事も行おう。それについては後日、もう一度説明するための時間が欲しい。さて、そのためにかかる費用だが――」
こうして彼らの話し合いは、太陽が西の空に傾くまで続けられたのであった。
屋敷の食堂に大量の食事が並べられる。実はビブラ伯爵はこう見えても痩せの大食い――健啖家なのだ。
伯爵は妻を伴って食堂に現れると、ポツリと空いた席を少し寂しそうに見つめた。
彼の弟、ジェラールの席である。
ジェラールは今朝、レンドン伯爵領へと旅立っている。
彼がいつ、この町に帰って来るかは分からない。あるいは厳しい訓練に音を上げ、あちらで腐ってしまえば、それこそ二度と町には戻って来られないかもしれない。
(いや、きっと大丈夫だ。アイツはお調子者だが、俺と違い、根は真面目で人付き合いもいいからな)
急に立ち止まった伯爵を、彼の妻が不思議そうに振り返った。
「旦那様?」
「いや、何でもない。食事にしよう。今日は朝食以来、何も食べていないから、腹の皮が背中の皮とくっつきそうだ」
優秀なビブラ伯爵の欠点は、本人が優秀であるが故に、何でも自分で片付けてしまう点であろう。
この辺り、多少はナカジマ家の当主のいい加減さを見習った方がいいのかもしれない。
「旦那様は仕事のし過ぎなのです。もう少し部下に頼られてもよろしいのではないですか?」
伯爵は心配する妻に、「分かっているのだが、俺がやった方が早いし」と、言い訳をした。
「しかし、それで旦那様が健康を害してしまえば元も子もありません。もっとご自愛下さいませ」
「分かった分かった。そう責めるな。面白くてな、つい張り切り過ぎてしまったのだ」
「面白い? ですか?」
伯爵はパンを一口ちぎると、スープに浸しながら「ああ」と頷いた。
「俺だって別に仕事が好きな訳じゃない。部下に任せられるなら任せて、お前とゆっくり過ごしたいさ。だが、今の忙しさは今までの忙しさとは違う。何と言えばいいのかな。少しづつだが前に進んでいるという手応えのある忙しさなのだ。
父から当主の座を継いでこちら、今まで俺がやって来た仕事は、ずっと同じ場所で足踏みを続けるような物ばかりだった。こんなものは別に俺じゃなくてもいいんじゃないか。別の誰か、そう、例えばジェラール辺りがやっても、別に何の問題もないんじゃないか。俺はずっとそう思っていたんだ。だが、今は違う」
伯爵は喋りながらパンとスープを片付けると、次は野菜の漬物に手を伸ばした。
「今はやればやっただけ、結果が伴っているという実感がある。前に進んでいるという手応えがある。それが面白くてな。ついついのめり込んでしまったのだ」
長年に渡る安定と停滞で、すっかり保守的な思考に凝り固まっていたビブラ伯爵領。
しかし、竜 騎 士の到来は、この土地に溜まった淀んだ空気をかき乱し、新鮮な息吹を吹き込んだ。
当主のビブラ伯爵は、優秀な頭脳でそれを察し、自らの手でその流れを後押しをしようとしているのだった。
夫にこんなに嬉しそうにされては、伯爵夫人もこれ以上強くは言えない。
彼女は仕方なく、「お体には気を使って下さいね」と忠告するだけに留めた。
(ジェラールよ。お前が帰って来る頃には、この町はすっかり様変わりしているかもしれんぞ。早く向こうで一人前と認められて、俺の手助けをするために帰って来い)
ここからは後日の話。
ジェラール少年はレンドン伯爵の騎士団で厳しく鍛えられる事でメキメキと頭角を現し、無事、数年後にはビブラ伯爵領へと戻る事となる。
すっかり背が伸びて逞しくなり、見違えるような青年となった彼の横には、若い女性と赤ん坊の姿があった。
そう。ジェラールは、あちらの副団長にすっかり気に入られ、彼の娘を妻に迎え入れていたのである。
三伯の中でも、今まで特に他家との交わりが薄かったビブラ伯爵家。
これ以降、ジェラールはビブラ伯爵家とレンドン伯爵家の間を繋ぐ存在となっていくのである。
聖国の領主派と言われる勢力。その代表格となる三伯。レンドン伯爵家、ビブラ伯爵家、コルベジーク伯爵家。
彼らは世代交代をするに当たって、大小の問題を抱えていた。
しかしそこに、ハヤテとティトゥ、二人の竜 騎 士が現れる。
竜 騎 士はそのずば抜けた行動力と、ある種独特の勢いで、彼らの抱える問題を解決して回った。
三伯の当主達は未来への道を歩き始めた。
そして次なる世代交代の波は、聖国王城に訪れるのであった。
次回「夜の密会」