その28 若さ
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新年式は国王の閉会の言葉と共に無事に終了した。
王都の平民達や、三侯に連なる宮廷貴族達は、未だに祭りの余韻に浸っているが、領主貴族達はその日のうちに王城を後にし、自分達の領地へと向かっている。
この数日間、王城の使用人達は式典とその準備に慌ただしく働いていた。
しかし、それもようやくひと段落。
まだ後片付けは残っているものの、城の中はいつもの落ち着きを取り戻しつつあった。
そんな王城の一角。
人通りの少ないこの区画は、三侯・ラザルチカ侯爵家派閥が利用していた。
シンと静まり返った廊下に、突如、大きな音と共にドアが乱暴に開け放たれた。
部屋の中から現れたのは、肩を怒らせた若い貴族の男。
ラザルチカ侯爵派の貴族、ダーヴィン・ハレック男爵であった。
「ああ、クソッ! 怒りではらわたが煮えくり返るようだ!」
ダーヴィンは怒りに駆られて、衝動的に廊下の壁を殴りつけた。
「痛っ! ・・・クソッ! クソッ! 腹の虫が収まらん! なぜ何もかも上手くいかん! 使えない女め! なぜ俺の周りには役立たずのクズしかいない!」
拳の痛みで感情が刺激されたのだろうか。ダーヴィンは癇癪を起したように何度も壁を蹴りつけた。
やがて彼は息を荒げながら、この場から去っていったのだった。
ダーヴィンが立ち去った後。
先程の部屋からメイド姿の少女が姿を現した。
癖のある薄茶色の髪をお団子にした、パッチリとしたつり目が印象的な、気が強そうな少女である。
少女は足を踏み出そうとして「痛たた」と声を上げた。どうやらケガをしているらしい。
真っ赤に腫れ上がった左頬が痛々しかった。
「・・・参ったわね。この顔じゃ誰かに殴られたのがバレバレじゃない。先輩達に何て言い訳しよう」
少女は腫れた頬を押さえてため息をついた。
このメイド少女の名はズラタ。従男爵家ヒッツバーク家の子女で、今は行儀見習いとして聖国王城で働いている。
ズラタは数日前、ティトゥのメイド少女カーチャに声を掛けた。
全ては主人であるダーヴィンの命令を果たすため。カーチャを上手く利用してティトゥに近付くためであった。
最初は誰でも出来そうな簡単なお願いをして、そのお礼にプレゼントを渡す。これを繰り返す事で最終的には後ろめたい仕事でも断れない所まで引きずり込む。
カーチャは警戒心も弱く、お人好しで、ズラタにとってチョロイ相手にしか思えなかった。
実際、カーチャはお菓子など、いわゆる「おすそ分け」の類の品は、申し訳なさそうにしながらも受け取った。
しかし、上手く行っていたのはここまで。カーチャはアクセサリーや貴金属、ドレス等、高価な品は頑として受け取らなかった。
ここに来て、ズラタはようやく自分の見立て違いに気が付いた。そう。彼女はカーチャの真面目さを見誤っていたのである。
ズラタは慌てて別の手段を探ったがここでタイムオーバー。
式典が終わったその日のうちに、ティトゥはハヤテに乗ってサッサと王城から去ってしまった。
翌日にはカーチャ達ナカジマ家の使用人達も城を後にしたが、既に目的のティトゥがいない以上、ズラタにとってそんな事はどうでも良かった。
彼女は任務に失敗したのである。
ダーヴィンは激怒した。なまじ、最初に上手く行きそうだと期待をした分だけ、その怒りは大きかった。
彼はズラタを激しく罵り、殴る蹴るの暴行を加えた。
ズラタは痛みを堪えながら嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
「あーあ。あの様子だと、しばらくの間ダーヴィン様に近付かない方がいいわよね。折角、あの方に取り入れるチャンスだと思ったのに・・・」
ズラタは痛みに顔をしかめながら、歩きだそうとした。――その時だった。
カチャリ。
小さな音を立てて隣の部屋の扉が開いた。
ズラタはハッと立ち止まった。
(隣の部屋に誰かいた?! マズイ! さっきのダーヴィン様との会話を聞かれたかも!)
硬直するズラタ。そんな彼女の前に若いメイドが姿を現した。
「えっ? か、カシーヤス様?」
そう。隣の部屋にいたのは、聖国王家に仕えるメイド、モニカ・カシーヤスであった。
ズラタは顔からサアーッと血の気が引くのを感じた。
(さ、最悪だわ! よりにもよって、なんでこんな所にモニカ・カシーヤスがいるのよ!)
モニカ・カシーヤス。代々王家に仕える名門カシーヤス家の子女である。
ズラタは昨年から王城で働くようになっため、モニカとは直接の面識は無かった。
しかし、城で働く以上、当然、カシーヤス家の事は知っているし、城のメイド長がモニカの祖母である事も知っている。
そして今のモニカがナカジマ家に仕えていて、ティトゥの使用人として王城に来ている事も聞いていた。
(どこまで聞かれた? どこまでバレた? まさか、私がナカジマ家を探ろうとしている事までバレた? ウソでしょ?)
ゴクリ。
ズラタの喉が緊張で鳴った。
聖国王城は術数権謀が張り巡らされる伏魔殿である。
そんな魑魅魍魎達のトップに君臨するのがカシーヤス家。
いわばモニカは血統書付きのスーパーエリート。密偵として受けて来た教育も、現場で積み重ねて来た経験も、王城で働くようになってまだ一年足らずのズラタとはひと桁もふた桁も違っている。
彼女が絶望するのも無理はなかった。
(ウソウソウソ! ヤバイ、ヤバイよコレ! どうにかして誤魔化さなきゃ! けど、けどどうやって?!)
最低でも、ダーヴィンの命令を受けて動いていた事だけは隠さなければならない。勿論、ダーヴィンに対する忠誠心ではない。実家に迷惑をかけないためである。
焦るばかりで言葉は出ない。
モニカはズラタに振り返ると――腫れた左頬を見た。
「随分と派手に殴られましたね。ダーヴィン・ハレック男爵はもっと穏やかな方だと思っていましたが」
(バレてる――)
モニカの口から当たり前のようにハレック男爵家の名が出た事で、そして何も事情を尋ねられなかった事で、ズラタは彼女が自分達の事を知っていた事を悟った。
しかし、バレていると分かった事で逆に開き直れたのだろう。自然に疑問の言葉が口を突いて出た。
「い、いつから私の事に気が付いていたんですか?」
「いつから? ああ。あなたがカーチャに接触した日ですね。あの日もあなたはそちらの部屋でハレック男爵と会っていましたよね」
「ハ、ハハハ・・・最初から全てお見通しだったっての?」
ズラタは乾いた笑いがこみ上げて来るのを止める事が出来なかった。
どうやらモニカは全てを知った上で自分を泳がせていたらしい。
事態は彼女の想像以上に最悪だったようだ。
「あ、あの、もう一つ聞いてもいいですか?」
「おや? 意外ですね。何か言い逃れをすると思いましたが。ええ、構いませんよ」
「いや、最初からバレてるなら、もう仕方がないかなって。ええと、ナカジマ家の当主はもう国に帰ってしまいました。その時点でダーヴィン様の目論見は失敗している事になります。だったらなぜ、カシーヤス様はわざわざ私の前に姿を見せたんでしょうか?」
そう。それがズラタにとって疑問だった。
なぜモニカは全てが失敗に終わったというのに、わざわざズラタの前に姿を現したのだろうか? それに何の意味があるというのだろう?
決して、失敗した密偵に死体蹴りをするため、などという下世話な理由ではないはずだ。
「その事ですが、どうでしょう。あなた、私の手足となって働くつもりはありませんか?」
「えっ?」
モニカの提案はズラタにとって完全に予想外のものだった。
ズラタは一瞬ポカンとして・・・そして慌てて尋ねた。
「私にハレック男爵家を裏切り、情報を漏らせと言うんでしょうか?」
「情報? いいえ。そんなつもりはありません。というよりも、ハレック男爵家などに全く興味はありませんから。ああ、勿論、三侯・ラザルチカ侯の情報が貰えればそれはそれで助かりますが、男爵家のメイドが探れる程度の情報なら、おそらく私の方でも掴めるでしょう。だからそちらはあまり期待はしていません。
あなたに頼みたいのは、王城内の情報を集め、定期的に私に伝える事です。それも相手は衛兵や使用人達。つまりは今までのような仕事をしながら、城で下働きをしている者達の間に広がる噂を集めて欲しいのです」
モニカにとってハレック男爵家は、王城にはびこる有象無象の小物に過ぎない。わざわざ諜者を潜り込ませてまで探りを入れる必要性は見出せなかった。
それならまだ、城の下働きの者達の噂話を――自分では目が届きにくい者達の話を――集めて貰っておいた方が役に立つ。そう考えたのである。
「・・・いや、それも正確な理由とは言えませんね。そう。私はあなたを手に入れておきたかった。それだけ密偵としてのあなたの才能を買っているのですよ」
「私の才能――ですか?」
ズラタはまたもや予想外の言葉を聞かされて、キョトンとした。
「ええ。結果として今回は失敗に終わりましたが、相手がナカジマ家の者ではそれも仕方がないでしょう。しかし、私はあなたの中に光る物を感じました。このままハレック男爵家の使用人で埋もれさせるのは惜し過ぎる。そう思ったのでこうして声をかけた訳です」
ズラタは激しく混乱していた。
モニカが何を求めているのか、正直な所は良く分からない。しかし、自分が今、何らかの岐路に立たされている事だけは感じ取っていた。
この申し出を受けるか受けないか。
ズラタの頭脳は激しく回転していた。
「無理にこの場で決める必要はありません。次に私が王城に戻って来る時まで良く考えて――」
「分かりました。カシーヤス様のお誘い、受けさせて貰います」
「――よく考えて決めてくれればいい、と言おうと思ったのだけど・・・本当に構わないのかしら?」
「はい。今回の事で吹っ切れました。ぶっちゃけ、ダーヴィン様の下で働いても割が合うとは思えませんので」
ズラタは迷いない表情でキッパリと言い切った。
一生懸命働いたというのに、失敗したからといって痛い目に遭わされるのでは、確かに割に合わないだろう。
しかも、ダーヴィン本人は何もせず、ズラタに命令していただけなのだ。
だから彼女の気持ちも理解出来ないではない。理解出来ないではないのだが、モニカとしては「それはどうだろう」という思いが浮かぶのも事実だった。
(これが若さという事かしら・・・)
モニカは戸惑いの表情を浮かべると共に、ズラタとのジェネレーションギャップを感じ、少しだけ切ない思いを味わうのであった。
次回で第十九章も終わりとなります。
次回「冬の港町レブロン」