プロローグ 遠い日の思い出
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あれは私が何歳の時の記憶だろう。
自分で言うのもなんだが、私は人よりも物覚えが良い方だと思う。
そんな私ですら朧げにしか覚えていないので、多分、物心ついてすぐの頃。四歳か五歳の頃だったのではないだろうか?
その日、私は腹違いの六歳年上の姉と二人で王城の中庭を歩いていた。
良く晴れた日だった事を覚えている。
姉は当時、約十歳。名前はカサンドラ。
燃えるような赤毛と、こちらの心を奥底まで見通すような鋭い眼差しの持ち主だった。
彼女はこの聖国の第一王女。周囲の大人達が揃って舌を巻く程の才女で、「もしもこの子が男に生まれていたら、聖国百年の栄華の礎を築くか、逆に国を滅ぼしてしまうだろう」などと噂されていた。
当時の姉は今よりもずっと周囲に対して当たりが強く、私は密かに彼女を苦手としていた。
いや、違う。
人は理解出来ない存在に畏怖を覚える。
そう。私は彼女を恐れていたのである。
なぜ、そんな姉と二人きりで中庭を歩くことになったのかは覚えていない。
その時の私は、この居心地が悪い時間が一刻も早く終わって欲しい。早く乳母達の下に帰りたい。ただそれだけを願いつつ、大人しく彼女の後ろを歩いていた。
「――ヴィン。エルヴィン。聞いているの?」
「! な、なんでしょうか姉上?!」
どうやら、さっきから姉は私に話しかけていたらしい。
私は緊張のあまり、そんな事にも気付いていなかったのだ。
マズイ。失敗してしまった。
慌てふためく私に、姉は露骨な失望の視線を向けた。
姉らしい、と言えば実に姉らしいのだが、当時、この私に対して――ランピーニ聖国の第一王子に対して――そんな目を向ける者は誰もいなかった。
私は自分でも驚く程のショックを受けていた。
「あなた私の話を全く聞いていなかったのね」
「あっ! そ・・・それは、その・・・」
早く謝らなければ。そうは思うが、気持ちばかりが先走って言葉が出ない。
心臓は早鐘を打ち、呼吸は荒く乱れた。
何と言えばいい? どう言えば姉が許してくれる?
そんな私の姿に、姉はつまらなさそうに小さく舌打ちをすると、「もういいわ」と呟いた。
彼女は踵を返すと黙って歩き始めた。
姉に見限られた。
その時、何故か私は強い不安を覚えた。
このまま彼女を行かせてはいけない。何かしなければならない。
私は咄嗟に近くの花を指差すと、大声で彼女を呼び止めた。
「花! 姉上と同じ!」
自分でも流石にこれはないと思う。会話になっていないにも程がある。
しかし、この時の私は、とにかく必死だったのだ。
私が指差したのは赤いアザミの花だった。姉の髪の色と同じ、赤い花。
姉は立ち止まると花に目を向けた。
すると、さっきまでとは打って変わり、彼女の顔に面白そうな表情が浮かんだ。
「私と同じ? ふうん。エルヴィンはこの花が私と同じと思うのね?」
私の言葉の何が彼女の琴線に触れたのかは分からない。しかし、このチャンスを逃す手はない。
私は慌ててガクガクと頷いた。
彼女は「フフフ・・・」と笑みを浮かべた。後で思えば、それは姉が私に対して初めて見せた笑顔だった気がする。
「これはアザミの花よ。アザミの花言葉は『厳格』、『独立』、そして『人間嫌い』。エルヴィンの目には私がこう見えているのね」
私はすっかり驚いてしまった。
当然、私はアザミの花の花言葉なんて知らなかった。たまたま目に入った赤い花を指差しただけ。そこに深い意味なんて全く無かったのである。
「あっ! ご、ごめんなさい! 同じと言ったのは、別の意味で――」
「いいのよ。怒ってる訳じゃないわ。むしろその逆。あなたは咄嗟にこの花が私と同じと感じたんでしょ? これってスゴイ感性だと思うわ」
姉は機嫌の良さを崩さないまま、私をジッと見つめた。
「エルヴィン。私はこう思っているの。国王というのは頭が良くなきゃダメ。けど、それだけでもダメだって。周囲の大人達は、もしも私が男で国王になったら国が栄えるか滅亡するかのどっちかだ、って言っているそうだけど、それも分かる気がするわ。私には国の運営は出来ても舵取りは出来ない。それが私という人間の器の限界。才能の限界なんでしょうね」
十歳にして自分の将来性を見限るのもどうかと思うが、とても姉らしい発言とも言えた。
実際、姉は後にアレリャーノ家に嫁ぎ、夫を宰相の位に押し上げ、今では『聖国の宰相夫妻』などと呼ばれるようになっているのである。
ある意味、彼女はこの時の言葉を有言実行して見せたのだ。
「勿論、愚王は論外だわ。例えて言うならミロスラフ王国。あそこの宰相はさぞ大変でしょうね。それとミュッリュニエミ帝国。あそこも国王――あっと、帝国では皇帝と言うのだったわね。現皇帝は優秀だけど、残念ながら子供に恵まれていないようね。皇太子のヴラスチミルが後を継ぐ事になれば、さぞや国が荒れるでしょうね」
姉は何やらブツブツと呟いていたが、まだ幼い私には彼女の言葉の意味は全く分からなかった。
姉は私がポカンとしているのに気付くと、「コホン」と咳をした。
「エルヴィン。あなたはこの国の王太子よ。まあ、お母様とその周囲の者達は弟のカシウスを国王に就けたいと思っているようだけどね。そんな事、国王陛下がお許しになるはずはない。それをやれば国が割れるだけだわ」
カシウスは腹違いの弟。私の一つ年下の第二王子である。
姉は私の目を覗き込んだ。
「――実の所、あなたに全く見所がなければそれでもいい、と思っていたの。けど、ギリギリ合格ね。いいわ。あなたの味方になってあげる」
どうやら姉は私を認めてくれたらしい。
とはいえ、私がやった事と言えば、咄嗟に姉を呼び止め、赤い花を指差しただけ。
しかし姉は「それでもいい」と言った。
「大事なのは『ここぞ』という場面で『間違わない』事。王は――他者の運命を背負う者は、誰よりも運命を味方に付けていなければならないの。正しいか正しくない、じゃない。勝つ事ね。勝てば正しいのよ。極論すれば、今の聖国の国王に求められているのはそれだけね。この国は内政も安定しているし、今の所他国からの侵略を受ける様子もない。つまり、日頃は国王は部下に仕事を丸投げにしててもいいの。むしろヘタにしゃしゃり出て来られる方が迷惑なくらい」
自国の国王に対して厳しい見方だが、この姉が言うと、なぜか不思議と不敬に感じない。
逆に、そうなんだろうな、と、子供心に妙に納得させられるものがあった。
恐らく、彼女が本心からそう思っているから――自分の事も含め、物事を客観的な視点で見た上での冷静な判断によるもの――だという事が、聞いているこちら側にも伝わるからではないだろうか。
――実は姉は情や感情に振り回される事も意外と良くあるのだが、その事を私が知るのは随分と後の話となる。
「エルヴィン。あなたは今の感覚を大事にしなさい。あなたがその感覚を忘れない限り、私はあなたを支えてあげるわ」
「・・・分かりました姉上」
私はコクリと頷いた。
正直、この時の私は姉の言葉を半分も――いや、大半を理解していなかった。
ただ、幼い子供なりに空気を読んで、この歳の離れた姉の言葉に従っただけだったのである。
私はノックの音で目を覚ました。
「・・・子供の頃の思い出か。また、随分と懐かしい夢を見たものだ」
「殿下? なにかおっしゃいましたか?」
「いや、何でもない。入れ」
使用人達が私の服を持って寝室に入って来た。
私は冬の寒さに閉口しながら、ベッドの上に体を起こした。
「失礼致します。お召し物をお持ち致しました」
私はベッドの横に立つと、彼女達に着付けを任せた。
「おはようございます、殿下」
「やあ、おはようエド。今朝も寒いね」
「冬ですので」
皺一つないスーツをピシリと着こなした三十絡みの男が、素っ気なく私の言葉に答えた。
この不愛想な男はエドムンド・カシーヤス。ランピーニ王家に代々仕えるカシーヤス家の長男であり、長年に渡って私に仕えている側近である。
「ん? エド。何だか微妙な顔をしているが、気になる事でもあったのかな?」
「・・・いえ。殿下は毎朝『今朝も寒いね』と言っておられますが、一体いつまでそうお尋ねするつもりなのかと思いまして」
「なんだそんな事か。う~ん。特に考えていないけど、暖かくなるまでかな?」
「・・・奥様が食堂でお待ちになっております」
エドは思わず浮かんだ呆れ顔を、慇懃に頭を下げる事で周囲に悟られないようにした。
まあ、付き合いの長い私には丸分かりなんだが。
「そうだ。弟は――カシウスは例の事を何か言っていたかな?」
私のこの質問にエドはピクリと眉を上げた。
「いえ、特には何も」
ふぅん、特になし、か。という事は、密かに弟に頼んでおいた例の企みは上手くいっているのだろう。
「ふむ。私の弟は、実に優秀だね」
「! あなたがそんな事だから・・・コホン。何でもありません」
エドはイラッとした顔をしかめっ面で無理やり誤魔化した。
しかし、そうか。上手くいっているのか。
私はこみ上げて来る笑みを堪えきれなかった。
こうして心が躍ってしまうのも、仕方がないというものだろう。
男なら誰しも強き者、強力な物には憧れを抱くものだ。
屈強な戦士に対してしかり、歴戦の将軍に対してしかり、名工の手による武器に対してしかり、堅牢な砦に対してしかり、そして生物の頂点に君臨するという巨大なドラゴンに対してしかり。
そう。長らく姉上に――聖国宰相夫人サンドラに邪魔され続けて来たが、招待を受けての式典への参加となれば、私に面通しをしない訳にはいかない。
私はようやく、ミロスラフ王国のドラゴン・ハヤテを、この目で直接見る事が出来るのである。
次回「聖国からの使者」