その32 ティトゥとヤラ
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ティトゥはヤラと二人だけで話がしたいと告げた。
カタリナは心配そうにしながらも、ナカジマ家のメイドに連れられて部屋を後にした。
「少しは落ち着きましたか?」
「は、はい。さっきはスミマセンでした」
ヤラはベッドに横たわると傷口の痛みを堪えた。
「それで、念のためもう一度尋ねますが、ハヤテはあなたの頭の中にいないんですのよね?」
「ハイ、全く。あの・・・アタシ――私にも何であんな事になったのか、自分でも分かっていないんです。どうやったのかも良く覚えていないし。こうなった以上、もし、もう一度やろうとしても、きっと無理だと思います」
彼女の言葉通り、ヤラの精神とハヤテの精神との繋がりは完全に切れていた。
再現しようにも、あれは霊能力の暴発のようなもので、彼女自身、どういう原理でああいう状態になったのか分かっていなかった。
そもそも、ちゃんとコントロールしていたなら、早々にハヤテの精神とのリンクを切ったはずである。一ヶ月もあんな不自由な生活を続ける理由はなかった。
「そう。だったらいいんですわ」
ティトゥはホッとした。
彼女は事前にハヤテから、「多分、ヤラとのリンクはもう切れていると思う」とは聞かされていた。
しかし今、ヤラの口からも確認が取れた事で、ようやく安心する事が出来たのである。
「あの、アタシが自分の霊能力をちゃんと使いこなせなかったのが原因なんです。ずっとハヤテにも迷惑をかけて・・・。その、本当にスミマセンでした」
ヤラが「ハヤテ」という名前を口にした時、ティトゥは彼女の口調に気安さと距離の近さを感じた気がして、胸に小さなザワつきを覚えた。
自分とハヤテが喜びを分かち合い、時には苦難を乗り越え、時間をかけてゆっくりと築き上げてきた強い絆。
その関係に一足飛びで踏み込まれた気がして、強い反発を覚えたのである。
ティトゥには気の毒だが、これはある意味では仕方がないと言えた。
彼女にとってはハヤテはドラゴンという超生物。大きな体。鳥よりも速く空を飛ぶ大きな翼。巨大な外洋船をも一撃で沈める戦闘力。国中のどんな学者をも上回る知性と叡智。誰よりも高潔な魂を持つ至高の存在(※あくまでもティトゥ個人の感想です)。
彼女にとってドラゴンとは、生物の頂きの頂点に立つ存在であった。
そんなハヤテと心の距離を縮めるには、日頃から一緒に過ごし、お互いを理解するための時間がどうしても必要だったのである。
対してヤラにとっては、ハヤテは立派と言うには程遠い存在だった。
突然、頭の中に住みついた侵入者。迷惑な居候。自分をドラゴンだと自称する、どこの誰とも分からない声だけの男。
そんなハヤテを、ヤラが雑に――つまりは気安く――扱ってしまうのも仕方がないと言えた。
「あの、貴族様?」
「――ティトゥ・ナカジマですわ。それでヤラ。体の方は大丈夫ですの?」
「あ、はい、ナカジマ様。まだ傷口は痛むし、頭は熱っぽいですが大丈夫です。ケガの治療をして貰ってどうもありがとうございました」
ヤラは「それだけじゃなくて、カタリナまで助けて頂いて」と、頭を下げた。
「ハヤテがあなた達を助けたがったんですわ。私は一緒にいただけですわ」
自分は一緒にいただけ――。ティトゥは自分が口にした言葉で心にチクリと痛みを覚えた。
ヤラは少しためらった後でティトゥに尋ねた。
「ハヤテが私とカタリナを――。あの、ナカジマ様。さっき、カタリナから話は聞いたんですが、ハヤテは本当にドラゴンなんでしょうか? ホマレの町でみんなの噂になっているドラゴンはハヤテの事なんでしょうか?」
「この国にはハヤテとハヤテの子供達以外のドラゴンはどこにもいませんわ。だから噂になっているドラゴンというのは、きっとハヤテの事で間違いないでしょうね」
「そう・・・なんですか。あのハヤテがドラゴン・・・」
ハヤテがドラゴン。
ヤラはカタリナと一緒に見た、広場の人形劇を思い出した。
劇に登場した緑の竜は、明らかにナカジマ家のドラゴンがモチーフと思われた。そのドラゴンがハヤテだとするならば――
(――この人が炎の戦乙女。緑の竜の契約者。ミロスラフ王国の姫 竜 騎 士)
自分にとっては雲の上の存在。
一生接点など無いと思っていた特別な存在。
いや、接点どころではない。自分と妹は、この二人の竜 騎 士に命を救われたのだ。
(あのハヤテが本当にドラゴンだったなんて・・・)
ひょっとしたらとは薄々気が付いていた。自分の事をドラゴンだと自称するなど、ウソにしても荒唐無稽過ぎるしあまりに現実味が無さすぎる。
それにハヤテのどこか浮世離れした性格。
自分を巻き込んだヤラに対して、憎むどころか、逆に生活の心配すらするお人好しさ。
意外な学識の高さ――文字を読めたり、計算が出来たり――を持ちながら、偉ぶらないどころか、分かりやすく教えてくれる面倒見の良さ。
ヤラとハヤテは互いにむき出しの精神で繋がっていたため、感情を誤魔化したり隠したりする事は出来ない。
だから分かる。ハヤテは本気でヤラとカタリナを心配していたという事を。
あの生活を「楽しい」と感じていた事を。
その感情もハヤテがドラゴンだと考えれば理解出来る。
ドラゴンにとって、あの状況は人間の目線で――あるいは自分が人間になって、人間の町で生活しているような感覚だったに違いない。
そう言えば、初めて店に入った時も、最初は随分と興奮している様子だった。
あそこは大きな店だったが、体の大きなドラゴンが入るには流石に狭すぎる。そもそも入り口がつっかえて中には入れないだろう。
ヤラの頭の中に入ることで、初めて中に入れて嬉しかったのではないだろうか?
(ハヤテがドラゴン。そしてナカジマ様が・・・炎の戦乙女)
ヤラにとって、ハヤテは迷惑な居候。
互いに感情が筒抜けな事もあって、しょっちゅう言い争いをしている口喧嘩相手。
確かにイライラする事もあるし、不愉快に思う事だってある。
だが、険悪な関係には一度だってならなかった。
それはハヤテが本質的な部分でヤラとカタリナを心配していた事。そしてその気持ちがヤラに伝わっていたからである。
自分に好感情を持っている人間を嫌う事は難しい。ましてやヤラとハヤテの間には隠し事や誤魔化しは出来ない。つまりは本心からの感情である事が分かっている。
互いに本音を誤魔化せない相手。そしてどんなに口喧嘩をしても、決して自分を見捨てない相手。
ハヤテは声だけの存在で、別に何かをしてくれる訳ではない。
しかし、妹とたった二人、何の後ろ盾も無く、見知らぬ外国の町までやって来たヤラにとって、ハヤテの存在は大きな心の支え、心を保つバランサーになっていた。
だからヤラは意識が戻った時、すぐに頭の中からハヤテの存在が消えている事に気が付いた。
一瞬、なぜ? と動揺したが、それよりもその時は、自分が置かれている状況の確認をする方が先だった。
そうこうしているうちにメイドが現れ、カタリナが呼ばれ、妹から話を聞いているうちにティトゥがやって来た。
今、ヤラは大きな喪失感を覚えている。
頭の中からハヤテの精神が消えてしまったから?
勿論、それもある。
だが、その喪失感は物理的な理由というよりも、むしろ精神的な理由から来るものだった。
(ハヤテにとって――緑の竜にとって、本来いるべき場所は炎の戦乙女のそば。ナカジマ様のそばなんだ)
その思い付きは、彼女の胸を激しく締め付けた。
そう。彼女の感じている喪失感は、自分とハヤテとの繋がりが切れてしまった事。
ハヤテが自分の下から離れ、元の居場所に戻ってしまった事。
自分のそばではなく、ティトゥというパートナーの下に戻ってしまった事にあったのだった。
ヤラは心の痛みに耐えながら顔を上げた。
ジッとこちらを見ていたティトゥと視線が交差する。
その不安そうな目を見た時。ヤラは覚悟を決めた。
「――ナカジマ様。ハヤテをあなたにお返しします。長い間、勝手に借りていてスミマセンでした」
「ヤラ――。ええ。確かに返して頂きましたわ」
確かに返して頂きました。
ティトゥの言葉は、ヤラ本人にも意外な程、彼女の心を深く抉った。
(いや。これで・・・いいんだ。ハヤテはアタシとカタリナを助けてくれた。これ以上、ハヤテをアタシなんかが独占していて良い訳がねえ。ハヤテは元の場所に帰るべきなんだ)
ティトゥは安堵の笑みを浮かべている。
その美しさに、ヤラは「ああ、きっとこの笑顔がハヤテを惹き付けたんだろうな」と思った。
その時、部屋の外で男女が言い争う声が聞こえた。
「患者が目を覚ましたと聞いて、わざわざ詰め所からやって来たんだ。君、医者の問診を妨げるとはどういう了見かね」
「ですから、今はご当主様が大事なお話をなされている最中なんです。部屋に入られては困ります」
「ふん。君が困ろうがどうしようが、私の知った事ではないね。大事な話? それは私の問診よりも大事なのかね? ご当主様本人がそう言ったというのかね? 話にならんな。さあ、そこをどいてくれたまえ」
どうやら廊下で軍医がメイドと押し問答をしているようだ。
ティトゥは呆れ顔でため息をついた。
「あのお医者は・・・。腕は良い方のようですが、どうもあの性格には馴染める気がしませんわ」
ティトゥは自らの手でドアを開けると、「入っていいですわ」と外にいた者達を部屋に招き入れた。
「お姉ちゃん!」
「失礼するよ。むっ、もう体を起こしているのか。少し熱を測ろうか。どこか体に違和感はあるかね?」
「す、すみませんご当主様。お止めしたんですが」
「仕方がありませんわ。それに丁度話も終わった所ですし」
ティトゥは部屋から立ち去る前に、もう一度ヤラに振り返った。
「また来ますわ。その時には是非、ハヤテの話を聞かせて頂戴」
「はい」
ヤラは寂しそうに頷くと、カタリナの頭を優しく撫でたのだった。
次回「英雄の器」