その17 西方諸国から来た親戚
ヤラはカタリナの石盤を借りると、石筆を手に取った。
『よし、次は算数の勉強をしようか』
『うん』
(じゃあハヤテ。頼む)
(了解)
この世界には(この国には?)学校教育のシステムが存在しない。
そのため、識字率も低いが、計算もロクに出来ない人が多い。
流石に数くらいは数えられるようだが、港町ホマレでも、大の大人が指を折りながら足し算引き算をしている姿を何度も見かけた。
(最初は昨日教えた分数の足し算の復習から始めようか。今から言う数字を書き込んでね。六分の一足す――)
『ええと、六分の一足す――』
ヤラは僕の言う通りに石盤に計算式を書き込んでいく。
算数の勉強はヤラに頼まれて始めたものだ。
一応、ヤラも簡単な足し算や引き算くらいは出来るが、生活しているうちに自然に覚えたといった曖昧なもので、ちゃんと理解はしていなかった。
それでも計算出来るなら別にいいじゃないかって? いやいや、それだけだと意外と不便なんだよ。
以前にも説明したとは思うけど、このミロスラフ王国では自国の通貨は王都などの一部でしか流通していない。
だったらお金はどうしているのかと言うと、主に聖国のコインが、そして帝国のコインとチェルヌィフのコインが使われている。
さて、ややこしいのはここからだ。
同じ一ベルクコインでも、聖国の物と帝国の物、そしてチェルヌィフの物とでは、微妙に価値が異なって来るのである。
具体的には聖国のコインが一番価値が高く、次いでチェルヌィフ、そして帝国のコインという順番になっている。
例えば出店でスープを頼んでも、帝国のコインで支払うと、少し量を減らされてしまうんだそうだ。
それだけならまだしも、賤貨という一ベルク以下の価値しかないコインも存在している。
これは聖国や帝国の本国では使われなくなった昔の貨幣が輸入されたもので、当然、外国の商人相手には使えない。
つまりは完全に国内流通オンリーのコインなのである。
これらは現行のコインと混じってしまわないように、表面に大きな傷がつけられている。そのためキズ貨とも呼ばれるようだ。
このキズ貨こと賤貨は、コインとしての価値ではなく、コインに使われている材料の価値――金属としての価値で取引される。
そのため賤貨は、八枚で一ベルクに相当する。つまり、賤貨は八進法で計算しなければならないのだ。
計算が出来ないと、ズルい商人にお釣りを誤魔化されても損した事に気付けない。
町で生活していくためには、足し算、引き算だけではなく、ちゃんとした計算が出来た方がいいのである。
『よし、私は解けたぞ』
『う~ん。もう少し待って』
文字を覚えるのはカタリナの方が早いが、計算はヤラの方が得意のようだ。
日頃からお金の管理をしている関係もあって、数字に馴染みがあるのだろう。
とは言え、カタリナも別に算数を苦手としているという程でもない。
意外と言っては失礼だが、二人共、ちゃんとした教育を受けていないだけで、地頭自体は悪くはないのだ。
(ヤラが正解。ヤラ、カタリナがどこを間違えたか教えてあげて)
『カタリナ。間違えているぞ。通分する所までは合っていたが、約分の時に計算を間違えたな』
『ああーっ、ホントだ。やっちゃったぁ~』
カタリナは悔しそうに自分の計算式をぐしゃぐしゃと消した。
(カタリナが正解したら、もう一問やろうか)
『分かった。カタリナ、焦らなくてもいいから正確にやるんだぞ』
『うん』
カタリナは再度計算に取り組んだ。
翌朝。いつものように寄せ場に着いたヤラは、怪訝な表情で足を止めた。
(どうしたの? ヤラ。仕事に行かないの?)
ヤラが見つめる先には、派手目な服を着た三十歳前後の商人風の男が壁を背にして立っている。
何と言うか、優男風? 少しチャラそうな感じの男だ。
ガテン系肉体労働者達の中にあって、彼の存在は明らかに浮いていた。
男もそれを自覚しているのだろう。落ち着かない様子で時々キョロキョロと辺りを見回していた。
(あの人がどうかしたの?)
(いや、親戚に似てる気がしたんだけど・・・こんな所にいるはずはないし、多分、人違いだな)
ヤラは踵を返してこの場を去ろうとした。
しかし、彼女が振り返る直前、男と目が合った。
男はハッと目を見開くと、『ヤラ! 本当にいた!』とこちらに向かって来た。
(ええっ?! 叔父さん?! マジかよ! 何でミロスラフ王国にいるんだ?!)
ヤラの混乱した気持ちが伝わって来る。
(叔父さんって?)
(アタシらのオヤジの妹の旦那。これって叔父でいいんだったよな? ・・・まさかオヤジが頼んだとかじゃねえだろうな)
父親の妹の旦那なら、叔父でいいと思うよ。そしてお父さんが頼んだってどういう事?
『いやあ、正直、この町を甘く見ていたよ。まさかこんなに大きな港町だったなんて知らなかった。このままだとヤラ達を見つけられないんじゃないかと、ヒヤヒヤしたよ』
『・・・叔父さん。アタシらに何か用?』
ヤラの叔父さんは、チャラい見た目の割には、随分と人の良さそうな感じだった。
ヤラはそんな叔父さんに、容赦なく冷たい視線を浴びせた。
叔父さんは困った顔でチラリと周りを見回した。
『それよりも、場所を移さないかい? ここはどうにも落ち着かなくて』
『・・・分かった』
ヤラの強い警戒心を感じる。
しかし、叔父さんの事を嫌っているという訳でもないらしい。
ヤラは小さくかぶりを振った。
(違う。嫌う程知ってる相手じゃないってだけだ。最後に会ったのは確か五~六年前だったかな。アタシが今のカタリナぐらいの頃だ。西方諸国のどこかの国の商会で働いている、とか言ってた気がする)
(ふうん。この人の口ぶりからすると、ヤラ達の事を捜していたみたいだよ?)
(ああ、そうみたいだな。チッ。オヤジに頼まれたのかもしれねえ)
ヤラから強い怒りと不快感。そして憎悪の気持ちが伝わって来る。
どうやらヤラはお父さんと、あまり折り合いが良くないようだ。
(当たり前だ! あのクズ野郎! もし、オヤジに頼まれてアタシらの事を連れ戻しに来たってんなら、問答無用でぶっ飛ばしてやる!)
一体、彼女と父親との間に何があったのだろうか?
ヤラは怒りにギチリと歯を鳴らすと、叔父さんの後ろについて行ったのであった。
叔父さんはヤラを連れて近くの食堂に入った。
おおっ! 初めて入る異世界食堂!
こんな状況ながら、僕は不謹慎にも少しだけワクワクしてしまった。ヤラ達は出店でしか食べないからね。
ふむふむ、内装はログハウス風か。壁紙は貼られていない、と。何と言うか、西部劇に出て来る酒場みたいな感じだね。
二階に上がる階段もあるけど、そっちは個室なのか、それとも宿泊施設なのか、流石にここからでは分からない。
『この食堂は昨日見つけたんだ。ドラゴンメニューという珍しい料理が売りなんだってさ』
ドラゴンメニュー? また眉唾モノな。
叔父さんは店員を呼び止めると、件のドラゴンメニューを二人分注文した。
さて、どんな料理が出て来る事やら。
ヤラはイスに背を預けると、『それで?』と尋ねた。
『それで? なんで叔父さんはアタシ達を捜していた訳?』
『商会の仕事でカルパレスに寄る用事があったんだよ。そこで久しぶりに義兄さんの所に顔を出したら、ヤラ達が家を出て行ったって言うじゃないか。驚いたよ』
カルパレスは隣国ゾルタの港町。ヤラ達の生まれ育った町である。
ヤラの叔父さんは仕事の用事でカルパレスに寄った際、義理の兄――ヤラのお父さんの家を尋ねた。
そこでヤラとカタリナが家を出て、船で隣の国に行ってしまったと知らされたそうである。
『なんでアイツが、アタシらがこの国に来た事を知ってるんだよ。どこに行くかは言わずに出て来たんだぞ』
『義兄さんも二人を心配して捜したんだよ。つい先日、港の知り合いから、二人がホマレ行きの船に乗った事を教えて貰ったそうだよ』
『アイツがアタシらを捜した? 港の知り合い? ハン。大方、賭博場でたまたま知り合った船乗りにでも聞いたんだろうぜ』
ヤラの父親は日頃から賭博場に入り浸っているのだろうか?
賭博場という言葉を口にした際、ヤラから強い軽蔑と激しい嫌悪感が伝わって来た。
叔父さんは『詳しくは聞いていないけどね』と、返事を濁した。
『けど、義兄さんが君達の事を心配していたのは本当の事だよ?』
『そんな事がある訳ねえ。アイツにそんな父親らしい心があれば、アタシらは家を出たりはしなかったんだ』
ヤラから感じるのは強烈な拒絶の感情。
どうやらヤラは叔父さんの言葉を――父親の事を全く信用していないようだ。
叔父さんは困った顔でため息をついた。
『義兄さんとの間に何があったかは聞かないよ。君も言いたくはないだろうしね。けど、親戚として心配だけはさせてくれないかな? 異国の町で身寄りもなく、妹と二人だけ。ちゃんと生活出来ている? 仕事はどうしているの? 冬になってこれから寒くなっていくけど大丈夫?』
『・・・・・・』
それを言われるとヤラも辛い。
宿は食事も出なければ体を洗うお湯も出ない素泊まりの木賃宿。食事は出店の外食。昼間働いている間は、妹のカタリナは橋の下で姉が帰って来るのを待っている。
ヤラなりに精一杯やっているとはいえ、まともな生活とは決して言えないだろう。
叔父さんはヤラの表情からある程度は事情を察したのだろう。『だったらどうかな』とテーブルに身を乗り出した。
『だったらどうかな。冬の間だけでも二人共ウチに来ないかい? 西方諸国のクルバッドという港町なんだが、このホマレよりはこじんまりとして住みやすい町だと思うよ』
『えっ?』
『家には帰り辛いんだろう? ウチなら気にしなくてもいいからさ。それに今回はたまたま船便があったから無理をして足を延ばす事が出来たけど、本来、ウチの商会ではホマレは営業範囲外なんだ。だからこの機会を逃すと次に会えるのはいつになるか分からない。折角こうして出会えたんだ。僕としてもこのまま姪っ子二人を外国の港町に置き去りにしたくはないんだよ』
どうやらこの叔父さんは、チャラそうな見た目によらず、かなり親切な人のようだ。
見つけられる保証もないのに、こうして隣国の港町まで足を延ばして二人を捜してくれた上、家に来るように誘ってくれているのだ。
親戚とはいえ、ここまでは出来る人は中々いないだろう。
ヤラも僕と同じ事を考えていたようだ。彼女のピンと張り詰めていた心が、グラグラと揺れるのを感じた。
『それは・・・けど・・・』
『返事を急ぐつもりはないよ。ゆっくり考えて貰って構わない。そうだね、妹さんとも相談した方がいいだろう。僕は二~三日、この町に留まるから、その間に決めてくれないかな?』
『あ、ああ、それなら構わない』
それから叔父さんは自分の宿泊先を教えてくれた。
どこかの商会の建物ではなく、旅行客が利用する普通の宿屋だった。
ホマレは営業範囲外と言っていた言葉にウソはないようだ。
それから二人は運ばれて来たドラゴンメニューを食べた。
僕の予想通り、それは王都風なんちゃってドラゴンメニューだったのだが、ヤラは自分の考えに深く沈み込み、全く料理の味を感じていないようだった。
次回「父と娘」