その16 ヤラの勉強
カタリナは買ったばかりの真新しいわら半紙の束を姉に手渡した。
『はい、これ。お姉ちゃんが先にお話を書いて』
ヤラの妹、カタリナが描いた「眠れる森の美女」の一場面。そこに僕が思い付きでテキストを書き込んだ。
どうやらあれがカタリナには新鮮な経験だったらしい。
あれから彼女は、こうして姉に(カタリナは僕がヤラの手を使って書いたという事を知らない)文章を書いてもらい、それに自分が絵を入れるようになったのであった。
(これはアレかな。アーティストとしては、テーマも決めずに漫然と作品を作るよりも、ある程度縛りのある状況の方が逆に創作意欲が刺激される、とか、そういった感じなのかもね)
(てめえハヤテ。訳の分からねえ事を言って、無責任にはしゃいでるんじゃねえぞ)
(はいはいゴメンね。それより妹が待ってるよ。いつものようにお願いね)
(・・・チッ。分かってるっての)
ヤラから憮然とした感情が伝わって来る。
とはいえ、妹の期待を裏切ることは出来ないようだ。
やがて彼女の意識がぼんやりと弱くなると共に、僕は彼女の手足をまるで自分の物のように感じ始めた。
この感覚をどう説明すれば伝わるだろうか。
真冬に外から暖かい室内に入った時。寒さで痺れてマヒしていた顔や指先に、ジワジワと感覚が蘇って来るあの感じ。あれに近いかもしれない。
(さてと、今度は何を書こうかな)
僕は真っ白な紙を前に(と言っても、わら半紙は白と言うより灰色だけど)考えた。
カタリナは眠れる森の美女をとっくに描き終えて、この間までは「シンデレラ」を描いていた。
それも終わりまで描き終えたので、また新たなお話を用意しなければならなくなったのである。
(確か前に「人魚姫」の話をした時は不評だったんだよな)
人魚姫の悲劇的なラストは、多感なカタリナにとってはあまりにも衝撃的過ぎたらしい。
強いショックを受けた彼女は、しばらくの間その悲しみを引っ張り続けてしまった。
(あの時はヤラに随分と文句を言われたっけ。あ、そうだ。前に猫の絵を描いていたし、「長靴をはいた猫」なんかどうだろう?)
ふむ。悪くはなさそうだ。カタリナは基本的に楽しい話、ハッピーエンドが好きである。そして動物好きでもある。
だったら猫が主人公のお話は丁度いいんじゃないだろうか?
よし、書く内容は決まった。
僕はヤラの手を動かして鉛筆を掴むと、わら半紙に向き直った。
(ええと、『昔々ある国に、貧乏な粉ひきの父と三人の息子達が住んでいました。父が死ぬと、息子達は父が残した物を三人で分けました。一番上の息子は水車小屋を。二番目の息子はロバを。そして一番下の息子は家で飼っていた猫を貰いました』・・・と。一枚目はここまででいいかな)
カタリナは楽しそうに文字を目で追っている。
この作業も今回で三作品目。最初は文字を書く事すらたどたどしかったが、さすがに慣れたものである。
とはいえ、前世の体のようにスラスラ書くまでには至らない。そこはまあ、慣れたとは言え他人の体だし。
僕は紙をめくると、続きを書き始めた。
(『一番下の息子は不満で仕方がありませんでした「ああ、こんな猫なんて貰ったって何の役にも立ちはしない。これからどうやって生活していけばいいんだ」
すると、猫が言いました「ご主人様。私に長ぐつを一足と、大きな袋を一つ作ってください。そうすれば必ずやあなたのお役に立ってみせましょう」
一番下の息子は疑いながらも、猫のために長靴と袋を作ってやりました』)
執筆作業に没頭する事しばらく。
物語はどうにかギリギリ、最後の紙でラストを書き終える事が出来た。
ピッタリで終わった事に、僕はそこはかとなく満足感を覚えた。
(はい、これでおしまい。と。ヤラ。体を戻してもいいよ)
(・・・今回は長かったな)
そう? 集中していたから気付かなかったよ。
ヤラは体の主導権を取り戻すと、「ふう」とため息をついた。
作業中、邪魔をしないように黙って大人しくしていたカタリナが、待ちかねたように身を乗り出した。
『お姉ちゃん、これって何のお話?! ひょっとして「長靴をはいた猫」?!』
(へえ。良く分かったね。本当にカタリナって頭がいいんだね)
実はカタリナは、この短期間でいくつかの単語を読み書き出来るようになっている。
ヤラが(僕が)書いてあげた物語のテキスト。眠れる森の美女にシンデレラ。
彼女はそれを姉に(僕に)何度も読んで貰って、全ての単語と文章を丸暗記した。
そして姉が仕事に行っている間に、例の石盤を使って単語の書き取り練習をしていたのである。
石盤も以前のように絵を描く目的には使われなくなってしまったものの、本来の学習目的に使用されてきっと満足している事だろう。
(じゃあヤラ、早速カタリナに読んであげて。昔々ある国に、貧乏な粉ひきの父と――)
『言われなくても分かってるっての。昔々ある国に、貧乏な粉ひきの父と――』
ヤラからモヤモヤとした感情が伝わって来る。
文字を書くとなると彼女の手を使う必要がある。
書き終えたら直ぐに主導権を返しているとはいえ、他人に自分の体を使われる事に忌避感があるのだろう。
(・・・そんなんじゃねえよ)
(あれ? そうなの?)
彼女の感情はフラット。今の言葉にウソはないようだ。
てっきり僕に体の主導権を奪われる事が不満なのかと思っていたけど・・・
(後ちょっとで何か掴みかけてたけど、上手く行かなかった。それが中途半端で引っかかってたんだよ)
(ああ、そっちの話か)
ご存じの通り、僕の意識はヤラの頭の中に捕らえられた状態にある。
この状態での主導権は完全にヤラの方にある。
しかし、ヤラが眠っている間は――つまりは彼女が意識を失っている間は――今度は逆に、僕の意識が主導権を握る形となり、僕の意識は眠った状態のヤラの意識を連れたまま、元の四式戦闘機の機体へと戻るのだ。
そして先程の状態――僕がヤラの体を使っている状態――は、その中間状態とも言ってもいいだろう。
ヤラが意図的に意識を弱くする事で、僕の意識が彼女のコントロールを上回るものの、ヤラの体を離れて元の機体に戻れるほどではない。
そのため、ヤラの頭の中に留まったまま、彼女の体を動かす事が出来るようになるのである。
どうやらヤラはこの状態を何度か繰り返した事で、僕の意識を捕まえている自分の力――無意識に発動させている魔法力を薄っすらとだが感じつつあるようなのだ。
(ああ、クソ。本当に後もうちょっと。ほんの少しで何か分かりそうなんだよな。けど、手が届きそうで届かねえ。もどかしくてイライラするぜ)
(それが感じ取れるようになっただけ、ちゃんと前に進んでるって事だよ。焦らずに行こう)
『お姉ちゃん?』
急に黙り込んだ姉に、カタリナが不思議そうな顔になった。
『な、何でもない。ええと、どこまで読んだんだったかな?』
(ええと、そこそこ。『猫は魔法使いに尋ねました。「偉大なる魔法使い様。噂によりますと、あなた様はどんな物にでも姿を変えられるとか。でもライオンにはなれないでしょう?」「なに、簡単な事だ」魔法使いはそう言って呪文を唱えると、その姿はたちまちのうちに大きなライオンに変わりました』だよ)
『ゴホン。猫は魔法使いに尋ねました。「偉大なる魔法使い様――』
お話を最後まで読み終えると、今度はカタリナは文字を指差しながら、『これは何ていう言葉?』『これは何て読むの?』と尋ねて来た。
ヤラも以前は僕の言葉をオウム返しで喋っていたが、最近では『ちょっと自分で考えさせてくれ』と言って来るようになっていた。
どうやら、妹が次々に新しい文字を覚えて行くのを見ているうちに、姉として負けられない、と焦りを感じ始めたようだ。
(ええと、ハヤテ。これは「溺れる」で良かったよな?)
(そう、正解。良くそんな文字を覚えていたね。それとこの場合は、「溺れる」という単語に「まね」が繋がって、「溺れるまね」だね)
僕の感心した気持ちを感じたのだろう。ヤラから自慢げな感情が伝わって来る。
『これは「溺れるまね」だ』
『ふうん。じゃあこれは?』
『ま、待ってくれ。今、思い出すから。ええとだな・・・』
ヤラも真面目にやっているが、毎日、建築現場で働いているヤラと、姉を待っている間、ずっと絵を描いたり文字の練習をしているカタリナとでは、どうしても学習量の違いが出るようだ。
けどヤラは、姉の威厳を守るために、頭が熱くなる程頑張っている。
僕は耐え切れずに彼女に助け船を出した。
(ヤラ。そこは「服を」「探す」だよ。「探す」は前にも出ていたよね?)
(そうだったか? ああ、確かに)
ヤラは他の紙に書かれた文字にザッと目を通すと、目当ての文字を発見して頷いた。
『これは「服を」で、こっちは「探す」だ。ほら、ここでも使われているだろ?』
『本当だ』
僕の存在を知らないカタリナは、ヤラ本人がこのテキストを書いたと思っているはずだ。
それなのに、姉がこんな風にたどたどしく受け答えしている事に、何の違和感も感じないのだろうか?
「なぜ姉はいちいち頭を捻って思い出そうとしているのだろう?」「自分が書いた文字だろうに」とは思わないのだろうか?
あるいは疑問に思っているけど、姉に気を使って口に出さないだけなのかもしれない。
しかし、この嬉しそうな顔を見ていると、そんな事はないのかもしれない、とも思ってしまう。
カタリナにとって、好きな姉とこうやって一緒に勉強しているという事が最も大切で、この楽しい時間の前にはそんな些細な疑問など何の意味もないのだろう。
(おい、ハヤテ! ハヤテ!)
(えっ? あ、ごめんごめん。ちょっと考え事をしてた)
(おい、頼むぞ。お前が書いた文章じゃねえか。ホラ、ここだよココ。ここは何て読むんだ?)
(ここは猫が農夫を脅している場面だね。これは農夫の言葉で、「言う通りにしますから、私達を食べないでください」だよ)
(・・・なあ、カタリナが喜んでいるからいいけど、この猫って結構酷いヤツじゃないか?)
今更それを言う?!
いやまあ僕も、「ちょっとこの猫やりたい放題なんじゃ」とか「王様がこれでいいの?」とは思ったけどさ。
(・・・これってそういうお話だし。カタリナも喜んでいるし)
(まあいいけどよ)
最後は微妙な空気になったものの、こうして今日の勉強も終わったのだった。
次回「西方諸国から来た親戚」