プロローグ 貨物船「ウサギの耳」
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薄暗い船倉は酷い悪臭と人いきれで、呼吸をするだけで不快感を感じた。
悪臭の原因は、船倉の隅に置かれたハエのたかっている桶――トイレ用の桶から漂っているものだ。
出航以来一度も捨てられていない桶には、排泄物が溜まっている。
大きな荷物と荷物の間の僅かな空間。そこに押し込まれるように座り込んでいるのは、粗末な服を着た五十人程の人間達。
ほとんどが男性だが、女性も十名程混じっている。
船が揺れる度にギギギギと船体が軋む不気味な音が響き渡るが、いちいち反応をする者はいない。
全員が疲れ果てた顔でジッと息を押し殺し、一刻も早く港に到着する事だけを願いながら、この不快な時間を耐えていた。
「カタリナ。どうした? 辛いのか?」
一人の女性が、隣に座っている少女に声をかけた。
まだ若い女性だ。年齢は十代後半。ボサボサの赤毛。日焼けした痩せた体に男物の古い服。
痩せて頬がこけた顔には、意思の強そうな瞳がらんらんと輝いていた。
「・・・大丈夫だよ、お姉ちゃん」
少女は――カタリナと呼ばれた少女は、弱々しい笑みを浮かべた。
こちらも痩せた少女だ。年齢は十二~三歳だろうか?
こちらは姉とは違い、腰まで長く伸ばした金髪には、キチンと櫛が通されている。
彼女は体が弱いらしく、さっきからずっと辛そうに俯いていた。
「そうか? もうすぐ到着するから頑張るんだ。港に着いたら何か美味しい物を食べような。今夜は横になってゆっくり休めるぞ」
その時、ゴホン、ゴホンと、隣の男がわざとらしく咳き込んだ。
そして非難がましい目で姉妹を睨み付ける。
男の不躾な視線にカタリナは怯えて小さくなるが、姉は逆にジロリと男を睨み返した。
「気にするな。今はミロスラフの港の事だけ――港町ホマレの事だけ考えていればいい。出来たばかりのキレイな町なんだってさ。仕事だっていくらでもあるそうだ。姉ちゃんバリバリ働くから二人でいい所に住もうな」
「お姉ちゃん・・・」
姉は妹を抱き寄せると、優しく頭を撫でた。
この船の名は「ウサギの耳」。
地球でも、西洋ではウサギはその繁殖力の高さから多産や繁栄、あるいは植物が戻って来る春に関連付けられる事が多く、ウサギの足は幸運のお守りともされていた。(※実際は本物のウサギの足を使うのではなく、ほとんどが毛皮を用いたイミテーションだったらしいが)
似たような感じで、この世界でもウサギの耳が幸運のシンボルとされているようである。
このボロ船の名には似つかわしくなく、名前負けの感は否めないが。
実際、この船はかつては聖国で使われていたものが老朽化で破棄される所を、小ゾルタの商人が安く買い取り、改修を行って使用されている代物だった。
その際に客室は取り壊され、少しでも多くの荷が積み込めるよう、改造が行われた。
当然、そんな事をすれば過積載となり、設計された復原性を損なう事になる。
つまりこの船は、以前より多くの荷物を積めるようになったが、傾けばそのまま転覆する危険な船に改悪されてしまったという訳である。
あるいは「ウサギの耳」の船名は、「いつ沈んでも不思議じゃない、こんな船が浮いていられる事自体が奇跡だ」という意味での「幸運のシンボル」という、皮肉を込めて付けられた名なのかもしれない。
そんな分不相応な名前の御利益でもあったのか、船は沈まずにこうして無事に航行している。
今までは主に大陸方面。ミュッリュニエミ帝国の西に位置する西方諸国と交易を行っていたが、最近では隣国ミロスラフ王国に新たに誕生した港町――港町ホマレとの交易が中心となっている。
発展の最中にある港町ホマレでは、慢性的な資材不足に悩まされている。小ゾルタの山で採れる木材や粘土、それに家具や鉄製品などは飛ぶように売れていた。
港町ホマレでそれらの資材を降ろすと、代わりに小麦や豆などの食料品、それに塩などを積んで小ゾルタへと戻る。
昨年の帝国の南征以来、内乱状態が続いている小ゾルタでは、村々が荒らされ、作物の収穫量が激減している。
船を所有する商会も、領主に頼まれ、積極的に港町ホマレとの貿易に励んでいた。
物が動けば人も動く。
内乱による治安悪化や物価高で生活が厳しくなった者達の中には、仕事の無い小ゾルタから出て港町ホマレで働きたい、と思う者が出るのも自然な流れであった。
勿論、彼らのような食い詰め者達が船代など持っているはずもなく、ほとんどの場合は望みを叶える事は出来ない。
そこで「ウサギの耳」だ。
この船は貨物船だ。乗客は乗せないし、そもそも客室は壊されている。
ただし、人間ではなく荷物扱い――荷物として船倉で大人しくしている――なら例外として人も運ぶ。
随分と乱暴な話だし、船倉は船底にあるため換気も出来ず、居住性は劣悪だ。
だが、その分料金は安い。
そのせいもあっていつでも希望者は一杯だった。
そう。ウサギの耳の船倉で揺られている者達は、数少ない機会を手に入れる事の出来た幸運な者達だったのである。
ギギギギ・・・ミシッ!
不気味な軋み音が船倉に響き渡る。
「板子一枚下は地獄」と言うが、舟板一枚隔てた先には海水が満ち溢れている。
もし、どこかが壊れて浸水でもすれば、このボロ船はあっという間に海の藻屑と消えてしまうだろう。
最初の頃は音が聞こえる度に怯えていた乗客達だったが、劣悪な環境に長時間さらされた疲労で精神が摩耗してしまったのだろう。今ではいちいち反応する者はいなくなっていた。
(――チッ。こんな時に・・・)
苦痛にあえぐ妹を抱きかかえていた姉――ヤラは、奇妙な感覚を覚えてふと顔を上げた。
(最悪だぜ。こんな場所でまた例のあれかよ)
ヤラは苛立ちを覚えながらも、周囲を見回した。
彼女は霊感体質だった。
とはいえ、霊が見える、などといったオカルトめいたものではない。
どちらかと言えば第六感。
極たまに、ふと妙な気配を感じたり、イヤな寒気を感じる、という類のものだった。
しかし今までにも、イヤな予感を感じ、いつもとは違う道を通る事にしたら、後でその時間にその道で男同士が刃物を持ってケンカをしていた、という話を聞いたり、妙な焦りを感じて外出先から急いで家に戻ったら、かまどの火を消し忘れていて、あわや火事になる所だった、といった経験をしている。
ある意味ではありがたい才能だが、しかし、何が起きるかハッキリと分かるものでもないため、あてにするには困る能力とも言えた。
(まさかこの船が沈むってんじゃねえだろうな? おいおい、冗談じゃねえ。ここにはカタリナもいるんだぞ)
船倉には人と荷物がビッシリと詰め込まれている。
そして出口は一つ。
もし、これが浸水の予感だとしたら、一刻も早く行動を起こさないと間に合わなくなる。
(ふざけんな、ふざけんな・・・あれ? 消えた? なんだったんだ今のは)
霊感は現れた時と同様に、あっさりと消えてしまった。
事故の予感ではなかったのだろうか? だとすれば、危険はないのかもしれない。
だが、僅かでも妹の身に危険が及ぶ可能性がある以上、このまま無視する事は出来なかった。
(ちっ。こうなりゃダメ元でやるしかねえか。集中しろ・・・さっきの感覚をたぐり寄せるんだ)
ヤラは先程感じた感覚を思い出しながら、懸命に気配を探った。
とはいえ、こんな風に自分から霊感を働かせようとした事は一度も無い。
どうすればいいかも分からない、正に雲を掴むような作業であった。
思い出せそうで思い出せない。何かきっかけさえあれば思い出せそうな気がする。そんなもどかしさに似た感覚。
しかし、今日の彼女には幸運が味方していたようだ。
やがて彼女の霊感は先程の淡い反応を掴んだ。
(! これだ! さっきの感覚に間違いねえ! ・・・落ち着け。逃がさないように落ち着いてゆっくり。慎重に・・・)
煙のようなつかみどころのない反応は、やがて水のような触れるものの掴めない反応へと変わった。
どうやら初めての試みは上手くいっているようである。
ここで失敗する訳にはいかない。
ヤラはペロリと唇を舐めると、はやる心を押さえながら、慎重に反応を手繰り寄せた。
やがてそれは淡い反応から、切れやすい柔らかな糸のような反応へと変化していった。
(へへっ。やりゃあ意外と出来るモンじゃねえか。こうなりゃしめたもんだ。ゆっくり、ゆっくり・・・)
糸はやがて紐になり、ジワジワと手繰り寄せられていく。
どのぐらいそんな作業を続けていただろうか?
やがてフッと何かが彼女の頭に飛び込んで来たような感覚があった。
そして突然、頭の中に聞いたことのない男の声が響き渡った。
(えっ? あれ? これってどういう事? 狭くて暗い場所に人が一杯いるんだけど? 揺れてるけど船の中? ギシギシいってて今にも壊れそうで怖いんだけど)
ヤラの中に飛び込んで来た何か。その何かは、ひどく混乱し、慌てふためいているようだ。
驚きと戸惑い、そして強い不安の感情を感じた。
だが、驚きと不安を感じているのはヤラも同じだった。
今まで彼女は一度たりともこんな現象を経験した事は無かった。
ヤラは激しい恐怖に思わず叫んだ。
「はあっ?! テメエ! 何、人の頭の中に入って来てんだ! 何モンだテメエ!」
(えっ?! 女の子の声?! 頭の中?! どういう事?!)
「お、お姉ちゃん、急にどうしたの?」
急に叫んだ姉に妹のカタリナが驚いた顔で見上げた。
「え? な、なんでもないさ。ええと、ちょっと寝ぼけちまっただけさ」
ヤラは妹に心配をかけないように、咄嗟にウソをついた。
周りの人間は迷惑そうにこちらを睨むだけで誰も口を開かない。
ヤラは「ふん」と鼻を鳴らして虚勢を張った。
(お姉ちゃんって? この子は一体誰?)
頭の中の声もヤラの目を通してカタリナの姿を見たらしい。不思議そうな声が頭の中に響いた。
(う、うるせえ! それよりテメエは何モンだ! まさか幽霊とか言い出すんじゃねえだろうな! アタシを一体どうするつもりだ!)
(ま、待って待って! どうするも何も、全然状況が分からないんだけど!)
頭の中の声は慌ててヤラをなだめた。
(一先ず名乗った方がいいのかな? ええと、僕の名前はハヤテ。さっきまで屋敷の裏庭で日向ぼっこをしていたはずで・・・あの、僕の方こそ何が起きているのか教えて欲しいんだけど)
ハヤテと名乗った謎の声は、戸惑った声音で逆に尋ねて来たのだった。
次回「ハヤテの異変」