その21 リーリアの決意
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その日の夕食は重い空気に包まれていた。
食卓についているのは、ホストのティトゥ。そしてトマスとアネタの兄妹。トマスの婚約者リーリアの四人である。
ティトゥは時折り、窓の外に目を向けていた。
彼女が見つめていたのは大きな天幕――ハヤテの天幕である。
ヘルザーム伯爵軍がピスカロヴァー王国に進軍。
ティトゥはみんなの進言を受けてミロスラフ王家の判断に従うと決めたものの、トマスとアネタ、そしてリーリアといった幼い子供達を前に、後ろめたい気持ちが拭えずにいた。
本当に自分の判断は正しかったのだろうか?
彼女は無意識に頼れるパートナーの姿を――ハヤテの言葉を求めていた。
そんなティトゥの沈んだ気持ちと迷いが伝わったのだろう。
トマス達も自然と口数が減り、沈黙が食卓を支配する時間が増えていた。
料理人のベアータが腕によりをかけた美味しいドラゴンメニューも、この場の空気を軽くすることは出来なかった。
どこか憂鬱な食事が終わり、寝るまでの時間。
リーリアは分厚い本を閉じると小さくため息をついた。
このところ日課として自分に課している読書だが、今夜は目が滑ってばかりで、全く頭に入って来なかった。
「今日はダメね。ゾラ。何か温かい飲み物を淹れて頂戴」
「かしこまりました」
部屋の隅で控えていたおっとりした印象の侍女――ゾラが、明かりを手に部屋を出て行った。
テーブルの上には水差しもあるが、秋もすっかり深まり、朝晩の冷え込みは厳しくなりつつある。
今は冷たい水よりも何か温かい飲み物が欲しかった。
一人になったリーリアは、不意に寒気を感じて身を震わせた。
(いいえ、違うわ。これは体が寒いんじゃない。私は怖いんだ)
そう。それは恐怖。
自分が美味しい夕食を食べて、暖かい部屋でベッドに入っている間にも、故郷では戦争が続いている。
戦火の中で父や母、四つ年上の兄が死ぬかもしれない。いや。自分が知らないだけで、もう既に死んでいるかもしれない。
肉親が、故郷のバルトニクが、ありとあらゆる繋がりが失われ、自分の拠り所が無くなる。
この広い世界でたった一人になるかもしれない。
それは恐怖だった。
美味しかった食事が、質素だが暖かい寝室が、急に空々しく虚ろに感じられた。
リーリアは自分の感情に押し潰されそうになった。
彼女は一人でいるのが耐えられなくなり、衝動的に部屋を飛び出した。
コノ村では、いつもトマスとアネタは同じ部屋で寝ている。
最初はアネタが寂しがらないようにと思っての事だったが、今では何となくそうするのが当たり前のような感じになっていた。
コンコンコン。
ノックの音にトマスはイスから立ち上がると自らドアを開けた。(※トマスはコノ村にいる時は使用人を使っていない)
「リーリアじゃないか。こんな夜遅い時間にどうしたんだ?」
そこには明かりも持たずに、暗闇の中、寝間着で立ち尽くすリーリアの姿があった。
「リーリア義姉様?」
リーリアの様子にただならぬ気配を感じたのだろう。アネタは彼女に駆け寄るとその手を握った。
その手は細かく震えていた。
アネタはそれを知ると、兄の手を取った。
「トマス兄様も。ホラ。リーリア義姉様の手を握って」
「あ、ああ。リーリア、本当にどうしたんだ?」
「・・・トマス様。アネタ」
リーリアは左右の手を二人に握られると、泣きそうな顔で二人を見た。
トマスはリーリアの様子に驚くと、彼女を部屋に招き入れた。
「そこに座って待っていろ。今、誰かに言って、寝間着の上から羽織る物を用意させる」
トマスは部屋を出ようとしたが、リーリアは握った手を放さなかった。
「トマス様・・・オルサークの竜軍師様。どうかお救い下さい。私は――私をお助け下さい」
リーリアの必死の表情に、トマスの足は止った。
リーリアは自分が抱える恐怖を打ち明けた。
今こうしている間にも家族が死んでしまうかもしれない。故郷を失ってしまうかもしれない。そして自分の周りから誰もいなくなってしまうかもしれない。
戦争と言う得体のしれない大きな化け物に、飲み込まれそうになっている。そんな恐怖。
「オルサークの竜軍師様。どうか私を、私の家族を救って下さい。帝国軍も倒した竜軍師様なら、ヘルザーム伯爵の軍なんてどうという事はありませんよね? どうか助けると言って下さい」
「リーリア・・・」
トマスは眉間にしわを寄せると、彼女の手を引き剥がした。
それを拒絶と受け取ったのかリーリアの表情が歪む。
「リーリア。悪いが私にはそんな力はない。竜軍師などという大層な呼び名は周囲が勝手に言っているだけだ。バルトニクには気の毒だが、私ではヘルザーム伯爵軍をどうにかする事は出来ない」
「そんな! トマス様は私に意地悪を言っているですよね?! この間、ウチの騎士団が迷惑をかけたから怒っているだけですよね?!」
「リーリア、違う。聞いてくれ。落ち着いて話をしよう」
「そうよ! バルトニク家が無くなれば私と結婚する理由だって無くなる! だから私の事がキライになったんだわ! 邪魔になったんだわ!」
「いいから俺の話を聞け!」
トマスはリーリアの肩を力強く掴んだ。痛みにリーリアの言葉が止まる。
トマスはリーリアを座らせると、自分も彼女の目と鼻の先に座った。
「・・・リーリア。いい機会だ。俺が帝国との戦争で何をしていたか。今からそれを全てお前に話す。これはオルサークの者しか知らない話――あの戦争で起きた事の裏側。家の外では決して話せない話だ」
トマスはリーリアに向かって、昨年の帝国軍との戦いで何があったのか――自分達は何をしたのかを語った。
全ては人質となるためにアネタと共にミロスラフ王国に赴き、ティトゥとハヤテと出会った所から始まった。
それは長い長い話だった。
トマスは自分が聖国メイドのモニカにやり込められた事も、脱走者を処罰した事も、全てを包み隠さず話した。
あまりに長い話に、途中でアネタを寝かしつけなければならない程であった。
「――という訳だ。世間では俺達は英雄なんて呼ばれているが、本当はナカジマ様とハヤテ様を手伝っただけ。張子の虎だったという訳さ」
全てを語り終えると、トマスは自嘲気味に苦笑した。
リーリアは自分の知る常識が全てひっくり返された気がした。
彼は帝国軍との戦いに勝てたのは、自分達の力ではない。全てはハヤテの力によるもので、自分達はその手伝いをしただけに過ぎない、と打ち明けたのである。
「・・・なぜそんな話を私にするの?」
トマスは困ったような、誰かに秘密を打ち明けられて少しスッキリしたような顔をしていた。
「それは今のリーリアがあの時の俺と同じに思えたからだ」
「私が? トマス様と?」
「そうだ。あの時の俺はオルサークが帝国軍に攻め込まれ、自分達の全てを失うのではないかと焦っていた。怖かったんだ。丁度今のリーリアのようにね。だから分かりやすい力に――ミロスラフ王国の軍事力に飛びついた。何かに縋りたかったんだ。
しかし俺の力では何も解決しなかった。いや、戦争は人間一人の力じゃどうにも出来ない。それを何とか出来るのは人間を超えた力。それこそ奇跡のような力が必要だ。
そう。ハヤテ様くらいしかいないんだよ」
トマスは「あの時、ハヤテ様の力を知っていればなあ」と苦笑した。
「そんな――トマス様だって」
「いや。俺はどこにでもいる男爵家の三男坊だよ。ハヤテ様は強力な力と優れた叡智を併せ持ち、俺達人間を遥かな高みから見下ろす恐ろしい存在だ。そしてそれを思い知らされた時、俺はなぜハヤテ様が大人しく人間の下に――ナカジマ様の下にいるのか疑問に思った」
トマスにとってドラゴンは完全に人間の上位互換。
人間が持っている物はハヤテは全て持っている。しかもそのスペックは人間を遥かに凌駕している。
トマスは、ハヤテがティトゥに従う理由も、コノ村のテントの中で大人しくしている理由も分からなかった。
「だが俺はナカジマ様とハヤテ様を見ているうちに気が付いた。ハヤテ様が持っていて俺達人間も同じように持っているもの。それがあったからこそ、ハヤテ様はナカジマ様と契約を結んだのだと」
リーリアはハヤテの姿を思い出した。あの巨大なドラゴンと同じ何かが自分にもあるのだろうか?
「――それは”心”だ」
「心」
トマスの答えは意外な物だった。
「俺達人間には、当然ハヤテ様のような力はない。叡智もない。そんな俺達がハヤテ様と同等の物を持っている。それは心――思いだ。
ナカジマ様はこの世界の誰よりもハヤテ様の事を思っている。そして誰よりもハヤテ様を必要としている。もし、あの方が国とハヤテ様のどちらかを選ばなければならなくなった場合。ナカジマ様はきっとハヤテ様を選ぶだろう。
ハヤテ様はその事を知っている。だからあの方のそばにいるんだ」
大きなドラゴンと小さな少女を結びつける見えない絆。
それは少女の強い”思い”だった。
「リーリア。君はどうしたい? もし君が本気で何かを望むなら、君は君の言葉で自分の思いをハヤテ様に伝えるべきだ」
「えっ? トマス様は手伝ってくれないんですの?」
トマスは辛そうに顔を伏せた。
「俺ではダメだ。俺は俺の立場でしか話せない。そんな言葉ではおそらくハヤテ様には届かないだろう」
神は自らを助くる者を助く。西洋の古いことわざだが、トマスの言いたいのはそういう意味だろう。
トマスは、鋭い洞察力で、ハヤテが自分の力を人間社会で振るうのを忌避している事を感じ取っていた。
ハヤテの助力を得るには、彼を動かせるだけの思いを見せなければならない。彼はリーリアにそう言った。
「懇願や夢想ではなく、誰かの情けにすがりつくのでもなく、本当に真剣な思いだけがハヤテ様の心に届くだろう。その時初めてハヤテ様は動いてくれる。そしてハヤテ様さえ動かす事が出来れば、あの方はきっとリーリアを救ってくれるはずだ」
バルトニクを救う。この無力な自分が。
リーリアは決意を秘めた顔付きで立ち上がった。
「分かりました。私、ハヤテ様に会って来ます」
それは小さな――そして大きな決意だった。
次回「心の叫び」