プロローグ 竜軍師の婚約者
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その日。リーリアは朝から上機嫌だった。
彼女は先程から何度も窓の外を眺めては、部屋の中を行ったり来たりしていた。
「ああ、待ち遠しいわ。早く来ないかしら」
彼女の母親は苦笑をすると、落ち着きなく歩き回る娘を呼び止めた。
「リーリア、こっちにいらっしゃい。あなたの婚約者が来る前にもう一度髪を結び直してあげるわ」
リーリアは名残惜しそうに窓を見ていたが、再度母親に呼びかけられると、急いで彼女の座るソファーへと駆け寄った。
母親は娘の栗色の髪をほどくと、丁寧にブラシを入れ始めた。
「お母様急いで。すぐにトマス様が来るかもしれないから」
「はいはい。分かっているわよ」
リーリアは母親に髪を結んでもらいながらも、落ち着きなくソワソワと体を揺すった。
リーリアは今年十歳。栗色の長い髪。身長は同年代の中では高い方。顔立ちは整っているが、本人は少し鼻が低い事を気にしている。やや気が強そうな目つきが印象的な少女である。
ひと月程前、彼女は父親から「今度、お前に紹介したい者がいる」と言われた。
「ゆくゆくはお前が嫁ぐ事になるかもしれない少年だ」
「あなた! この子はまだ十歳ですのよ?! 十四になるドミノのお相手すらまだ選んでいないのに、どうしてリーリアの縁談が先に出て来るんです!」
まだ幼い娘の縁談に母親は強い不快感を示した。
ちなみにドミノとはリーリアの兄で、このバルトニク男爵家の長男である。
リーリアの父親は――バルトニク男爵家当主グスタフは――手を振って妻を抑えた。
「落ち着け。俺は、かもしれない、と言っただけだ。それに年齢の事を言えば、相手がドミノの年齢になるまで残っているとはとても思えん。なにせ彼ら三兄弟はこのピスカロヴァー領一の有名人。未成年にして国中の貴族から引く手あまたの少年だからな」
リーリアは父親の言葉に目を見張った。
彼女は父親の言う少年に一人だけ心当たりがあったからである。
このピスカロヴァー領で、彼らの異名を知らぬ者はいない。
英雄の三兄弟。生きる伝説。救国の若き英雄。
まさか。ひょっとして自分の縁談の相手とは――。
「ひょっとして、オルサークの竜軍師様?!」
そう。三兄弟の三男にして”オルサークの竜軍師”の異名を持つ少年、トマス・オルサーク。
この春にピスカロヴァー伯爵の娘が三兄弟の次男に嫁いだのはまだ記憶に新しい。
長男はとっくに結婚していて、最近、妻の懐妊が話題に上っている。
唯一フリーなトマスには、ピスカロヴァー中の貴族、豪商から縁談の申し込みが殺到しているという。
グスタフは大きく頷いた。
「どうだ? 会ってみたくはないか? この国の英雄だぞ」
「もちろん! 是非お会いしたいわ!」
グスタフは興奮に頬を染める娘を指差して、妻にニヤリと笑いかけた。
夫の「してやったり」の笑みに、妻は小さく苦笑するのだった。
トマスがグスタフの屋敷を訪れたのは二度。
どちらも夕食の前には帰ってしまった。
ピスカロヴァー領がピスカロヴァー王国として独立するにあたって、トマスは隣国ミロスラフ王国との折衝で忙しかったためだ。
最初、リーリアは憧れや好奇心でトマスに臨んだ。
なにせトマスは、子供でありながら冬の戦いで活躍した英雄。誰もが知る有名人なのだ。
現代で言えば、有名芸能人や一流スポーツ選手相手にのぼせる感覚、と言えば伝わるだろうか?
リーリアの前に現れたのは、明るいオレンジ色の髪をした利発そうな少年だった。
年齢は彼女の一歳年上。ただし身長はリーリアの方がほんの少し高い。
紳士的な物腰。父親と対等に仕事の話を交わす聡明さ。大きな才能を持ちながらも決して偉ぶらない謙虚さ。
トマスの持つ落ち着いた大人の雰囲気に、リーリアの心は即座に打ち抜かれてしまった。
「トマス様を見た後だと、お兄様がいかに子供か分かるわ」
「それって酷くない?!」
妹の酷評に兄のドミノはショックを受けた。
確かにドミノは同年代の中ではやや子供っぽいかもしれないが、それでもトマスと比較するのは気の毒というものだろう。
なにせトマスは、大人に混じって戦争を経験した事もある上、何度も隣国の常識クラッシャー(竜 騎 士)に翻弄されている。その上、某メイドに心をへし折られた苦い過去すら持っているのだ。
それらの経験によって、彼が同年代の男子に比べて精神的な成長を果たしているのも無理はないだろう。(トマス的には最後の経験が一番こたえたかもしれないが)
ハンサムで頭も良く、大人びていて紳士的。周囲からも将来を嘱望されている。ただ一つの不満点は現時点で彼女よりも若干背が低い所だが、彼はまだ十一歳。今後の成長に期待、という事でいいだろう。
リーリアはすっかりトマスに夢中になっていた。
「お父様! 私、トマス様と結婚したいわ!」
「そうか。ではオルサーク家に話を持って行こう。お前達が年頃になったら結婚出来るようにな」
いずれはオルサークの竜軍師を取り込みたいと思っていたグスタフにとって、娘が乗り気になったのは大助かりだった。
妻もトマスの人となりに好感を抱いており、今では「リーリアがそれでいいなら」と納得をしていた。
決してトマスが以前持って来た、お土産の「ナカジマ銘菓」に懐柔された訳ではない、と思いたい。
グスタフとトマスの実家は共に男爵家。
しかし同じ男爵家でも、バルトニク家とオルサーク家では明確な”格”の違いが存在する。
グスタフはピスカロヴァー伯爵(現国王)の長男だ。
彼はピスカロヴァー伯爵家に生まれたが、母親が側室、つまりは庶子であった。
そのため彼は自分の弟――嫡男のダンナが成長すると、男爵の位と土地を与えられ、家を出る事になったのである。
立場上、オルサーク家はバルトニク家の申し込みを断れない。――と言うと聞こえが悪いが、これはオルサーク家にとっても別段悪い話ではない。
リーリア本人の容姿や性格に問題が無い以上、むしろ理想的な相手と言えた。
なにせ相手は格上貴族家のお嬢様。バルトニク家と繋がりが出来るのは無視できない。
この話はバルトニクとオルサーク、両家にとって利のある良縁と言えた。
こうして話はとんとん拍子に進み、トマスとリーリアの婚約が決まったのであった。
トマスを乗せた馬車がようやく屋敷に到着した。
リーリアは早速、待ちに待った婚約者をお茶の席に誘った。
「しかし、私はグスタフ様に報告をしないといけませんので」
渋るトマスの肩をグスタフは軽く押した。
「お茶の一杯くらい構わんさ。報告を聞く時間なんて後でいくらでも取れるが、恋する娘のご機嫌をとるチャンスは今しかないからな」
トマスは苦笑するとリーリアに向き直った。
「それでは一杯だけ。ご馳走になります」
リーリアはパッと花のほころぶような笑みを浮かべた。
お茶会はトマスとリーリア。それと彼女の母親の三人で行われた。
グスタフはトマスを待つ間、執務室で溜まっている仕事を片付けている。
「トマス様は私の婚約者なんだから、もっと会いに来てくれればいいのに。今日は屋敷に泊っていって下さるのよね?」
「すみません。この後、ダンナ殿下の屋敷にも呼ばれていますので」
「ええーっ。・・・本家に呼ばれているのでは仕方ないですわね」
リーリアは渋々諦めた。
彼女が王家の事を本家と呼ぶのは、ピスカロヴァー家が王家となる前――伯爵家だった頃の名残である。
バルトニク家は男爵家だが、ピスカロヴァー国王アスモレイは彼女の父の父。つまりは祖父にあたり、王子ダンナは彼女の従兄弟となるためだ。
リーリアの母はしょげる娘の肩を抱いた。
「それにしても、未だに義父様が国王陛下になられたというのには慣れないわ。夫に聞いたけど、義父様が国王になるように勧めたのは、トマスさんだったんだそうね」
「トマス様が?! それって本当ですの?!」
「いえ、私だけがお勧めしたのではありません。あの場には兄達も一緒でしたから」
「それでも、それを考えたのはトマス様なんでしょう?! とてもスゴイ事だと思いますわ!」
トマスはリーリアからぶつけられるストレートな好意に、恥ずかしそうに頬を染めた。
リーリアは婚約者のこういった奥ゆかしい性格も非常に好ましく感じていた。
しかし、大きく上がった彼女のテンションはトマスの次の言葉で下がってしまった。
「ナカジマ様とハヤテ様から、誰よりも早く正しい情報を知らされていたおかげですよ」
ナカジマ様。隣国ミロスラフ王国のナカジマ家の当主、ティトゥ・ナカジマ。
人類で初めて、ドラゴンとの契約を果たした貴族の少女。
姫 竜 騎 士。
彼女の名前はトマスの話に繰り返し何度も出ている。
リーリアも最初は喜んで彼女の逸話を聞いていたが、恋する乙女は婚約者の言葉の端々から、「ナカジマ様」に対する尊敬や畏怖の念を敏感に感じ取っていた。
それからである。リーリアはトマスの口から彼女の名前が出る度に、胸の痛みを覚えるようになっていた。
(年頃の男の子が年上の女性を好きになるのは良くあるって、ウチのメイド達も言ってたわ。ナカジマ様はまだ独身だし、たいそう美しいお方だと聞いたわ。トマス様も実は・・・)
リーリアは自分の思い付きにおそれを抱いた。
だが、一度そういう考えに陥ってしまうと、色々な所が怪しく感じ出すものである。
(そもそもナカジマ家とオルサーク家は違う国の貴族なのに、帝国軍相手に一緒に戦ったというのがおかしいわ。
それにトマス様がナカジマ領に勉強に行っていたのも変よ。これってトマス様がナカジマ様に会いたいがために、周囲の大人達を無理やり納得させたんじゃないの?
きっとそうよ。トマス様は頭の良い方だし、そのくらいの事はやってのけるに違いないわ)
リーリアの不安は全くの的外れ、噴飯ものの妄想と言ってもいい。
ナカジマ家とオルサーク家の同盟は、知っての通りただの成り行きだし、トマスのナカジマ領への留学は、ナカジマ家の料理人ベアータの作るドラゴンメニューに、トマスの妹アネタが(それとトマスも)胃袋を掴まれてしまった事が原因である。
それにリーリアは気付いていないが、実はトマスはティトゥの話をする時には、大抵、ハヤテの名前も出している。
つまり、トマスは「ティトゥの話」をしているのではなく、ティトゥとハヤテ「二人の竜 騎 士」の話をしているのだ。
しかし、恋は盲目。
恋する少女は婚約者の言葉から勝手に不安の種を拾い上げ、心の中で大きく育て上げてしまっていたのだった。
「それでトマスさん。次はいつ、屋敷に来て下さるの?」
「それは・・・すみません。そろそろ妹のアネタと共にナカジマ領に帰ろうと思っていますので」
「えっ?! ご、ごほっ、ごほっ!」
衝撃の告白にリーリアは危うくお茶を噴き出してしまうところだった。気管に入ったお茶にむせ返るリーリア。
母親は慌ててハンカチを取り出すと、娘の口と鼻を拭った。
「ト、トマス様がいなくなってしまっては、今後のミロスラフ王国との折衝はどうするんですの?!」
「ダンナ殿下の祐筆の方がされる予定になっています。今日、殿下に呼ばれたのはその引継ぎの件についてだと思いますよ」
トマスは「いつまでも私のような子供が取り次ぎをしていたら、国として恰好がつきませんからね」と言って笑ったが、リーリアの耳には届いていなかった。
トマスが外国に行ってしまう。しかも「ナカジマ様」のいるナカジマ領に。
彼女は激しい焦りを感じた。
「ですので、次にお会い出来るのは実家に里帰りする事になる半年後――「トマス様! 私も! 私もナカジマ領に連れて行って下さい!」――は?」
バンッ! とテーブルに両手を付いて、リーリアは身を乗り出した。
突然の出来事にトマスは――そしてリーリアの母も――呆気に取られている。
「あの、リーリア?」
「私も! 私はトマス様の婚約者です! だから一緒に行ってもいいと思います! いや、一緒に行くべきだわ!」
「ちょ、リーリア。落ち着きなさい。あなた何言ってるの?」
リーリアは止める母親を振り切って、テーブルを回り込むとトマスの肩を掴んだ。
「ていうか、絶対連れてって! お願い!」
「は、はあ」
リーリアの剣幕に押され、トマスはつい「ご両親の許可を頂ければ」と答えてしまった。
リーリアは鼻息も荒く「絶対に説得するわ!」と拳を握りしめた。
(ええっ。リーリアってこんな性格だったんだ。もっとおしとやかな子なのかと思っていたのに)
トマスは唖然としながらも、「まあ、ナカジマ様のデタラメさやナカジマ家のメイド(※モニカ)の恐ろしさに比べれば普通か」と、中々酷い事を考えた。
是非、今の心の声をリーリアにも聞かせてやりたいものである。
結局、リーリアは渋る両親を全力で説き伏せ、トマスとアネタのナカジマ領行きに同行する事になるのだった。
次回「開通式」