その33 エム・ハヴリーンの誤算
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港町ルクル・スルーツ。
都市国家連合でも最大の港を持つこの町の目抜き通り。
数々の大店が軒を連ねるその中に、ここだけ周囲の喧騒から切り離されたかのような、静謐な一角が存在している。
敷地は高い生垣に囲まれ、外からは白い建物の屋根しか見えない。
一見、倉庫か何かのように見えるこの建物こそ、都市国家連合の政治の中心。元老院評議会の評議会会館であった。
本日ここでは、各港町の議員が集まり、四半期に一度の元老院評議会が開催されていた。
中でも最も重要な議題は評議会議長選挙。
そう。今後八年間の都市国家連合の方針が決まる、極めて重要な選挙。
その立候補者の演説と投票が行われているのである。
今回の立候補者は二人。
一人は言うまでもなく、現議長のエム・ハヴリーン。
もう一人は港町ヒーグルーンの商会主アルベルト・デラローサ。
どこか出来る役人のような印象の中年男性である。
デラローサは議員の中でも若手に入るが、その分体力もあるし、最近まで現場で生の情報に触れていたため、最新の周辺諸国情勢にも良く精通していた。
事前の見立てではほぼ互角。いや。やや現議長ハヴリーン老が優勢か。
都市国家連合の今後を決める重要な選挙とあって、欠席した議員は誰一人としていない。
議席数はルクル・スルーツが最大となる十二席。次いでヒーグルーンが十席。後はトル・テサジーク、トル・トラン、アンブラがそれぞれ三席づつとなっている。
例年の通りだとすれば、トル・テサジークとトル・トランは、それぞれ違う候補に票を入れるため、数としては計算に入れる意味はあまりない。
アンブラの持つ三票。それがどちらの候補に入れられるか。
焦点はその一点に絞られていた。
――かと思われた。
会議室は重苦しい沈黙に包まれていた。
評議会議長ハヴリーン老は、目の前の現実が受け入れられずにいた。
これは悪い夢に違いない。こんな事があるはずがない。
彼は投票用紙代わりの木札を握りしめたまま、ブルブルと震えていた。
港町ヒーグルーンの初老の三会頭の一人。モレイド商会の商会主、ちょび髭の小男ポールが、全員を代表して議長に尋ねた。
「議長。投票結果はもう出たのだろう? 早く発表してくれないかね。ワシはもう、待ちきれなくて堪らないのだが」
ハヴリーン老ははじかれたように顔を上げると、この生意気な小男を睨み付けた。
殺意のこもった視線を受けて、なぜかポール本人ではなく、同じく三会頭の一人、太ったドルマンがビクリと体を震わせた。
三会頭の最後の一人。痩せたのっぽのプーチが、小さくため息をついた。
「発表して貰わなくても、議長のその姿だけで結果は出ているようなものだがな。だが一応、これも決まりだ。発表の方をよろしく頼む」
「――こ、こんな投票は無効だ! 何かの間違いに決まっている!」
ハヴリーン老は木札をテーブルに叩きつけた。
そのまま勢い良く薙ぎ払うと、木札がバラバラと辺りに飛び散った。
ちょび髭のポールは気取った仕草で肩をすくめた。
「おいおい、これじゃ集計が出来ないではないか。仕方がない。議長はどうしても結果に納得が出来ないようだ。ここはワシが議長に代わって集計を取ってやろう。では、皆の者挙手をお願いする。――まずは議長の再選を選んだ者」
議員達の手がパラパラと上がった。
その中には港町アンブラの二商会、ザルミ商会のクリントとロディオ商会のレリック老の姿もあった。
「ふむ、よろしい。それでは次に、そこにいるアルベルトを選んだ者」
再び議員達の手が上がった。
その中にはバニャイア商会のフランコの姿もあった。
「九対二十二。思っていたよりも差がついたの。次の議長はデラローサ商会のアルベルト。お主じゃ」
「謹んでお引き受けいたします」
「待て! ワシを差し置いて勝手に話を進めるな!」
ハヴリーン老は立ち上がると、アルベルトを選んだルクル・スルーツの議員達を指差した。
「お前達! なぜワシを選ばない?! この裏切り者め! さてはお前達、票を金で売りおったな! この元老院評議会の面汚し共が!」
そう。ここまで票数に大差が付いたのは、トル・テサジークとトル・トランが同時に反議長派候補に投票したからだけではない。
ハヴリーン老の権力のお膝元、港町ルクル・スルーツの議員が五人も相手側に票を投じたためであった。
この裏切りは当のヒーグルーンの議員にとっても、完全に予想外だったようだ。彼らは興味深そうに議長と五人の議員のやり取りを窺った。
議員達を代表して大柄な議員が口を開いた。
「我々は裏切者ではないし、ヒーグルーンに付いたつもりもない。勿論、ヒーグルーン側から話は持ちかけられたが、そんなものは議長、あんただってやってる事だ。選挙活動の一環であって、わざわざここで問題にするような話じゃない。
我々は金を積まれて転んだ訳ではない。都市国家連合の――愛するルクル・スルーツの未来のために、誇りを持って最善と思われる選択をしたのだ。
ハッキリ言おう。ハヴリーン商会に融資を受けている商会主以外、あんたに票を投じた議員はただの一人もいないのだよ。我々は金で票を売った訳じゃない。金で票を買ったのはあなただ! 議長!」
「なっ・・・」
さしものハヴリーン老も、正面から叩きつけられた正論の前には絶句せざるを得なかった。
しかし、これで大人しく諦めるようなハヴリーン老ではなかった。
彼はこの状況でも懸命に勝ち筋を見つけようとあがいた。
ハヴリーン老は、今度はトル・テサジークとトル・トランの議員に向き直った。
「トル・テサジークの議員の諸君。本当にアルベルト・デラローサを選んで良かったのか? コイツはトル・トランが選んだ候補者なのだぞ?」
勿論、トル・テサジークの三票が議長側に動いた所で、今更この大差は覆らない。しかし、ハヴリーン老はとにかく場をかき乱して、どうにかこの選挙自体をうやむやに出来ないかと考えたのである。
だが、トル・テサジークの議員達は彼の言葉に全く動じなかった。
「何の問題も無い。誰に何と言われようとも我々の意思は変わらない」
「勿論、我々トル・トランも候補者を変えるつもりは全くない。まだ何も聞かれていないが、前もって言っておく」
「そ、そんなバカな・・・」
トル・テサジークとトル・トランが長年いがみ合っているのは、都市国家連合では子供でも知っている事実である。
この犬猿の仲の両港町が歩み寄るきっかけを作ったのが、当のハヴリーン老の失政だったのは皮肉と言えよう。
事ここに至ってもハヴリーン老は気付いていなかった。
彼はあまりにも周囲に恨みを買い過ぎた。あまりにもこの都市国家連合に混乱をもたらし過ぎた。
人を手駒としてしか見ていない彼は、人が自分達の生活を――自分達の住む町を――どれほど愛しているか、理解出来なかったのである。
人の心を侮っていた。
それが評議会議長、エム・ハヴリーン老の最大の誤算であった。
ちょび髭のポールは、ここまで来てもまだ諦める様子を見せないハヴリーン老に冷めた視線を送った。
「もう良かろう、議長よ。その席をアルベルトに譲るがいい」
「ふざけるな! ワシは認めん! この選挙は無効だ! 評議会議長の権限で無効を宣言する! な、なんだお前達。ワシに何をする?! 来るな! 近付くな! ワシは! ワシは都市国家連合の――」
ポールの指示で、評議会会館の職員達がハヴリーン老に近付くと、彼をイスから引きずり下ろした。
しかし、ハヴリーン老は見苦しくイスにしがみつき、その場を離れようとしなかった。
ここで新議長アルベルトが立ち上がると職員に命じた。
「構わん。イスごと隣室に連れて行け。どうせ後は私の議長就任の挨拶だけだ。書記。ハヴリーン殿は体調を崩して途中退席した。議事録にはそう記録しておけ」
「はい」
「こんな事は認めん! 認めてたまるものか! 離せ! 離さんかああああっ!」
ハヴリーン老の叫び声が部屋の外に消えると、新議長アルベルトは大きなため息をついた。
「議長就任後に出した初の命令が、職員に諦めの悪い老人を部屋の外に運び出させる事とは。何ともイヤな前例を作ってしまったものだ」
「そうボヤくな。これからはワシらも協力するから」
「そうじゃな。先ずは邪魔な傭兵共を追い出し、都市国家連合を健全な状態に戻さなければならん」
「トル・テサジークとトル・トランは、我々に先駆けて傭兵団と手を切ったと聞いたぞ。一体どうやったのかね?」
元老院評議会は、新しいリーダーを中心に、前議長の失政を乗り越え、前へと進み始めた。
都市国家連合にどんな未来が待っているかは、まだ分からない。だが、きっと昨日までよりも良い明日が待っている。それだけはこの場にいる誰もが確信していた。
ハヴリーン老は馬車で屋敷に向かっていた。
今朝までは彼の権力は盤石かと思われていた。それがまさか、ほんの数時間で覆されるとは。
権力の頂点から一転、全てはスルリと彼の指の間をすり抜けていってしまった。
(いや、まだだ。まだワシは諦めんぞ)
驚くべきことに、この状況に至っても、まだ彼は諦めていなかった。
ハヴリーン老は頭の中でいくつもの陰謀を考えながら屋敷に戻って来た。
馬車のドアが開かれると、彼の下に長男の妻が泣きはらした目で駆け寄って来た。
「義父様! あの子が! ペルが! ペルが!」
「下の孫がどうした?」
先程、ペル・ハヴリーンの訃報が屋敷に届いたのである。
ペル・ハヴリーンはバニャイア商会を襲撃、娘を攫って船で逃げ出した所を、追手に追いつかれ、護衛諸共命を奪われたのであった。
「死んだ・・・孫が・・・ワシの孫が死んだ」
ハヴリーン老は自分でも意外な程ショックを受けて立ち尽くした。
この日彼は、命の次に大事な権力の座を失うと同時に、何かと目を掛けていた孫まで失ってしまったのであった。
この後、ハヴリーン老は権力の奪還と、孫の復讐に奔走する事になる。
しかし、港町の者達は、ハヴリーン老に対して冷たかった。
長年に渡る傭兵達の乱暴に、すっかり辟易していたためである。
彼の復権活動は誰からの協力も得られず、暗礁に乗り上げてしまう事になる。
また、復讐の方も、バニャイア商会の取引先に聖国王城が加わった事を知ると、おいそれとは手が出せなくなってしまった。
それでもハヴリーン老は、持ち前の執念深さで虎視眈々とチャンスを窺っていた。
だが、自分達が周囲から完全に孤立しているのを危惧した彼の息子、ラエ・ハヴリーンによって、ハヴリーン老は強引に現役を引退させられてしまう。
父親の跡を継いで議員になったラエ・ハヴリーンは、協調路線に切り替え、どうにか商会の力を盛り返す事に成功するのだった。
ラエ・ハヴリーンは息子の死を悲しみはしていたものの、明らかに殺された原因は息子にある上、いずれこのような最期を迎える予感はしていたため、父親のように復讐に囚われる事は無かったのである。
あるいはこの、人としての情の薄さこそ、彼が父であるハヴリーン老から受け継いだ遺伝だったのかもしれない。
こうして隠居に追い込まれたハヴリーン老だったが、彼は最後の最後まで諦める事はなかった。
しかし、商会の経営からも切り離され、議員のイスも失っては、財力と権力――手と足をもがれたも同然である。
ハヴリーン老は決して満たされる事のない権力欲と、思うようにいかない激しい苛立ちを抱えたまま、命の尽きる最後の日までもがき続けたのだった。
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大陸の片隅。南に伸びた半島の、その南端にまばらに点在するいくつかの港町。
国にすら入れない僻地の小さな町が、身を寄せ合うようにして暮らしている小さな世界、都市国家連合。
ハヴリーン老は、その小さな世界の小さな王様になる事を望んだが、二度とその座に返り咲く事はなく、この世を去ったのであった。
次回「エピローグ 秋の訪れ」