その23 少女誘拐
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港町アンブラ。
この町の三大商会の一つ、バニャイア商会の本部の一室。
その執務室で、商会主フランコはこの数日、忙しく仕事に追われていた。
四日後の週末には、都市国家連合の評議会議長選挙が行われる。
今回の開催地は港町ルクル・スルーツ。現・評議会議長エム・ハヴリーンのお膝元となる。
ここアンブラからは船で約一日の距離である。ただし、天候の急変も考慮すれば、出来れば直前の出発は避けたい所だ。
今回の議長選挙は、都市国家連合の将来のためにも、評議会議長エム・ハヴリーンの再選だけは絶対に阻まなければならない。
勝算はある。
元老院評議会の議席数は三十一。この港町アンブラ三大商会が全て反議長派に回れば、十六対十五で議長派を上回れる計算になる。
とはいえ、ギリギリの戦いであり、決して油断は出来ない。
フランコは後顧の憂いなく議長選挙に集中するべく、こうして出発直前まで忙しく書類に目を通していた。
突然、執務室のドアが乱暴にノックされた。
「フランコ様! 大変です!」
ドアが開くと、青ざめた三十過ぎの真面目そうな男が転がるように駆け込んで来た。
フランコは彼の顔に見覚えがあった。
三大商会の一つ、ザルミ商会の傘下にある中堅商会の商会長だ。
ザルミ商会への窓口として、このバニャイア商会とも良く取引している商会である。
「どうしました。そんなに慌てて」
男は焦りで上手く言葉が出て来ないのか、「ザルミ商会が」「ザルミ商会が」と、ひたすら繰り返している。
そのただ事ではない様子に、フランコはイヤな予感を覚えた。
「ザルミ商会がどうしたんですか? まさかクリントに何か?」
クリントはザルミ商会の商会主である。
フランコとクリントは、互いに商売のライバルでもあり、三大商会の商会主という共通の立場を持つ、同世代の話せる友人でもあった。
もしや彼の身に何かあったのでは。
しかし、フランコの心配は最悪の形で裏切られる事になった。
「ザルミ商会は、現・評議会議長を支持するとの事! 私が直接、この耳で聞きました! 間違いありません!」
この土壇場で、クリントが反議長派を裏切ったと言うのだ。
フランコは急いで馬車を用意させ、ザルミ商会に駆け付けた。
バニャイア商会の商会主という大物の訪問に、建物の中は大きなざわめきに包まれた。
「クリントは――ここの商会主はいるか?!」
「あ、あの、ご面会のお約束は――あっ! お、お待ちを!」
フランコは受付を振り切って建物の奥に進んだ。他の職員達はフランコの剣幕に声もかけられずにいた。
その時、建物の廊下を一人の男が通りかかった。
身なりの良い、人好きのする雰囲気を持った初老の男――ザルミ商会の商会主クリントである。
「おい、一体何の騒ぎ――フランコ! お前、どうしてここに?!」
「クリント! 一体どういうつもりだ! 評議会議長の側に付くなんて気でも狂ったか?!」
人好きのする初老の男――ザルミ商会商会主クリントは、フランコの様子と今の言葉から、彼がなぜこの場に来たのか察したようだ。
彼は近くのドアを開けると、「こっちに来い」と手招きをした。
ドアが閉まると同時に、フランコはクリントに詰め寄った。
「話は聞いたぞ! お前本気か?! エム・ハヴリーンが評議会議長になって八年、アイツの愚政がどれだけ俺達を苦しめて来たか知っているだろう! 今、都市国家連合が何と呼ばれているか知っているか?! ”傭兵天国”だぞ! 全てアイツが外から傭兵団を呼び込んだせいだ!」
エム・ハヴリーンの失政、愚政は枚挙にいとまがない。しかし、その最たるものは、都市国家連合に外部の傭兵団を招き入れた事であるのは間違いない。
武装した余所者の流入は、治安を悪化させたのみならず、各港町の財源をも圧迫した。
この港町アンブラでも、傭兵団から町を守るために傭兵団を雇い、その傭兵団から町の治安を守るために衛兵を増やさざるを得ない、という負の連鎖に苦しめられていた。
クリントはフランコから目を反らした。常に人好きのする笑みを絶やさないこの男が、滅多に見せない、苦悩に満ちた表情をしていた。
「そんな事は分かっている。ヤツの再選を許せば、今後、更に事態が悪化する事もな」
「だったら!」
「でもダメなんだ。・・・ウチの店は全てハヴリーン商会に押さえられているんだよ」
「なんだって?!」
フランコのバニャイア商会は、港町ヒーグルーンという大手から一括して仕事を請け負っている。
しかし、そういった大口の取引先を持たないザルミ商会は、この数年間に負債が溜まりに溜まり、ハヴリーン商会から大量の融資を受けなければ成り立たない所にまで追い詰められていたのだった。
「負債の最大の原因は傭兵だ。お前も知っての通り、ウチの稼ぎ頭は金融だ。傭兵のせいで夜逃げしちまう債務者が後を絶たないんだよ。それに傭兵の被害に遭った商会に払う保険金もバカにならない。
傭兵の被害に遭っている俺達が、その原因を作ったヤツ――傭兵を呼び込んだヤツに頭を下げて助けてもらってるんだ。笑い話にもなりはしない」
クリントは吐き捨てるように言った。
フランコはこの古い友人に何も言ってやることが出来なかった。
「俺の所も酷いもんだが、レリック爺さんのロディオ商会も大概だと思うぜ。去年あたりから、ずっと融資を断って来たからな。まあ、ウチの金庫に金が無いってのもあるんだが、こっちだって商売だ。返済の宛ての無い金を貸す訳にもいかないんでな」
「だ、だったらなぜ、商工会議所で会った時、正直に”こちらに付けない”と言ってくれなかったんだ?」
フランコは辛うじてそれだけを口にする事が出来た。
だが、クリントの返事は予想通りだった。
「それについては――スマン。口止めされていたんだ」
「・・・ペル・ハヴリーンか」
評議会議長エム・ハヴリーンの孫、ペル・ハヴリーン。
半月ほど前からこの町に来た、全身白塗りの、親の威光を笠に着て威張り散らすだけしか能の無い愚鈍な青年。
まさか彼の来訪の目的が、クリントとレリック老に釘を刺す事にあったとは。
本人は無能でも、彼の祖父はあの抜け目のないエム・ハヴリーンなのだ。フランコは青年を侮っていた事を心底後悔した。
クリントは申し訳なさそうに告げた。
「俺も自分の決定が何を意味するか知っている。だが、それでも俺はオヤジから受け継いだ商会を――商会で働いている者達の生活を守らなければならないんだ。済まなかった。そしてこんな事を言える立場ではないのは分かっているが、頼む。どうにかしてヤツに――現議長に勝ってくれ」
クリントも断腸の思いで、苦渋の決断をしたのだろう。
その声には悲痛な物があった。
しかし、絶望に沈むフランコの耳には、彼の言葉は届いていなかった。
フランコの受けたショックは大きな物だった。
自分がいつ、馬車に乗ったのかも、まるで覚えていなかった程である。
当初の思惑では三十一議席中、票数は十六対十五。こちらが一票上回るはずだった。
しかし、ザルミ商会が、そしておそらくはロディオ商会も相手側に寝返ってしまった。
これで票は十四対十七。もし仮に反議長派の港町ヒーグルーンから欠席が出てしまえば、この差は更に広がるだろう。
(どうしてこんな事に・・・)
評議会議長の任期は、前期四年、後期四年の合計八年。
一応、前期の四年が終わった時点で不信任決議が行われるが、議長の退任には、全体の八割の賛同が必要と決められている。
港町ルクル・スルーツの票数は十二票。それだけで全体の三割を超えている。
事実上、途中解任は不可能と考えて良かった。
「旦那様! 商会が! 商会で何かが起きたようです!」
御者のただならぬ叫び声にフランコはハッと我に返った。
彼は急いで窓を開いて身を乗り出した。
「何だ?! 一体、何が起きたんだ?!」
商会の建物の周りは人垣で覆われている。
その間から、壊れた箱の残骸や、切り裂かれた布が散らばっているのが見えた。そして血を流した男達が商会の者達によって建物の中に運ばれていた。
まるで襲撃を受けたようなようなこの光景――いや、”まるで”ではない。実際に商会の本部が何者かによって襲撃を受けたのだ。
治安の悪い裏路地の安酒場ならともかく、よもや港町アンブラの目抜き通りに位置するこのバニャイア商会が襲われるとは。
想像もしていなかった凶行に、フランコの顔からサッと血の気が引いた。
「だ、旦那様。いかが致しましょうか」
いつの間にか馬車が停まっていた。怯えた御者が馬の手綱をしぼったのだ。
フランコは御者に怒鳴りつけた。
「何をしている! 急いで店に向かうんだ! 時間が惜しい! 裏ではなく、表の入り口に行け!」
「は、はいっ!」
今日は一体なんて厄日なんだ!
フランコは走り始めた馬車に揺られながら、立て続けに襲い掛かった不幸を嘆いていた。
しかし、不幸はこれで終わりではなかった。
店にたどり着いたフランコを待っていたのは、愛娘アデラが攫われたという知らせだった。
賊は二十人程。店の前に馬車を横づけると、強引に店の中に押し入った。
そして止めようとする護衛や事務員達に切り付けると、白昼堂々、アデラを攫って逃げたのだという。
「馬車の中にはペル・ハヴリーンがいました。あの白塗りの面相、間違いありません」
「ペル・ハヴリーン・・・くそっ!」
主犯はペル・ハヴリーン。ならば襲撃者達は彼の護衛の傭兵団だと思われる。
店の護衛や事務員では歯が立たなかったのも当然である。
フランコは怒りに体を震わせながら、部下に指示を出した。
「お前達は医者を呼びに行け! 私の馬車が表に停まっている。それを使え! 女達はケガ人の治療だ! 井戸から水を汲んで来て傷口を洗うのだ! 残りの者達は襲撃者の足取りを追え! 待て! お前はウチの船乗り達を呼びに行け! 顔は知っているな?! この時間なら彼らは港の近くの宿屋で寝ているか、飯屋にいるはずだ!」
「はっ、はい!」
店の者達は、はじかれたように行動を開始した。
幸い、負傷者は多かったが死者は出ていなかった。
フランコは、目の前で娘が攫われた事にショックを受けている妻を慰めながら、部下からの報告を待った。
ジリジリと焦燥感に駆られながら耐え続ける事、約一時間。
店に戻って来た部下の報告はフランコを絶望の淵に突き落とすものだった。
「ペル・ハヴリーンは既に町にはいません! 襲撃者達はアデラお嬢様を攫った後、港に直行! ハヴリーン家の所有する船に乗り込んで出航した模様です!」
ペル・ハヴリーンが向かった先は、間違いなくハヴリーン商会の本拠地となる港町ルクル・スルーツだろう。
フランコの顔からは血の気が引き、力無くイスに座り込んだ。
船はこの世界では最速の移動手段である。初動で出遅れてしまった以上、もはや今から追い付く事は不可能だ。
フランコはなすすべなくうなだれると両手で顔を覆い隠した。
その時。突然、フランコの妻が窓に縋り付いた。
彼女の目は空の一点に――不思議な飛行物体に釘付けになっている。
その謎の飛行物体は、まるで猛禽のように大きく翼を広げ、青空を悠々と舞っていた。
「奥様、一体何を?」
「どいて!」
夫人は意外な力で男を振り払うと、そのまま脇目もふらずに部屋を飛び出した。
次回「骸骨団のガドラス」