その20 閉ざされた島
◇◇◇◇◇◇◇◇
トレモ船長は一息つくと立ち上がった。
気が緩んだ途端、今まで忘れていた臭気がムッと鼻を突く。
村の広場には鍋が据えられ、天蚕の繭が茹でられている。
鮮やかな緑色をした繭の中に入っているのは、蛾の成虫になる前の蛹だ。
つまりこの独特の臭気の元は、虫の蛹が茹で上がる匂いなのである。
辺り一面に立ち込める匂いの中、痩せたボサボサ頭の若者が、嬉しそうに鍋をかき混ぜている。
彼はナカジマ領から連れて来られた、家具職人のオバロである。
服や体にこびりついた蛹の匂いはなかなか取れない。
しかし彼は気にならないのか、今も湯気を体いっぱいに浴びながら平気な顔で作業を続けている。
本人が言うには、ナカジマ領で膠や糊も生産しているため、すっかり異臭にも慣れてしまったとの事である。
「匂いなんて気にしていたら、俺達職人はやってられませんから」
オバロはそう言って笑ったが、その後、村の子供達から「臭い」「臭い」とからかわれて、少しへこんでいた。
トレモ船長はオバロに声をかけた。
「そろそろ良い頃合いなんじゃないか?」
「そうですね。じゃあ皆さん、集まって下さい。座繰機の使い方を教えますよ」
オバロの声に、周囲で座り込んでいた島の女性達が立ち上がった。
「やれやれ、やっとかい」
「それよりもこの匂い、何とかならないのかしら。鼻がダメになって夕食の味付けを間違えてしまいそうだわ」
「なら、あんたの家の今日の献立は、きっと虫の匂いがする料理ね」
「ちょっと止めてよ! けど、うちの大食らいの旦那と子供達なら案外気付かずに食べてしまうかもしれないわね」
女達はケラケラと笑いながら座繰機の近くに集まった。
オバロは鍋に水を差して冷ますと、何度か指で触れて湯の温度を確認した。
「ちょっと熱いので注意して」
彼は鍋を持ち上げると座繰機の中央のテーブルに乗せた。
「湯がぬるくなったら言って下さいね。お湯を足して温度を上げるので」
「分かったわ。それで私達はどうすればいいの?」
「最初に繭から糸を引き出します。こんな感じに。硬くて取れない時は無理をせずに。もう一度煮込み直すので横によけてこちらに――」
女達はワイワイ賑やかに騒ぎながらも、真面目にオバロの話を聞いている。
トレモ船長はその声を聞きながら、次の鍋に天蚕の繭の用意を始めた。
座繰機で糸を引けば、それで完成という訳ではない。
この後、引き出した糸を数本より合わせて生糸にし、その生糸で絹を織らなければいけない。
のんびりしている暇はない。作業は始まったばかりなのだ。
夕食も終わり、すっかり夜も更け、空には星が瞬いている。
島長の家の中では、カコン、カコンとリズミカルな音が小さく響いていた。
「これでどうかしら?」
織り機で生糸から布を織っていた、トレモ船長の母親が、オバロに出来栄えを尋ねた。
「いい感じですね。昨日、俺が織った布より目が揃ってるんじゃないですか? 一体どうやったんですか」
「フフフ。家族が着ている服を作っているのは私よ。家具職人のあなたとでは年季が違うわ」
オバロはトレモ船長の実家――島長の家に寝泊まりしていた。
最初は土間に寝転がろうとしていたオバロだったが、『ナカジマ様の連れて来た客人に無礼は出来ない』と言われ、今では家族の一員のような扱いを受けていた。
オバロは『俺はただの家具職人で、別にナカジマ家の家臣でもなんでもないんですが』と言って恐縮していたが、島長は決して譲らなかった。
――この島は変わらないな。
帰郷して数日、トレモ船長はなつかしさと、かつてずっと感じていた閉塞感を再び味わっていた。
ここは一見、のどかな田舎の島だが、良い場所かと言えばそうではない。
少しでも住んでみれば分かるが、本当に何も無い貧しい島なのだ。
痩せた土地に作物は僅かしか実らず、海が時化れば漁にも出れず、その日の食べ物にも事欠く有様。
年に一度立ち寄るバニャイア商会の船に売れる物が、わずかな干し魚と真水だけという酷い島なのである。
祖父の代も貧乏ならば、親の代も貧乏。自分の代も貧乏ならば、子の代、孫の代までずっと貧乏。
貧乏すぎて島民の数も増えず、いつ何かのきっかけで全滅してもおかしくない。
島民はただ今を生きるだけ。子々孫々、今よりも悪くなる事はあっても、今より良くなる事だけは決してあり得ない。
七歳のトレモ船長が、危険を承知で島を脱出する覚悟を決める程、このバーバラ島は将来の無い、閉ざされた場所だったのである。
(ナカジマ様はそう思ってはいらっしゃらないのだろうがな)
トレモ船長はナカジマ家当主ティトゥの、光り輝く美貌を思い浮かべた。
トレモ船長にとって、ティトゥは伝説のドラゴンと契約した幸運の持ち主。女性の身でありながら爵位を授かり、若くして領地持ちの貴族家当主となった恵まれた高貴な生まれ。誰もが息を呑む類まれな美貌の持ち主。聖国王城とも太いパイプを持つやり手の才女。
彼女は、生まれながらにして全てを持つ、成功が約束された側の人間。
自分達とは全く真逆の、完璧な存在そのものだった。
そして、島の者達がトレモ船長の話を受け入れ、毎日、ティトゥに島の品を紹介して来たのは、彼らがお人好しだからでも、トレモ船長が島長の息子だからでもない。
ハッキリと言えば、全ては彼らなりの打算に基づいた行動だったのである。
島に大型船に匹敵する”商品”があれば、今後、自分達の収入につながる。
トレモ船長は港町アンブラの商会に顔が利く。もしも今回の件で上手く商品が見つかれば、トレモ船長を介して取引を行える。今よりも生活が楽になる。裕福になれる。
そんな藁をもすがる気持ちで、彼らなりに懸命に協力して来たのである。
(なぜ俺は、船が差し押さえられた時、この島の名前を出してしまったのだろうか)
バーバラ島には、船の代わりになるような品は何も無い。それは、島から逃げ出したトレモ船長が一番良く知っている。
あの時は必死だった。自分には船の代わりに差し出せる物が――港町アンブラの彼の店はバニャイア商会の財産で、彼個人が好きにして良い物ではない――何も無かった。
理由は色々と考えられるが、あるいは心の奥底で、彼は貴族に対して精一杯の反抗をしていたのかもしれない。
お前達貴族が、気軽に差し押さえようとしている船が、自分達にとってどれだけ大切で命に値する物か。
取る物も何も無い島を見せることによって、それを思い知らせる。
そんな自暴自棄で捨て鉢な衝動だったのかもしれない。破滅的でさえある。
貴族にとっては、苛立ちこそすれ、針に刺されたほどの痛痒も感じないだろう。
そして、巻き込まれたバーバラ島の島民達にとってはいい迷惑でもある。
しかし、「全てを失った」と絶望していたトレモ船長にとって、これは自分に残された、たった一つの反撃だったのだ。
ひょっとして人の良さそうなティトゥなら、同情して見逃してくれるかもしれない。そんな打算もあったと思われる。
しかし、ティトゥはトレモ船長の予想に反して、意外な粘りを見せた。
彼女は辛抱強く、何日もこの何も無い島に通い詰めた。
予想外の展開に、トレモ船長はストレスで胃に穴が開きそうになる程の焦りを覚えた。
ティトゥは一体何を考えているのか?
あの時は想像すら出来なかったが、今なら分かる。
彼女が待っていたのは変化。
パートナーのドラゴン・ハヤテなら、必ずこの島から何かを見つけ出す。それを信じて、その時が来るのをずっと待っていたのである。
カコン、カコンと織り機の音が再び響き始めた。
今は小さな音だが、何年かすれば島のあちこちの家からこの音が響く日が来るのかもしれない。
この数日はトレモ船長にとって、大きく価値観を揺るがされる事になった激動の日々だった。
あるいはこのバーバラ島にとっても、大きな分岐点だったのかもしれない。
未来の無かったこの島が、竜 騎 士に関わった事により、まだ誰も見た事のない姿に――この世界の誰も想像した事のない未来に――進もうとしている。
トレモ船長は知らなかった。
竜 騎 士の二人は、既にナカジマ領という前例を作っていた事を。
広大な湿地帯以外に何も無かった不毛な土地が、今や開発ラッシュに沸く、ミロスラフ王国内で最も将来性のある領地になろうとしている事を。
竜 騎 士は普通じゃない。
多くの関係者の知るその事実に、彼はようやく気付き始めた所であり、未だに実感するまでには至っていなかったのである。
次回「いつもの朝」