その4 バニャイア商会
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ペニソラ半島の南。
ハヤテ達のいるミロスラフ王国とは、険しいトラルトカ山脈によって遮られたその地には、古くから五つの港町が存在している。
各港町はどこの国家にも属さない独自勢力――都市国家として独立、繁栄していた。
五つの町は、時には利権を巡って争い、また、時には協力し合いながら、大きくなっていった。
やがて各々の町から代表者を選出。彼らの協議によって運営される”元老院評議会”を結成。こうして”都市国家連合”と呼ばれる連合体が誕生したのだった。
現在の議長――いわば最高権力者はエム・ハヴリーン老。
ミロスラフ王国の新国王、カミルバルトに対して四軍包囲網を画策した黒幕である。
ここは都市国家連合を形成する五つの港町の一つ、港町アンブラ。
都市国家の中では小規模な、どちらかと言えば地味な町である。
しかし現在、この港町アンブラは、都市国家連合の中で最も重要な町として注目されていた。
港から伸びた通りの一角を占める大きな商会。
トレモ船長の船のオーナーでもあり、この港町アンブラの三大商会の一つ、バニャイア商会である。
ここは商会の本部の一室。
恰幅の良い初老の男が手紙を手に難しい顔をしていた。
「招宴会の案内状が来たよ。主催者はペル・ハヴリーン。評議会議長の二番目の孫だったかな」
男の言葉に、彼の妻がピクリと反応した。
「最近アンブラに入ったと聞いていたけど――やっぱり選挙活動だったのね。それでフランコ。参加するの?」
「今は落ち目とはいえ、これでも元老評議会に議席を持つ商会主だからね。気に入らない相手からの招待という理由だけで、断る訳にはいかないだろう」
「落ち目なんて、そんな事は・・・」
妻は慌てて否定しようとしたが、夫は――バニャイア商会商会主、フランコは軽く手を振って止めた。
「済まなかった。お前を困らせるつもりはなかったんだ。そうだね。私は少し弱気になっていたようだ」
「トレモが聖国から戻って来ればきっと良くなるわ。あなたの自慢の部下じゃない」
「そう・・・だな。トレモを信じよう」
バニャイア商会は外洋船によるランピーニ聖国との貿易で、この港町アンブラの三大商会の一つに入っていた。
――と言えば聞こえは良いが、港町アンブラ自体が都市国家群の中では小規模な町に入る。
都市国家群の中でも最大の港町は、港町ルクル・スルーツと港町ヒーグルーン。
そのうち、港町ルクル・スルーツは主にチェルヌィフ王朝との、港町ヒーグルーンは主にランピーニ聖国との貿易で利益を上げている。
つまり、バニャイア商会は港町ヒーグルーンと完全に商売が被っているのである。
実際にバニャイア商会は、港町ヒーグルーンのおこぼれで取引をさせて貰っている状態である。
とはいえ、港町ヒーグルーンはバニャイア商会のみならず、港町アンブラの立場も十分に配慮してくれているため、実は両港町の関係は悪くはなかった。
しかし、現在。長年続いたその関係は崩れようとしていた。
原因は二つ。
一つは昨年の夏、聖国の沖でバニャイア商会の持ち船が海賊に襲われ、沈められてしまった事にある。
バニャイア商会は大きな損失を受け、それによってアンブラ商工会内での発言力が弱まってしまった。
前述したように、バニャイア商会の立場は港町ヒーグルーンの傘下に近い。結果として港町アンブラにおける港町ヒーグルーンの影響力も低下してしまったのである。
もう一つの原因は、もうじき元老院評議会の議長選挙が始まる事にある。
港町アンブラの持つ議席数は三つ。
今までこの町はどちらかと言えば港町ヒーグルーン寄りの立場だったが、バニャイア商会の力が弱まった今、その関係は危ういものとなっている。
具体的に言うと、バニャイア商会が押さえている議席以外の二つを港町ルクル・スルーツ派に奪われる心配が出て来たのである。
現在の評議会議長はエム・ハヴリーン。
元々の議長が病気で亡くなったため、代理の議長となった男である。
その強引な手段は当時から問題視されていた。
特に政敵となる港町ヒーグルーンは、ハヴリーン老の議長就任に激しく抗議していた。
しかし、ハヴリーン老は傭兵団を味方に引き入れる事でその声に対抗。
この一件が引き金になり、各々の勢力が自衛のために傭兵団を雇い始める事になった。
こうして今や、都市国家連合は各地に傭兵団の溢れる傭兵天国の様相を呈しているのだった。
「トレモは来週には戻る予定になっている。仮に天候の急変で船が遅れる事があっても、議長選挙は月末。十分に余裕を持って間に合うはずだ」
「そうね。上手くやってくれればいいけど」
トレモは今やバニャイア商会の所有する唯一の外洋船に乗って、ランピーニ聖国最大の港町、アラーニャを目指している。
商品は船に使われる歴青。港町ヒーグルーンの大手商会から任された大口の仕事である。
絶対に失敗は許されなかった。
港町ヒーグルーンも、バニャイア商会の事情は知っている。
バニャイア商会は港町アンブラにおける自分達の窓口と言ってもいい。
そのため彼らは、失った外洋船の代わりとなる船を、破格の条件でフランコに譲り渡す事にした。
そのための交渉も終わり、いよいよ実際に船を引き渡す。という所で、突然問題が発生した。
評議会議長エム・ハヴリーン派からの横やりが入り、契約は白紙に戻されたのである。
担当者は「本当に申し訳ない」と頭を下げた。
「評議会議長の手はこのヒーグルーンにも伸びているのだ。我々も色々と手を尽くしたが、あちらになびく者が出るのを止められなかった。本当にすまなかった」
どんな組織でも、人間の集まりである以上は一枚岩とは成り得ない。
例え相手が自分達の政敵でも、個人的な利益のために裏切る者は出て来るのである。
担当者は議長選挙までには組織内の引き締めと意思統一を計ると約束したが、フランコの耳には彼の言葉はほとんど届いていなかった。
彼は商会の今後を思い、目の前が真っ暗になった気がした。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。担当者は今回の埋め合わせとして、大口の取引をバニャイア商会に斡旋してくれたのである。
聖国最大手の港町アラーニャの、しかも聖国王家にも船を納めている大手造船所との直接取引。バニャイア商会にとってはかつてない大仕事であった。
もし、この依頼を成功させれば、昨年の損失を取り戻せるばかりか、今後も継続して取引が期待出来るかもしれない。更には商会の名にも箔が付く。正に願っても無い申し出である。
(上手くいけば、新しい外洋船の費用も捻出できるかもしれない!)
この仕事はフランコにとって、垂れ込めた暗雲から差し込んだ一条の光であり、地獄に垂らされた一本の救いの糸であった。
このチャンスを絶対に逃す訳にはいかなかった。
フランコは彼の信頼する部下、トレモを船長に選び、彼に船と商会の未来を託して聖国へと送り出したのだった。
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港町アンブラの大通りを一台の馬車が走っていた。
商会の紋章からバニャイア商会の馬車である事が分かる。
車内で揺られているのはドレスを着た少女。いかにも良家の子女、といった感じの、大人しそうな乙女である。
年齢は十七歳。淡褐色の瞳に、赤みの強いダークブラウンの長い髪。
彼女の名前はアデラ・バニャイア。バニャイア商会フランコの娘であった。
アデラは商会の娘が開いたお茶会に参加した帰りだった。
招宴会や催し物への出席は、商会主の娘である彼女の、いわば仕事のようなものである。
彼女は多い時には日に何件も、そういった社交の場へと参加していた。
どこぞの社交場嫌いの某当主には、彼女の爪の垢でも煎じて飲んでもらうべきなのかもしれない。
「トレモは大丈夫かしら・・・」
アデラは寂しそうにポロリとこぼした。
彼女の脳裏には、彼を見た最後の光景が――船長として船に乗り込み、「心配ない」と手を振る彼の姿が――浮かんでいた。
船は予定では、来週には聖国から戻って来るはずである。
無事でいてくれればいいけど。
そう思うと共に、聖国で女性を作っていたらどうしよう。などと妙な心配もしてしまう。
彼女も思春期――耳年増な年齢だけあって、「いっぱしの船長は、港の数だけ女がいるもんだ」などといった、出どころも分からない胡散臭い話を真に受けていた。
胡散臭い話、と言えば、彼女には気になっている事がある。
今日のお茶会の話題の中心は、先日、この町にやって来た、評議会議長の孫ペル・ハヴリーンについてだった。
噂では彼はアデラを見初め、狙っているというのだ。
アデラは招宴会で紹介されたペル・ハヴリーンの姿を思い出した。
小太りで、全身に白粉を塗って異常な程真っ白で、他人を見下す態度を隠そうともしない、自信過剰の気取り屋。
彼は頭のてっぺんから足の先まで、トレモとはまるで正反対の男だった。
アデラはペル・ハヴリーンに手を取られた時、不快感のあまり悲鳴を上げそうになった。
「イヤだわあんな男。早くルクル・スルーツに帰ってくれればいいのに」
あまり人を悪く言わない、温厚なアデラがここまで毛嫌いするのは、余程彼と波長が合わなかったのだろう。
あるいはペル・ハヴリーンを良く知る者は「分かる人間にはひと目で分かるんだな」と、アデラの直感に感心したかもしれないが。
ガタン。
車輪が轍から外れる振動で、彼女はハッと我に返った。
屋敷に到着したにしては早すぎる。どうやら馬車は道の脇に寄って停車するようだ。
馬車の小窓が開くと、御者の目が覗いた。
「ハヴリーン商会の馬車が参りました。止まってやり過ごします」
通りは二台の馬車が走りながらすれ違うには幅が足りない。
昔はそうでもなかったが、近年の馬車の大型化と周辺の店の軒がせり出して来た事で、相対的に道幅が狭くなってしまったのだ。
バニャイア商会は、ここ港町アンブラでは三大商会に入るほどの大手だが、真の大手商会――港町ルクル・スルーツの大手商会には足元にも及ばない。
馬車が停まってからしばらく。
前方からガラガラという車輪の音が近付いて来ると――
すぐ前で止まった。
アデラが怪訝な表情を浮かべる中、御者が誰かと言い争う声が聞こえた。
「こ、困ります! 馬車にはご婦人がお一人で乗っておられるのですぞ! どのような悪い噂が立つかお考え下さい!」
「ふん。悪い噂結構。貰い手が無くなるというのなら、むしろ俺が格安で買い取るチャンスというものだ」
男の声にアデラの顔から血の気が引いた。
彼女が今、一番聞きたくない声だったからである。
ガチャッ!
馬車のドアが乱暴に開かれると、そこには白粉で顔と言わず手と言わず、真っ白に塗りたくった小太りの男が立っていた。
男は――ペル・ハヴリーンは、怯えるアデラに向かってニヤリと笑った。
「よう。俺の事は覚えているよな。オイオイ、そんなに怯えるなよ。何も取って食おうって訳じゃない。まあお前が俺に食われたいってなら話は別だがな。仲良くしようぜ、なあ、アデラ」
アデラはおぞましい男に自分の名前を呼ばれる恐怖に、ガクガクと体を震わせた。
次回「トレモ船長の帰還」