その30 道化《クラウン》
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ここはメルトルナ領の西に位置する領境。
現在、この場所にはメルトルナ軍三千が布陣していた。
いや。三千というのは最初期の頃の数。
あれから毎日のように部隊は減り続け、今やその総数は二千を割り込むまでになっていた。
メルトルナ軍本陣の大テントに、男の怒声が響き渡った。
「ふざけんな! また部隊ごと逃げ出しただと! 今度はどこのヤツらだ! 将軍達は一体何をやっていた!」
男はメルトルナ家当主ブローリー。
周囲の将軍達は、彼の勘気を被るのを恐れて黙って目を伏せている。
ブローリーは騎士団の中から「これは」と思う人物を複数人引き上げ、「将軍」に任命して部下を率いらせていた。
将軍に選ばれる条件には家柄も年齢も関係なかった。必要なのは本人の実力だけ。
つまりブローリーは、メルトルナ家の中で実力本位の複数の騎士団を作り、互いに競わせる事で技量の向上を狙っていたのである。
彼がこと軍事面においてのみ、柔軟な発想と先見性を持っていた事がうかがわれる一例である。
ブローリーは焦燥していた。
”二列侯への勅諚”と先代国王の遺言状を手に入れ、軍を動かした所までは順調だった。
情婦ゼレナーの言った通り、北からは隣国ゾルタのヘルザーム伯爵軍が攻めて来て、王家はメルトルナ軍にだけ対応する訳にはいかなくなった。
ここで西の大貴族ネライ家の軍が動けば、三方向からの包囲網が完成する。
カミルバルト国王は絶体絶命になる。――いや、なるはずだった。
「それが・・・くそっ! なんだってこんな事に」
流れが変わったのは七日前の事だった。王都でカミルバルトが即位式を行ったのだ。
ブローリーは「この大変な時期に何を考えているんだ?」と、カミルバルトをせせら笑った。
ネライ軍の布陣を待つ必要さえなければ、これをチャンスと一気に王都に攻め込んでいただろう。
カミルバルトは戴冠し、ミロスラフ王国第七代目の国王の座に就いた。
しかし、即位式はそれだけでは終わらなかった。
カミルバルトはランピーニ聖国の王女、パロマ王女との婚約を発表したのである。
政治に疎いブローリーでさえ、この話を聞いて「こいつはマズい事になった」と青ざめた。
小国のミロスラフ王国にとって、聖国という大国の後ろ盾はそれ程大きな意味を持つのである。
しかも相手は王女。聖国王家の正統な血筋である。
格の上では、本来、ミロスラフ王国などに嫁いで来て良い相手ではない。
聖国では第一王女が、今の宰相に嫁いでいる事からも分かるだろう。
ブローリーは慌てて全軍に緘口令を敷いたが、人の口に戸は立てられない。
この噂は瞬く間に広がり、メルトルナ家傘下の貴族達は浮足立った。
そもそも、彼らはブローリー程、王家に対して恨みも野心も抱いてはいない。
メルトルナ家に対する長い付き合いと、ブローリーの主張に正当性が――自分達の方こそ正しいと信じたからこそ、この挙兵に従っていたのである。
メルトルナ家傘下の多くの貴族達にとって、聖国という大国に立てつく度胸も覚悟も無い。その聖国がカミルバルトの後ろ盾になっている――正統性を保証している以上、ブローリーに従っていれば彼と心中する未来しか無かった。
誰か一人が抜けると、そこからは早かった。
貴族達はあれこれと理由を付けると――あるいは理由も告げずにコッソリと――陣地を抜け出し、自分の屋敷に逃げ帰ったのだった。
こうしてメルトルナ軍はみるみるうちにやせ細っていき、今では戦力も二千を切り、当初の半分近くにまで落ち込んでいた。
その時、見張りの兵士が慌ててテントに飛び込んで来た。
兵士のうろたえた様子に、ブローリーの頭にイヤな予感がよぎった。
「申し上げます! 北の砦を見張っていた者からの伝令! ゾルタ軍が潰走したとの事です!」
「何だと?!」
予想を上回る悪い知らせに、ブローリーはショックのあまり立ち尽くしたのだった。
見張りの兵士に続いて、伝令の兵士が入って来た。
夜を徹してここまで駆け続けたのだろう。兵士は今にも倒れそうなほど憔悴していた。
「緊急を要する知らせゆえ、お見苦しい姿のままで失礼致します。昨日、砦を攻撃中のゾルタ軍が背後から別部隊の攻撃を受けました。部隊は本陣の旗から推察して隣国ゾルタのピスカロヴァー伯爵軍。ヘルザーム伯爵軍は崩れた所を砦から出た我が国の兵に攻め立てられ、全軍潰走致しました。その後、ピスカロヴァー伯爵軍と砦の我が国の軍とが交戦しなかった事からも、両者が示し合わせた上での攻撃だと思われます。潰走したヘルザーム伯爵軍は戦場から完全に撤退。おそらく領地に逃げ帰ったものと推測されます」
悪い時に悪い知らせは重なる物である。「申し上げます!」 今度は別の兵士がテントに飛び込んで来た。
「ネライ家が王家に対して恭順と謝罪を申し出たとの情報が入りました! ネライ軍は解散! 今では影も形もないそうです!」
「そんな・・・」
ちなみにブローリーのあずかり知らない事だが、この時点で南の都市国家連合軍も撤退を開始している。
いつまでも見通しの立たない状況に、早くも限界が来てしまったのだ。
傭兵で部隊を揃えた都市国家連合軍の弱点を、ハヤテに的確に突かれた形になってしまったのであった。(知っての通り、ハヤテにそんなつもりは無かったのだが)
包囲網は完全に崩れ、メルトルナ軍自体も今やボロボロで見る影もない。
ブローリーは完全に手詰まりになっていた。
放心するブローリーの背後で、将軍達が悔しそうに歯噛みをした。
「こんな事なら、他の勢力など待たずに我が軍だけで攻め込むべきだったのだ」
「今更それを言ってどうする! あの時はあれが最善手だったのは間違いないはずだ!」
「そうだ。それに我々だけが王家と戦って消耗すれば、戦後、無傷のネライ家に好きにされるのは目に見えていた」
「そのネライは動きすらしなかったではないか!」
「ゾルタのヘルザーム伯爵も存外だらしない。国内の敵に背後を突かれるまで全く気付かないとは」
今更何を言っても後の祭りである。将軍達の議論には有益なものは何一つなかった。
ただの責任逃れであり、結果が出た後で「こうしたら良かったのになあ」といった無意味な後知恵であった。
その時、呆けていたブローリーがハッと目を見開いた。
「ゼレナーだ! ゼレナーは今、どこにいる?!」
「ご当主様の情――屋敷の女でしょうか? 呼んでまいります」
流石に本人の前で情婦とは言えなかったようだ。将軍の一人が慌ててテントを出て行った。
しばらくして彼は一人で戻って来た。
「申し上げます。ゼレナーは行方をくらませました。どこに行ったかは分かりません。現在部下に調べさせております」
「どういう事だ?」
ブローリーは眉間に皺を寄せた。
将軍の話によると、ゼレナーはあてがわれたテントにいなかったそうだ。
荷物はそのまま。ただし、かさばらない貴金属の類は持ち出されていたらしい。
彼女の世話係に付けられた中年のメイドは、陣地の外で死体となって発見された。
麻袋に詰められていた事から、別の場所で殺害した後、陣地の外に運んで捨てたのだろう。
当然、女の細腕で出来る事ではない。彼女には協力者がいたのだ。
いや、協力者ではない。彼女こそが、何者かの手駒だったに違いない。
思えば最初からおかしな事が多かった。
なぜ、ゼレナーは、ブローリーですら知らなかった”二列侯への勅諚”の存在を知っていたのか?
なぜ、ゼレナーは、隣国ゾルタのヘルザーム伯爵軍の動きや、ネライ領の三都市の動きを知っていたのか?
ゼレナーは、自分には協力者がいると言っていたし、実際にブローリーも彼女の協力者にも会っているが、ゼレナーが中心にいるにしては、その動きはあまりにも組織的過ぎた。
彼女もその組織の工作員の一人だったのだ。
目的はメルトルナ家を意のままに動かし、利用する事。
そのためにゼレナーは、女の武器を使って巧みにブローリーの懐に入り込み、ブローリーに適度に情報を与える事で、彼があたかも自分で思い付いたかのように思考を誘導してみせたのである。
(何者かがゼレナーを俺の下に送り込み、アイツを通じて俺を操っていたのか!)
「ふ・・・ふふふ」
「ご当主様?!」
ブローリーは乾いた笑いを浮かべた。
「俺はとんだ道化だったという事か。――情けない。まさか女一人に踊らされて判断を誤るとは」
ブローリーは追い込まれた事で、ようやく女の色香から覚め、まともな判断が出来るようになったようだ。
しかし、全ては遅かった。
彼は己の全てを賭けてこの反乱に挑み、そしてその決断は誤りだったと今更気が付いたのだ。
ブローリーは落ちる所まで落ちた気分になっていた。
かつてこれ程までに、打ちのめされた経験があっただろうか?
今日は間違いなく、彼の人生において最悪の一日だった。
いや、まだ今日は終わっていない。
彼にとって最悪の一日はまだまだ続いていたのだ。
突然、テントの外が騒がしくなった。
物見の兵が慌ててテントに飛び込んで来た。
「敵です! 国王軍が現れました! その数およそ三千! しかも後方に大量の砂煙を確認! 後続の部隊が続いている模様! 全体でどれほどの数になるかは確認出来ません!」
将軍達がハッと息を飲む中、先程の兵を突き飛ばす勢いで、別の兵士が駆け込んで来た。
兵士は泣きそうな顔で報告を――いや、悲鳴を上げた。
「ドラゴンです! 敵にはナカジマ家のドラゴンがいます! 竜 騎 士が我々の敵に回ってしまったんです!」
「なんだと?!」
ブローリーは崩れる兵士を蹴り飛ばしながらテントの外に駆けだした。
彼は陣地を見回して物見の櫓を発見すると、素早く駆け寄り、巧みな動きで梯子を上った。
「あれか! あれが・・・ドラゴン、なのか?」
視界の先の王国軍。その上空を猛禽のようなシルエットを持つ飛行物体が旋回している。
彼はナカジマ家の主催したパーティーでハヤテに会っているが、空を飛んでいるのを見たのは初めてだった。
ハヤテはブローリーの視線に気づいた――訳ではないだろうが、このタイミングで翼を翻すと、一直線にこちらに向かって来た。
ヴ――――ン
ハヤテはブローリーの頭を踏みつけるようにすぐ真上を通過。
誰に阻まれる事も無く、陣地のド真ん中を堂々と突っ切った。
「うわあああああっ! ドラゴンだ! ドラゴンが来た!」
「俺達は終わりだ! 全員殺されるんだ!」
ハヤテはただ上空を通過しただけで、兵士達をパニックに陥れていた。
「俺は、俺は一体、どこで間違えちまったんだ・・・」
ブローリーは一瞬で烏合の衆と化してしまった自軍を見下ろし、青ざめた表情で呆然と呟いたのだった。
次回「エピローグ ハヴリーン老の誤算」