その15 王后ペラゲーヤ
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ここはミロスラフ王国王都。
王城に近い貴族街に、ひと際広大な敷地面積を誇る屋敷がある。
上士位筆頭、ネライ家の屋敷である。
いくつも立ち並ぶ大きな建物の真ん中、屋敷で働く者達からは母屋と呼ばれている大きな建物の一室。
厳めしい顔つきの初老の貴族――ネライ家当主、ロマオ・ネライは、壁にかかった風景画を眺めていた。
しかし、いつもであれば彼の心を満たしてくれる芸術も、今の彼のささくれだった心を慰めてはくれなかった。
この屋敷の保管庫から、重要な書状――”二列侯への勅諚”が盗み出されたあの事件。
盗まれた勅諚はメルトルナ家の使いの者に渡され、今頃は当主であるブローリーの手元にあると思われる。
実行者はロマオの最も信頼する部下、屋敷の家令キリアーレ。
そして首謀者はロマオの長子アマラオ。
二人は事情聴取の後、屋敷の一室に謹慎させられていた。
息子アマラオは詳しい事情を知らされていなかった。
いや、本人は分かっているつもりでいたが、ロマオにとってみれば、話にもならない曖昧な話でしかなかった。
アマラオは父に対して自分の行動の正当性を訴えた。
「ナカジマ家の台頭で、我々の領地は厳しい状況になっています! カミルバルトが即位して王家の力が増せば、益々ネライ家の王都での発言力は低下してしまうでしょう! 父上! 我らが行動を起こすのは今をおいて他にはないのです! この機を逃せばネライ家には先細りする未来しか残されていないのです!」
そんな妄言を真顔で訴える息子に、ロマオは怒りよりも情けないという感情しか浮かばなかった。
「反旗を翻してどうするつもりだ。本気で王家に勝てるとでも思っているのか? 仮にカミルバルト陛下を打倒出来たとして、それでどうする。戦で荒れた土地や王都をどう復興するつもりだ? それに次の国王は? まさかこの国をメルトルナ家と半分ずつに分けるとか言うまいな。それで他の貴族家が納得すると思っているのか? お前も隣国ゾルタが今、どうなっているか知らん訳ではあるまい。この国を第二のゾルタにしたいのか?」
先程のアマラオの主張は刺激的だが曖昧で、全く実態が伴っていない。「~だろう」「~かもしれない」と、もっともらしい仮定を積み重ねて、聞く者の不安を煽っているだけに過ぎない。
アマラオは、誰かの語ったアジテーゼに乗せられて、その気になっているだけだったのである。そして本人はそれを自覚していなかった。
アマラオは政治を、戦を、経済を、頭だけで理解したつもりになっている。
だが、政治は王城の中だけで行われるような小さな物ではないし、戦も勝った負けただけで終わる物ではない。経済に至っては目に見えない巨大な生き物のような物で、例え大国の国王であってもコントロールする事は不可能だ。
アマラオが誰に吹き込まれたのかは知らないが、所詮、彼は温室育ちのボンボンである。
本人はいっぱしの知恵者を気取っているようだが、その政治力は王都に限られたものだし、手足となって動く人材も少なく、領地運営の経験に至ってはゼロと言ってもいい。
アマラオ自身はメルトルナ家の協力者でいるつもりのようだが、便利に使われていただけである事は明らかだった。
聞けば、ネライ領にも、彼の思想に賛同する動きがあるという。
ロマオはあまりの情けなさと絶望に、何もかもが馬鹿馬鹿しくなってしまった。
可能であれば感情のまま全てを投げ出してしまいたい。
しかし、馬鹿げた者達が起こした馬鹿げた騒ぎとはいえ、実際に巻き込まれるのはネライ領の領民達だ。
ロマオは屋敷に引きこもり外部の雑音を遮断すると、急ぎ調査のために部下を自領へと送り出した。
そしてこの数日。ようやく全員が王都に戻って来た。
彼らがもたらした情報は予想外のものだった。
「ルーベントにベチェルカ。それにオシドルが軍を動かしただと?!」
ルーベント、ベチェルカ、オシドルの三つの町は、いずれもその規模・経済力・重要度で、ネライ領を代表する大都市である。
それぞれネライ家の中でも有力な分家が治めている。
(まさか彼らがアマラオの言葉に乗せられるとは・・・)
あまりの事態にロマオは部下の話をすぐには信じられずにいた。
この時。”ネライの古狐”と畏怖される程、計算高くしたたかな彼にしては、珍しく思い違いをしていた。
あるいは、自分の息子のしでかしという事実が、想像以上に彼の心の負担になっていたのかもしれない。
事ここに至っても、彼はこの騒動を引き起こしたのが、自分の息子――あるいは彼をそそのかしたメルトルナ家当主ブローリーだと思い込んでいたのだ。
しかし、本当の黒幕は他にいる。
全ての陰謀を画策し、自らは決して表に出ることなく、巧みに裏で糸を引く人形つかいがいたのである。
未熟なアマラオをそそのかし、武に奢るメルトルナ家当主ブローリーをその気にさせ、隣国ゾルタの野心家、ヘルザーム伯爵を動かし、南から貪欲な傭兵軍団を差し向けた張本人。
その人物の名こそ、都市国家連合の評議会議長エム・ハヴリーン。
今回、ミロスラフ王国を襲ったこの一連の騒動は、その全てがこの蛇のように狡猾な老人によって仕組まれた策略だったのである。
今の所、あらゆる事態はハヴリーン老の思惑の通りに動いている。
カミルバルト新国王は袋のネズミ。この国の命運は風前の灯火であった。
その時、ノックも無くドアが開け放たれた。
慌てて飛び込んで来たのは、謹慎中の家令の代わりに屋敷を任せている中年の使用人だった。
不躾な乱入者にロマオの眉がひそめられた。
「ご、ご当主様! た、大変です! お、王太后陛下がいらっしゃいました!」
「なにっ?! ペラゲーヤ王太后陛下が?!」
使用人の言葉に、さしものロマオも驚きの声を上げたのだった。
ペラゲーヤ・ソトニコフは前ミロスラフ国王の妻――王后である。
前国王亡き今は元王后――王太后として離宮に入り、政治からは切り離されている。はずである。名目上は。
だが、実際は彼女は、今も王城において強い影響力を持っていた。
それは彼女の実家が、チェルヌィフ王朝の六大部族の一角、サルート家の歴史ある名門ソトニコフ家だからである。
ロマオは急いで身だしなみを整えると、屋敷の貴賓室へと向かった。
「失礼します。大変お待たせ致しました」
ペラゲーヤは侍女と護衛の騎士二人を連れ、ロマオの到着を待っていた。
大柄な女性である。
こうしてただ座っているだけで、人目を集める存在感を放っている。
正に女傑と呼ぶにふさわしい人物と言えた。
前国王が存命の時は、夫である国王の貧相な容姿との対比から、「ノミの夫婦」などと陰口を叩かれていたようである。
しかし、意外と言っては失礼だが、夫婦仲は非常に良好であった。
ペラゲーヤの侍女が一歩前に出ると胸を張った。
「陛下は――」
「よい。自分で話す」
侍女の言葉はペラゲーヤによって遮られた。
「久しいの。ロマオ・ネライ」
「はっ。陛下におかれましては、ご健勝のご様子。誠に喜ばしく存じます」
王太后と臣下。いや、それが無くとも、ペラゲーヤは大国チェルヌィフ王朝の六大部族に名を連ねる大貴族の出身である。
小国のミロスラフの貴族家当主とでは、比較の対象にすらなりはしないのだ。
これが国の力関係というものである。
六大部族関係者の屋敷の庭に、平気でハヤテで乗り入れるティトゥの方が、正直どうかしているのだ。
「こうして余人を交えずに話をするのは、お前に乞われてこの国の王家に嫁いだ時以来か」
「さようでございます」
どうやら彼女の言う余人の中には、侍女と護衛は含まれないようだ。あるいは、侍女を間に挟まず、直接言葉を交わすという意味かもしれない。
なんにしろ、決して王城を離れる事のないペラゲーヤが、最低限の護衛だけで極秘裏にネライの屋敷を訪れたのだ。決して穏やかな用件ではありえない。
ロマオの胃は、緊張のあまり石を飲み込んだように重く痛んだ。
「時間が惜しい。本題に入ろう」
ペラゲーヤはロマオの目をじっと見つめた。
「ネライ家は、ミロスラフ王家に反旗を翻すのか?」
ロマオはビクリと体を固くした。
ペラゲーヤの来訪を知らされた時から、予想されていた言葉でもあった。
ペラゲーヤは言葉を続けた。
「私は、この国が自分の第二の母国だと思っている。こうして夫を失ってもこの気持ちは変わらぬ」
「それは・・・ありがたき幸せにございます。この国に住む者達に代わりまして、お礼――」
「だからこそ、重ねて問おう。ネライ家は王家に槍を向けるのか?」
ロマオは返答に窮した。
実の所、ネライ領で軍が動いているのを知ったのは、つい先日の事だったのだ。
むしろロマオの方こそ、彼らの本意を問い詰めてみたかった。
「私個人と致しましては、そのような野心は毛頭ございません」
「――ネライ領での軍事行動は、領主であるお前の預かり知らぬ物であると?」
やはりペラゲーヤはネライ領での動きを知っていたようだ。
彼女には王城に張り巡らせた情報網のみならず、チェルヌィフ商人のネットワークが協力している。
しかし、彼女の得た情報だけでは、この動きがロマオの画策したものかどうかまでは分からなかった。彼女は自分の目と耳で、真実を確認するために、こうしてロマオの元を訪れたのだろう。
「王太后陛下」
「何じゃ?」
「私には長年この国を支えて来たという自負があります」
ロマオは上士位筆頭ネライ家の当主として、宰相のユリウスと協力して、長年に渡ってこの国を支えて来た。
もちろん、それら全てが国家に対する忠誠心ないしは無償の献身から出た物などと、キレイごとを言うつもりはサラサラない。
時には宰相を利用して利権を得ていたし、あるいはもっと直接に、裏切って利益を得たりもしていた。
それでも宰相とは持ちつ持たれつ、互いに互いの存在を利用し合って国を回して来たのは事実である。
チェルヌィフの貴族、ペラゲーヤを国王に輿入れさせたのも、ランピーニ聖国と繋がりの深いマコフスキー家やオルドラーチェク家の影響力を抑えるためのものである。
逆に宰相ユリウスは、ネライ家に対して負債だらけのペツカ地方を押し付けたり、厄介者の第四王子を引き取るように要請したりもした。
ネライ家と宰相は互いに強く結びつく事で、国を安定させていたのである。
しかし近年、ネライ家と王家の繋がりは急速に薄れつつあった。
ロマオの盟友でもあり、宿敵でもあり、タフな交渉相手でもあった宰相ユリウスは、既に王城を去っている。
ペツカ地方はナカジマ家の領地として勃興を開始。
愚鈍な国王は崩御し、知勇兼備の英雄が新たな王座に就こうとしている。
時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、この変化はあまりにも突然で急速過ぎた。
「ネライは大きくなり過ぎ、また、力を持ち過ぎました。今は変化についていけない者達が、将来を見失って迷走しているのです」
「お前に王家を打倒する意思はないと?」
ロマオは大きく頷いた。
「王家を失う時、ネライ家もまた力を失うでしょう。私は年老い、息子は軟弱で、孫はネライを背負うには幼すぎます。そんなネライを、あのメルトルナの当主ブローリーが黙って見ているとは思えません。必ずや国は乱れ、ミロスラフは第二のゾルタになるでしょう」
この国最大の貴族家の当主の口から語られる悲惨な未来に、居合わせた侍女と護衛の騎士達がハッと息をのんだ。
しかし、ペラゲーヤは何の反応も示さなかった。
チェルヌィフ人の彼女にとって意味のない話だったから、ではないだろう。
彼女も既に、ロマオと同じ考えに至っていたからに違いない。
ペラゲーヤが軽く片手を上げると、それを合図に護衛の騎士が控えの間のドアを開けた。
「そこまで分かっているなら、自分が何をすべきなのかも分かっているであろう。ならば、お前に私から一つだけ助言を与えよう」
開いたドアから入って来たのは、若いチェルヌィフ人だった。
場違いな男の登場に、ロマオは戸惑いの表情を浮かべた。
「ハヤテを頼るように。案内はこの者に任せよ」
「ハ、ハヤテ? ですか?」
若いチェルヌィフ人――チェルヌィフ商人のシーロは、ロマオに対して慇懃に頭を下げると、いつもの胡散臭い笑みを浮かべたのだった。
次回「パロマ王女の決断」