その1 王都に立ち込める暗雲
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それはミロスラフ王国にとって、祝福された輝かしい記念日になるはずだった。
カミルバルト新国王の誕生。
かつてこの国の多くの者が望み、そしてかなわずに消えたはずの夢。
その願いが現実となる日がとうとうやって来たのだ。
昨年、国を二度も救った輝かしい英雄は、その頭に至高の王冠をいただき、この国と国民を導いてくれる。そのはずだった。
しかし、戴冠式を三日後に控えたその夜、王城で事件は起こった。
城内に賊が侵入。先王の残した遺言状を盗んで逃走したのである。
賊を手引きしたのは、親衛隊の隊長ストロウハル。
彼はネライ家の傍系に連なる者であった。
さらに賊は、上士位貴族筆頭、ネライ家当主ロマオ・ネライの直筆の書状を手にしていた。
事件の首魁はロマオ・ネライなのか? それとも果たして?
時刻で言えば夜の十時。いかに王都とはいえ、いつもであれば完全に寝静まっている時刻である。
しかし戴冠式を三日後に控えた今、町のあちこちの酒場には明かりが灯され、お祭り騒ぎに浮かれる市民達の声が響いていた。
とはいえ、流石にこの時間ともなれば、通りを歩く人影はほとんど見当たらない。
そんな真っ暗な通りを、王都騎士団員達が完全武装で駆け抜けていく。
彼らの鬼気迫る様子に、酒に酔った男が目を丸くして立ち尽くした。
騎士団員の一人が男を見付け、険しい表情で詰め寄った。
「おい、貴様! 今までどこにいた?!」
「はっ、はひっ!」
男は騎士団員の剣幕に目を白黒させながら、震える指で通りの角の酒場を指差した。
「そ、そこの酒場で夕方から飲んでいました。い、今から家に帰る所でございます」
「そうか。少し前にこの通りを怪しい男達が通らなかったか? 騎士風の二十人程の集団だ」
男はフルフルと体を震わせて、全身で否定した。
「わ、分かりません。俺が店を出たのはついさっきだし、飲んでいたのは奥のテーブルだったんで」
「――そうか。今日はもう真っ直ぐ帰れ。いいな」
騎士団員は男が必死に頷くのを確認すると、先程男が指差した酒場へと向かった。
どうやら、あの店で同じ質問をするつもりのようだ。
騎士団員の姿が酒場のドアに消えた途端、ようやく男はホッと肩から力を抜いた。
酔いはすっかり醒めていた。
「なんだよ、なんだよ。なんなんだよ。冬の戦争の時だってこんな事はなかったぞ。一体全体、今夜何があったって言うんだ?」
男の言葉に答える者はいなかった。
この夜、男は家に帰るまでに二度、騎士団員に捕まり、同様の質問を受ける事になるのだった。
明けて翌日。王城から王都全域に外出禁止令が出された。
すっかり無人となった通りには、王都騎士団の団員達が走り回り、物々しい警戒態勢を敷いた。
昼を回ると、今度は王都の上空を、ヴーン、ヴーン、と聞きなれない低い音が飛び回った。
ナカジマ家のドラゴン・ハヤテが、騎士団の捜索に協力しているのである。
王都の市民達は不安と困惑の中、「きっと王城で何か良くない事が起こったに違いない」と噂し合った。
この厳戒態勢は三日間続き、結局、即位式はうやむやの中、延期されるのだった。
あの夜以来、ネライ家当主、ロマオ・ネライは王都の屋敷に引きこもっている。
王城からの再三の登城要請にも、病気を理由に応じない。
そして王城に賊を手引きした件に関する申し開きも何もない。
彼は屋敷の周囲を自領の騎士団員達に守らせたまま、貝のように固く口を閉ざしていた。
そんなネライ家に対して、王城からは登城を求める使者を送る以外は何も行動を起こしていなかった。
宰相バラートは、父親である先代の宰相ユリウスに輪をかけて平時向きの文官である。
彼の望みはあくまでも話し合いによる解決にあった。
新国王カミルバルトも、宰相から強く懇願され、身動きが取れずにいた。
カミルバルト自身も国内最大の貴族家と敵対する覚悟が持てなかったのだが、未だに屋敷から動かないロマオ・ネライの真意をはかりかねていたせいでもあった。
宰相は王都騎士団に命じ、ネライ家の屋敷を囲ませた。
そしてネライ家当主が王都を離れられないようにした上で、話し合いのテーブルを用意した。
ロマオ・ネライはそこまでされても、頑なに沈黙を守っていた。
こうして王都は不穏な空気に包まれたまま、無為に六日が過ぎたのだった。
即位式の予定日から六日後。王城に北の国境の砦から緊急の知らせが飛び込んだ。
「隣国ゾルタの軍が国境に進軍中! 兵数は約三千!」
「ゾルタが?! まさか!」
ミュッリュニエミ帝国、五万の南征軍によって、隣国ゾルタの王家が滅ぼされてからまだ一年も経っていない。
現在ゾルタは、各地の領主が争い合う戦国時代へと突入していた。
三千の軍と聞けば、五万の帝国軍よりもかなり見劣りがするが、それは比較対象がおかしいだけで、ミロスラフ王国やゾルタにとっては普通の規模の軍である。
「軍勢の盟主はヘルザーム伯爵とのことです!」
「ヘルザーム・・・隣国の強硬派のトップか。しかし、なぜ今なんだ?」
カミルバルトはうなり声を上げた。
ヘルザーム伯爵はミロスラフ王国嫌いで有名である。
普通に考えれば、即位式で国境の守りがおろそかになった所を突いた進軍、といった所だろうか?
だが、国内に不安を抱えたまま、あえて国の外に攻め込む意味が分からない。
国王の言葉に宰相が答えた。
「確かヘルザームは、先日、隣接するカメニツキー伯爵領を併呑したとの事。次は我が国、と考えたのではないでしょうか?」
つい先日、ヘルザーム伯爵は隣接するカメニツキー伯爵領を攻め落とした。
戦いが終わった以上、軍団は解散。兵卒は各村々に戻さなければならない。
宰相は、ヘルザーム伯爵が集めた兵士を戻す前に、次の目的地にミロスラフ王国を定めたのではないか、と言ったのだ。
カミルバルトは宰相の意見に呆れ返った。
「いくらヘルザームとはいえ、そこまで愚かな判断をするものか? まだカメニツキーの騎士団を使い潰すために次の戦場が必要だった、などと言われた方が納得出来るぞ」
ヘルザーム伯爵にとって、カメニツキー伯爵の騎士団は邪魔である。
かといって、理由も無く粛清してしまえば今後の統治に差し障りが出る。
だったらミロスラフ王国に突撃させて、殺してもらえばあと腐れがなくて良い。
バカげた策としか言えないが、ヘルザーム伯爵が愚かなら、あるいは採用してもおかしくない策なのかもしれない。
「・・・いや。流石に無いな。どうやら俺も疲れが溜まっているようだ」
奪われた遺言状。
そして、賊を手引きしたのが親衛隊の隊長だったという事実。
カミルバルトは(※そして特務官のアダムも)この一週間程の間、寝る間も無く対応に追われていた。
「おそらく大して意味のある進軍ではないのだろう。周辺の領主達に対する示威行為。おおかたそんな所か。とはいえ、砦には援軍を出さねばならん。これは二千も送れば十分だろう」
「ま、まさかご自身で率いられるおつもりではありますまいな?!」
うろたえる宰相に対して、カミルバルトはかぶりを振ってみせた。
「本来であればそうしたい所だが、流石に今の王都から離れる訳にはいかん。俺が留守の間に”ネライの古狐”が何か企むやもしれんからな」
ネライの古狐とはネライ家の当主、ロマオ・ネライの事である。
ロマオは未だに屋敷に引きこもって動きが無い。何を考えているのか分からない不気味な沈黙を保っていた。
「大至急、兵を集めろ。指揮官はアダムでいいだろう。総指揮は砦の守備隊長に任せる。こんな時期に攻めてくるような部隊だ。大して戦略的な意味があるとも思えん。こちらが守りを固めていれば、攻めあぐねてそのうち領地に引き上げるだろう。相手の挑発に乗らないようにだけ注意しておけ」
カミルバルトの命令で、急遽兵士が集められる事になった。――が、その兵が砦に送られる事は無かった。
明けて翌日。
この国の東、「西のネライ、東のメルトルナ」と呼ばれる、この国の上士位筆頭、メルトルナ家当主、ブローリー・メルトルナが宣言したのである。
「カミルバルトの即位は王位の簒奪である!
今は亡き国王・ノルベルサンド陛下はこの日が来る事を恐れ、我がメルトルナ家とネライ家に対し、王を僭称する者を討伐するように、との勅諚を賜っていた! その勅諚はここにある!
心ある者達よ立て! 俺に続き、偽王カミルバルトを討つべし! これは亡き陛下のご意志である!」
ブローリーは宣言と共に、領境に軍を集結させた。
その数、三千。
そしてブローリーの宣言と合わせるように、西のネライ領でも軍が動き始めた。
こちらもその総数、三千。
更には、まだ王都には連絡が届いていないが、国の南、ヨナターン領トルスター砦に迫りつつある傭兵軍団。
その数、四千。
王都は四方向から、合計一万三千の軍によって取り囲まれようとしていたのである。
次回「クリミラのお願い」