その30 心躍る景色
レブロンの港町を離れて洋上に出た途端、ティトゥの妹クリミラが大きなため息をついた。
『はあ~。やっと人心地つけたわ』
彼女は床の匂いを嗅ぎまわっていたハヤブサを捕まえると、膝の上にのせて撫で回した。
『聖国の伯爵家当主に、あのラディスラヴァ様って。ティトゥ姉さん、自分がどんなお方達と話していたか自覚している?。伯爵様と、ラディスラヴァ様よ?』
クリミラはそう言うけど、伯爵ってティトゥの知り合いの中では、まだ普通な方だと思うけど?
ティトゥは聖国の王女達から「お姉様」とか呼ばれているし、チェルヌィフでは六大部族の当主の半分と顔見知りだからね。
そのうちの一人をドキドキ絶叫ツアーでリバースさせたお前が言うなって? サーセン。
そういえば、ベネセ家当主のマムスから預かっていた、紋章の入ったペーパーナイフはどうしたんだろう。
ネドマを倒した後にすぐ帰っちゃったので、借りパクしたままなんじゃないだろうか?
紛失しちゃうと問題がありそうだし、ちゃんと保管しているか後でティトゥに聞いておこうかな。
『大袈裟じゃないかしら?』
『何言ってるのよ! レブロンの港町を治めるご当主様よ?! ネライ家の当主だってきっとあの人達の前だと頭を上げられないと思うわ!』
ネライ家はミロスラフ王国では一番資本力を持つ貴族家だ。
とはいえ、そもそもミロスラフ王国の国力は、ランピーニ聖国のそれの足元にも及ばない。
だったら、ミロスラフ王国でのナンバーワンが聖国から見てどの程度のものか、自ずと察しが付くというものである。
『上士家トップのネライ家だってそうなんだから、小上士家のティトゥ姉さんなんて、ずっとずっと立場が下なのよ。姉さんだって今では当主なんだから、そのくらい分かるわよね?』
クリミラの指摘に、僕はハッと胸を突かれた思いがした。
なる程。その通りだ。
どうやら僕はいつの間にか思い違いをしていたらしい。
確かに僕達は不思議と国の偉い人達と知り合う機会が多かった。
ミロスラフ王国では、将ちゃんことカミル将軍、それと、元宰相のユリウスさん。
聖国では、マリエッタ王女、パロマ王女、ラミラ王女、それと宰相夫人のカサンドラさん。メイドのモニカさんも偉い貴族だったっけ。
帝国では・・・特にいないか。河賊退治で知り合った、何とか公爵家のお爺さんくらい?
チェルヌィフ王朝では、ええと、多すぎてちょっと困るかな。まあいいや。沢山で。
こういう数多くのお偉いさんと知り合ううちに、僕は僕とティトゥも偉くなったと錯覚していたようだ。
ティトゥは小国ミロスラフの小上士家の当主だし、僕は彼女の家のテントにお世話になっている無職の風来坊に過ぎない。
僕達の社会的な立場は彼らに比べて大きく劣っている。僕は彼らの好意に甘えている間に、いつの間にかその自覚を失くしていたようだ。
つまり「いい大人が勘違いして調子に乗っていた」のだ。
なんて恥ずかしいヤツだったんだ僕は。穴があったら入りたい。
・・・いや。まだ遅くはない。まだ致命的なミスはしていない。まだ何も問題は起きていない。これから気を付ければ大丈夫だ。きっと。
今日から反省して出直そう。明日からは謙虚に生きよう。
ただその前に、僕に大事な事を気付かせてくれた、ティトゥの妹にだけは感謝の言葉を伝えておきたい。
「ティトゥ。クリミラに伝えてくれないかな? 君のおかげで大事な事に気が付いたって。そして、僕の過ちを指摘してくれてありがとう、と。いつの間にか僕は、柄にもなく調子に乗って天狗になっていたみたいだ。けど、今はちゃんと自分の行いを客観的に振り返る事が出来た。今後は深く反省するとともに、二度とこのような間違いをしでかさないように、再発の防止を心掛けるよ。そう伝えてくれないかな?」
心から反省する僕を、ティトゥはジト目でねめつけた。
『・・・ハヤテ。あなたまた変な事を考えていますわね』
はあっ?! 変な事って何だよ!
僕は謙虚に、今まで思い上がっていた自分を反省しているんじゃないか。
君は根拠のない疑いで、僕の更生の機会を奪うつもりなのかい?
『何を考えているのかは知りませんが、クリミラに何か伝えたいなら、私に伝言を任せるのではなく、自分の言葉で直接クリミラに言うべきではないのかしら? それが誠意というモノじゃありませんの?』
うぐぅ。ご、ごもっとも。
君の正論が僕のハートにクリティカルヒットだよ。
僕と同様、勘違いして調子に乗ってるティトゥから言われたのが、どうにも納得出来ないところではあるけれど。
『? ハヤテが私に? 何の話かしら?』
クリミラは不思議そうな顔で僕を見ている。
いいでしょう。自分の言葉で彼女に伝えようではないですか。
届け、僕の思い。
『クリミラ』
『何? ハヤテ』
・・・・・・え~と。
『ゴメンナサイ』
『・・・ティトゥ姉さん。私、ハヤテから何か謝られるような事をされたのかしら?』
『こういう時のハヤテは放っておいてもいいんですわ』
僕から突然謝罪をされて戸惑うクリミラ。そしてティトゥは面倒臭そうにスッパリと切り捨てた。
憎い。自分の語彙力の無さが憎い・・・。
僕は久しぶりに本気でへこんでしまった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
(またハヤテは変な事を考えたみたいですわね)
ハヤテはクリミラの言葉で何を思い付いた――所までは別に良いのだが、なにやら妙な思考を経て、良く分からない結論にたどり着いたようだ。
何をどうすれば、ハヤテがクリミラに感謝したり謝ったりする事になるのか、ティトゥにはさっぱり分からなかった。
彼女にとって相変わらずハヤテの考えは謎だった。
(ハヤテはドラゴンなんだから、人間と考え方が違っても仕方がありませんわね)
ティトゥはこういう時にいつもそうするように、理解を諦める事にした。
昨年末の”新年戦争”でも分かる事だが、この世界で四式戦闘機『疾風』の能力はチート級と言ってもいいだろう。
ハヤテもそれ自体は分かっているが、その力を持つ自分は凡人に過ぎないとも考えている。
また、本人が内罰的(※自分に悪い原因があるとして、自分を責めがちな)な性格をしていることもあって、ここまで来ても、彼は自己評価を非常に低く見積もっていた。
しかし、ティトゥはそうではなかった。
彼女はドラゴンの力を十分に認めているし、ハヤテの精神も優しく高潔で叡智に溢れていると考えていた。・・・時々、呆れる事もあるが。
また、彼女は世間でのハヤテの評価が低い事に、不満を通り越して憤りすら感じていたし、ハヤテはもっとみんなに尊敬されるべきだとも考えていた。・・・時々、ハヤテももっとしっかりして欲しい、と苛立ちを覚える時もあるが。
そんなティトゥの心には、妹の言葉は全く届いていなかった。
むしろ「クリミラは分かっていない」としか思えなかった。
極端に言えば、ティトゥにとって聖国の伯爵は、「しょせんは世界中に沢山いる人間の、ちょっと偉い人」に過ぎなかった。
この世界には伯爵家の人間なんていくらでもいるし、王家だって国の数だけ存在している。
しかし、ハヤテはこの世界にたった一人しか存在しない。
ティトゥにとって、ハヤテはこの世界のナンバーワンであり、オンリーワンなのだ。
人間と比べる方がどうかしている。
自分はそんなハヤテが認めてくれたパートナーなのだ。
自分が権力者におもねってしまえば、パートナーであるハヤテをその権力者の下に見ていることになってしまう。
優しいハヤテは何も言わないだろうが、ドラゴンの高貴な魂は悲しみに傷付いてしまうだろう。
彼が許してくれても、彼を悲しませた自分をティトゥは絶対に許せない。
ハヤテはこんな自分をパートナーとして認めてくれた。
それは非常に光栄で価値のある事だ。
仮に世界がティトゥの敵になったとしても、きっとハヤテは最後まで味方になってくれるだろう。
それは自分だって同じだ。
それこそが竜 騎 士の絆。終生のパートナーなのである。
ハヤテの心に自分というパートナーがいるように、自分の心には――
「――ああ。そういう事だったんですわね」
「ティトゥ姉さん?」
『ティトゥ?』
そこまで考えた事で、唐突にティトゥは理解した。
ほんの些細なきっかけで、彼女は自分の拠り所に気付いたのだ。
「・・・なんだ。考えるまでも無かったんですわね。私は竜 騎 士。ハヤテのパートナー。こんな簡単な事を忘れてしまっていたんですわ」
そう。自分は貴族であるより前に、女であるより前に、ハヤテのパートナーだったのだ。
ハヤテがパートナーとして認めてくれた人間。それが自分という存在なのだ。
その事に気付いた瞬間、ティトゥはこの数日間、ずっと頭の中にかかっていた薄いモヤが取り払われたような気がした。
ティトゥは抜けるような青空が、光り輝く青い海が、目に鮮やかな色彩を取り戻した気がした。
唐突に目の前に開けた心踊る景色に、彼女の胸は高鳴った。
ああ。空を飛ぶというのはこんなに素晴らしい事だったのですわ!
ティトゥは改めて、空を飛ぶという喜びに新鮮な驚きを感じていた。
大地から、しがらみから、自分を縛るくびきから、あらゆる常識から解き放たれる、この圧倒的な解放感。
心が軽やかに弾み、今の自分達なら何でも出来そうに思える、心を満たす全能感。
それは彼女が初めてハヤテに乗って空を飛んだ時に、強く感じたあの思いだった。
思えば彼女はあの時の気持ちを何度でも味わいたくて、ハヤテの背に乗って飛ぶのかもしれない。
(しかし、いつしか私はハヤテと飛ぶのが当たり前になって、この気持ちまで忘れていたのですわ)
それは彼女だけにしか聞こえない、小さな呟きだった。
今、ティトゥはハッキリとあの時の気持ちを思い出していた。
追体験していた。
彼女はこの数日、ずっと自分を悩ませていた問題が今、この瞬間に解決した事を知った。
まどろみから覚めた時のような、重い荷物を下ろした時のような、そんな解放感に彼女は包まれていた。
うなりを上げるエンジン音は耳に心地良く、機体の振動はいつもにも増して力強く頼もしく感じられた。
ティトゥは湧き上がる解放感に白い頬を朱に染め、ハヤテとの一体感に心地良くその身をゆだねるのだった。
次回「月下の逢瀬」