その26 モルビデルの町の崩壊
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ミュッリュニエミ帝国の北東、ギャリック男爵領。
ギャリック男爵領は、そのほぼ全ての土地がピエルカ山脈に含まれている。
そのギャリック男爵領における、最大の町モルビデル。
男爵家のお膝元ともなるこの町は、強固な城壁と男爵家騎士団に守られた難攻不落の砦でもあった。
そのモルビデルの町に今、最後の時が訪れようとしていた。
「北側の城壁が崩されたぞ!」
「怪物が来る! みんな家に隠れるんだ!」
「入れてくれ! おい! 中にいるんだろう?!」
「子供だけでも! せめてこの子だけでもお願い!」
少しでも怪物の脅威から逃れようと、誰もが血相を変えて逃げ惑った。
町はパニックに陥っていた。
町の外に巨大な怪物が現れたのは一週間程前の事となる。
全長約100m。ムカデのような長い姿をしていた。
怪物は周辺の村を襲うと、人と言わず家畜と言わず、動く物全てをどん欲に貪り食った。
この人食いの怪物に、ギャリック男爵家の騎士団が兵を率いて討伐に向かった。
実は怪物の噂自体は、一月ほど前から囁かれていたのだ。
山頂近くから見た事もない巨大な怪物が現れた。怪物に襲われて、既にいくつもの村が消滅している。等々。
ギャリック騎士団は噂の怪物を討伐してやろうと、手ぐすねを引いて待ち構えていたのだ。
だが、その意気込みも虚しく、討伐軍の戦果は惨憺たるものに終わった。
人間の武器では、怪物を退治するどころか、足の一本を折る事すらかなわなかったのだ。
騎士団は仲間の死体が貪り食われている隙に、這う這うの体で町へと逃げ帰る事しか出来なかった。
間が悪い事に、つい先日、ギャリック男爵は隣国のチェルヌィフ王朝との戦に参加するため、自ら兵を率いて領地を留守にしたばかりだった。
そのため、町に残った兵の数はいつもの半分にも満たなかった。
もっとも、兵の数が今の十倍いたとしても、この結果に変わりは無かったかもしれないが・・・
怪物は邪魔者が消えたのを良い事に、我が物顔で町の周囲を荒らし回った。
逃げ遅れた村人が、そして街道を行く旅人達が、この時、怪物の犠牲になった。
人間達は、モルビデルの町の堅牢な城壁の中で息をひそめ、怪物が立ち去ってくれる事だけを祈った。
しかし、彼らの願いはかなわなかった。
今朝になって遂に、怪物はモルビデルの町へと襲い掛かって来たのだ。
この未曽有の危機に騎士団員達は最後の健闘を見せた。
彼らは怪物の攻撃に対し、城壁の上から投石や油壺を落とす事で対抗した。
油で濡れた怪物にはすぐさま火矢が射かけられた。
怪物の体に大きく火が燃え広がる。
さしもの怪物もこの攻撃には閉口したようである。
町から大きく後退した。
このまま町を襲うのを諦めてくれれば。
しかし、ここでも人々の希望はあっさりと打ち砕かれる事になる。
怪物は地面を掘り返し始めたのである。
怪物の背後にみるみるうちに残土が積み上げられ、小山を築いていく。
まるで重機のような掘削速度である。
「まさか、坑道戦か?!」
坑道戦とは、城壁の外からトンネルを掘り進め、地下から内部に攻め込む作戦である。
騎士団員達は慌てて城壁の上から矢を射かけたが、そんな攻撃では怪物をひるませる事すら出来ない。
先程、効果のあった火攻めも、この距離では油壺が届かないために不可能だ。
「ここは一か八か打って出るしかありません!」
「馬鹿! 今、門を開いてみろ! 怪物が町になだれ込んで来るぞ!」
彼らが手をこまねいている間にも、怪物のトンネル工事は着々と進んでいった。
「城壁が揺れている?!」
「逃げろ! 城壁の上から逃げるんだ!」
怪物のトンネルが城壁の下に達すると共に、壁の重みで地盤が沈下し、壁は大きな音を立てて崩れ落ちた。
しかし、禍福はコインの表と裏。
これだけの落石を浴びては、地下の怪物もただではすまないだろう。
あるいは、石に潰されて圧死したのではないだろうか?
周囲が固唾をのんで見守る中――
「ああっ・・・」
「くそっ! 化け物め!」
崩れ落ちた石を押しのけて、巨大な怪物が姿を現した。
どうやら怪物は地中深くに潜っていたため、落石によるダメージをほとんど受けなかったようだ。
こうなってしまえば、もはや打つ手はない。
彼らのたった一つの武器であり、身を守る鎧でもある城壁は、たった今あっけなく崩れ去ってしまった。
町の者達は絶望した。
これから始まるのは蹂躙の時間。
彼らの身を守っていたはずの城壁は、逆に今、彼らの逃げ道を塞ぐ檻となっていた。
この瞬間から、騎士が、商人が、町人が、難民が、男が、女が、子供が、年寄が――現在この町に残った全ての人間が、等しく”獲物”という名の哀れな生贄へと変わったのだ。
怪物は大手を振って町の大通りへとなだれ込んだ。
通りに面した大きな建物が、怪物の体がぶつかるだけで、まるでおもちゃのように潰される。
怪物は時折、無造作に建物の中に頭を突っ込むと、身を隠していた人間達を発見、捕食していく。
モルビデルの町は、今や怪物の巨大な餌場と化していた。
人々は少しでも生きながらえるため、他人を押しのけて我先へと逃げ惑った。
南の門には、町の外に逃げ場を求めた群衆が殺到していた。
「開けて! 門を開けて! 早く!」
「ダメだ! 開閉器が壊されている! どうやって直せばいいんだ?!」
「馬鹿野郎! 直している時間があるかよ! 怪物はもうそこまで来ているんだぞ!」
「だったらどうしろって言うんだ!」
怪物が北の城壁にトンネルを掘り始めた時から、町の代官は荷物を纏めて逃亡を開始していた。
彼は逃げる際、怪物の追跡を避けるために門の開閉器を破壊させていた。
卑劣な代官は町に閉じ込められた住人を怪物が貪り食っている間に、自分達だけは安全な場所まで逃げようと考えたのだ。
「どけ! 早く前に進めよ!」
「門が閉まっているんだよ! これ以上は逃げられねえ!」
「うわあああああん」
怒声を上げる住人。泣き叫ぶ子供。
しかし、彼らの叫び声は怪物を呼び寄せるだけだった。
やがて建物を薙ぎ倒しながら巨大な怪物が姿を現した。
「ひいいい! か、怪物だ! 怪物が来たぞ!」
「助けて! 誰か助けて!」
「どけ! どけって言ってんだろ! 死にたくねえ! 死にたくねえよ!」
「きゃあああああ!」
怪物の食欲は底無しなのだろうか? ここに来るまでに既に多くの人間をその腹に収めていたにもかかわらず、怪物の目は大量のご馳走を前にした欲望にギラギラと輝いていた。
もし、この場に冷静に怪物を観察している者がいたなら、その頭部に小さな赤い石が埋まっている事に気が付いたかもしれない。
いや。怪物のサイズに比べるから小さく見えるのであって、実際には石はサッカーボール程の大きさがあった。
ハヤテが捨てた欠片。”魔法生物の種”の欠片、その片割れであった。
そう。この怪物こそ、叡智の苔が観測したという西のネドマ。巨大化した虫型ネドマだったのだ。
そして今、ネドマの頭部の赤い石が不自然に瞬きを始めた。
強く。弱く。早く。遅く。
まるで誰かに呼びかけているように。あるいは何かを探しているように。
しかし、目の前の獲物に気を取られている巨大虫ネドマは、石の変化に気付かない。
そもそも虫には脳が無い。彼らは神経節と呼ばれる神経の塊で動いているのである。
乱暴に言えば、虫とはプログラムで動くロボットのような生き物なのだ。
この時、誰も気が付かない上空から、それは襲いかかった。
ヴーン!
耳をつんざくダイブ音に、流石の怪物も異常に気付いたのだろう。その場に足を止めると上空を振り返った。
そこに彼が見つけたのは全幅11.2mの大きな翼。
翼の下には二つの楕円形の塊を抱えている――と、その瞬間、その二つの塊は本体から切り離されると怪物目掛けて落下して来た。
黒い塊は狙い過たず、二発とも怪物の体に直撃した。
その瞬間――
ドド―――――ン!!
耳が痛くなる程の巨大な爆発音が辺りに響き渡った。
「「「「「うわああああああっ!!」」」」」
悲鳴を上げてひっくり返る住人達。
腰が抜けたのか、あたふたと路上で転がり回る者もいる。
「なっ?! か・・・怪物が」
彼らは驚きに目を見張った。
そこにさっきまで猛威を振るっていた巨大な怪物の姿はどこにも無かった。
辺り一面は異臭を放つ怪物の体液がぶちまけられ、すり鉢状に抉られた地面と、前半分が消し飛ばされ、半分になった怪物の残骸が残っているだけだった。
残骸は未だに神経が生きているのか、痙攣するように動いている。
これが本当に、自分達を襲おうとしていたあの怪物の成れの果てなのだろうか?
どんな力が働けば、このような光景が生まれるのだろうか。
あの圧倒的な怪物を、一瞬にして吹き飛ばす圧倒的な暴力。
町の住人達は自分達の理解を超えた光景に、目の前の現実が受け入れられずにいた。
彼らが魂が抜かれたように見守る中、空を舞う大きな翼が、怪物が整地した町の大通りへと舞い降りた。
緑の翼の背中の透明な楕円形の覆いが開く。
すると中から見慣れない服を着たピンクの髪の美少女が現れた。
少女は翼の背からヒラリと降り立つと、迷いなく怪物の残骸に向かい、何かを拾い上げた。
キラリと光るそれは赤い石に見えた。
少女は再び緑の翼に戻ると、その背中へ乗り込んだ。
少女を乗せた翼は大きなうなり声を上げ、そのまま空へと飛び去って行った。
それはどこか現実感の無い、幻想的と言ってもいい光景だった。
今の出来事は一体何だったのだろうか?
住人達がようやく我に返ったのは、翼が大空の彼方へと消えてしばらく経ってからの事であった。
次回「巨大謎虫ネドマ」