その10 ヤロヴィナの勇気
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ここは水運商ギルドの支店。その支店長室で、三十歳前後の長身の男が顔を真っ赤にして部下に怒鳴り散らしていた。
「バカな! 港の完全封鎖だと?! ルボルト様は何を考えているんだ!」
彼は支部長のデミシャン。
今日は彼にとって最悪な日となっていた。
立て続けにもたらされた巨大オウムガイネドマによる商船の被害。
三隻も外洋船を沈められただけでも悲鳴を上げたい所だというのに、ここで港の完全封鎖である。
正に、泣きっ面にハチとはこの事だ。
収益の大半を貿易で稼ぐ水運商ギルドにとって、港の封鎖は死活問題であった。
ちなみに沈んだ三隻の船は全て水運商ギルドの持ち船である。
というよりも、現在港に浮かんでいる大型船は、ほぼ水運商ギルドが所有している。
高価な外洋船は、個人商会程度ではとてもではないが手が出ないのだ。
仮に入手したとしても、船は維持するだけでもコストがかかる。
その上、もし今回のように沈んでしまえば、船だけでなく積み荷の全てを失うばかりか、早急に次の船まで建造しなければならなくなる。
生半可な商会なら、この時点で金庫の中身は全て吹き飛んでしまっているだろう。
つまり水運商ギルドは自らが貿易を手掛けるだけでなく、持ち船を商会にレンタルして、そのレンタル料と保険料を取ることでも収益を上げているのだ。
「バカな! バカな! バカな! 三隻だぞ! 三隻の外洋船が沈んだだけでも大損だというのに、港の閉鎖? 冗談じゃない! 港の使用料だけでも一日一体いくらかかる事か!」
港は町の所有者であるサルート家の持ち物である。係留するだけで一日いくらという使用料が発生する。
勿論、このような不測の事態である以上、交渉次第ではサルート家は使用料の請求をしないかもしれない。
しかし、無能なデミシャンにとって、交渉とは下の相手が申し込んで来るものであって、ギルドの利益のために率先して自らが出向くという発想すら無かった。
つまり、デミシャンは誰かに言われなければ仕事が出来ない男であり、言われても自分では出来ない男だったのだ。
彼は部下に当たり散らすばかりで、この一日、何一つ有意義な行動を取れずにいた。
そんな最悪な状況の中、眼鏡少女ヤロヴィナは命じられていた報告のために、ギルド支部へと訪れたのだった。
ヤロヴィナがギルド支部に到着した時、ギルド支部の周囲は異様な雰囲気に包まれていた。
建物の周囲には、中に入り切れない商人達が佇んでいる。
港の閉鎖に伴い、補償を求める商人達が一斉にギルドに押し寄せたのだ。
ヤロヴィナは不穏な空気に怯えながら、従業員用の裏口から建物の中に入った。
彼女は支部長の部屋に入った途端、支部長デミシャンに頭ごなしに怒鳴り付けられた。
「この能無しが! お前は今まで何を見ていたんだ!」
デミシャンは額に青筋を浮かべてヤロヴィナをなじった。
「俺は竜 騎 士をちゃんと見張っていろと命じたはずだ! なのに何だ! 船を三隻も沈められやがって! 三隻だぞ! 三隻! しかも全てが聖国で作られた外洋船だ! これが一体どれだけの損害になるかお前に分かるか?! それに突然の港の閉鎖だ! 俺が何のためにお前をヤツらの所に向かわせたと思っているんだ?! お前は何をしていたんだ! この役立たずめ!」
唾をまき散らしてヤロヴィナに当たり散らすデミシャン。
何をしていたも何も、ヤロヴィナが命じられていたのはハヤテ達の情報を報告するだけであって、情報の判断はデミシャンが自分でやると言ったのだが。
それに、「お前を向かわせた」と、さも自分が手配したかのように言っているが、ヤロヴィナはジャネタに命じられてハヤテ達の案内をしていたのであって、デミシャンの命令で向かった訳ではない。
そもそもヤロヴィナは本部の職員であって、デミシャンの部下でも何でもない。
本来であれば、彼にはヤロヴィナに対して命令権はないのである。
大体、船を沈められたのはハヤテ達のせいでもなければヤロヴィナのせいでもない。巨大オウムガイネドマのしでかした事だ。
それをまるで、ヤロヴィナがちゃんと見張っていなかったせいであるかのように言うのは、理屈としておかしいだろう。
しかし、ヤロヴィナは頭の中が真っ白になって言い訳一つ言えなかった。
地元の町ではそこそこ名の知れた商会の娘に生まれたヤロヴィナは、どちらかと言えばお嬢様育ちで、このように男に頭ごなしに怒鳴られた経験などほとんどなかったからである。
性格的にも大人しいヤロヴィナは、この状況に完全に委縮してしまった。
こうして彼女は自分が何一つ悪いわけでもないのに、理不尽を押し付けられてしまったのだ。
恐怖に怯え、顔色を真っ青に染めるヤロヴィナ。しかし、そんな彼女にも次の一言だけは聞き逃せなかった。
「全く! 何が竜 騎 士だ! 見掛け倒しの腰抜けが! 怪物に手も足も出ないくせに大袈裟な名前を名乗りやがって!」
「! それは違います!」
部屋に沈黙が落ちた。
デミシャンは何を言われたのか分からずにキョトンとしている。
ついさっきまで、目の前の少女は、文句も言わない叩き放題のサンドバッグだった。
まさかそんな存在が自分に口答え――いや、反抗するとは。
デミシャンはカッと頭に血が上った。
そして当のヤロヴィナも、自分の言葉に自分で驚いていた。
しかし、彼女は黙っていられなかったのだ。
この五日間、彼女は毎日ティトゥ達と長い時間を共に過ごして来た。
ハヤテは、ギルド本部のあるバンディータの町からこのデンプションの港町までひとっ飛びする程の、冗談のような能力の持ち主だ。
しかし本人の性格は、――異種族であるドラゴンにこういった感想を持つのもどうかと思うが――どこか庶民的で親しみやすいものである。
ハヤテのパートナーのティトゥは、貴族でありながら平民のヤロヴィナ相手に全く偉ぶらない、優しさとお人好し、そして凛とした美しさを併せ持つ、ある意味ヤロヴィナの理想のような女性だった。
真面目なメイド少女カーチャも含め、彼らは全員裏表のない、付き合っていて胸のすくような気持ちのいい人間の集まりだったのだ。
そして今日。ヤロヴィナはハヤテ達が、怪物ネドマの被害を食い止めようと努力しているのも見たし、彼らが目の前で出した犠牲者に心を痛めている姿も見て来た。
ヤロヴィナは、自分に対する誹謗中傷なら我慢が出来る。
自分が若干、人よりも要領が悪く、どんくさい事を自覚しているからだ。
しかし、竜 騎 士達の努力を、戦いを、心の痛みを、ののしられる事は――ましてや、自分はこんな場所でふんぞり返って何もせず、人に文句ばかりをつける人間にけなされる事だけは――どうしても我慢出来なかったのだ。
「竜 騎 士はそんな人達じゃありません!
私は本部の事務員です! だから本当ならこの町には関係ありません! でも、あの人達は町どころか、この国に縁もゆかりも無い他国の人なんですよ! なのに、なのに、この町のために一生懸命頑張ってくれているんですよ!
あの人達は、代官様に呼ばれてお屋敷までネドマ退治の会議のために行っています!
今、この時もネドマと戦っているんです!
それなのに、あなたはあの人達を助けも感謝もせずに、文句ばかりを言うんですか?!」
「な、何だと! お前は俺をバカにするのか?!」
顔を真っ赤にして激昂するデミシャン。
しかしヤロヴィナは、もう目の前の男を恐れていなかった。
恐れも吹き飛ばす強い感情が彼女を突き動かしていたからである。
「竜 騎 士は怪物を相手に戦ってくれています! そしてあなただけじゃありません! 私だって何一つあの人達の力になれていません! でも、そんなの絶対におかしいんです!
私はあの人達の力になりたい!
この町は、この国は、本当ならここに住む私達全員が守らなきゃいけないんです! なのにあなたは――」
「黙れ!」
「きゃっ!」
ガシャン!
デミシャンは机の上を乱暴に薙ぎ払った。大きな音を立てて大小様々な小物が床にぶちまけられる。
彼は机の引き出しを開けると、適当な重さの小箱を取り上げ、生意気な小娘に投げつけようと振り上げた。
しかし、そこで彼の動きは凍り付いたように止まってしまった。
「――お前達。何だその目は」
怯えるデミシャンの視線の先では、ヤロヴィナを守るように何人ものギルド職員が立ちはだかり、無言で彼を見つめていたのだった。
どうやら彼らは、ずっと部屋の外で中の様子を伺っていたようだ。
いつの間にか開いていたドアの外、建物の廊下には支部のほぼ全職員達が集まり、この状況を見守っていた。
突然の事態に付いて行けずにキョトンとするヤロヴィナ。
そんな彼女に一人の男性職員が振り返った。
ヤロヴィナは彼の顔に見覚えがあった。この支部の副支部長のオミールだ。
「君の言葉に目が覚めたよ。恥ずかしながら俺も我が身可愛さのあまり、保身に走っていたようだ」
彼は元々はジャネタの薫陶を受けた優秀なギルド職員だった。
しかし、昨年末に子供が生まれたばかりだった事もあり、支部内での立場を失うのを恐れ、ギルド長ドッズの肝いりでやって来た支部長に何も言えずにいたのだ。
「みんなこのままじゃいけない事くらい分かっていた。けど、最初の一歩を踏み出す勇気が無かったんだ。君の勇気が俺達に力をくれたんだ」
「勇気なんて、私、そんなつもりじゃ・・・」
日頃、縁のない賞賛に、しどろもどろになるヤロヴィナ。
副支部長オミールは彼の上司――デミシャンへと向き直った。
「支部長。そろそろ準備はよろしいでしょうか?」
「準備? 何のだ?」
周囲の不穏な雰囲気に、不安げに視線を泳がせるデミシャン。
「無論、商人への説明会ですよ。港が封鎖されたんですよ。事情の説明、補償の説明、港の使用料について、倉庫の使用料について、保険の適用とその申し込み、ギルドの代表として集まった商人達に説明して頂かないと」
「なっ・・・?!」
オミールの言葉にデミシャンは絶句してしまった。
彼は慌てて叫んだ。
「そ、そんな事はお前達の仕事だろうが!」
「いつもであればそうします。しかし、今は非常時です。支部長自らが陣頭に立って責任を取って頂かないと。我々はともかく、損害を被った商人達は納得してくれないでしょう」
非常時に責任者が出てこなければ収まりが付かないのは、どこの世界でも変わりはない。
責任者は責任を取るための役職なのだからそれも当然だ。
今までデミシャンは全ての責任や面倒ごとを部下に押し付け、のうのうとうまい汁だけをすすって来た。
そんな彼に、このデンプションの港町始まって以来の未曾有の危機に、立ち向かえる器量も能力もあるはずは無かった。
デミシャンは助けを求めて――あるいは貧乏くじを押し付ける相手を探して――周囲を見回した。
しかし、彼のわずかばかりの希望は、職員達の冷めた目よって遮られた。
ここに至って、彼は自分がこの場で完全に孤立している事を悟った。
デミシャンは不安と心細さ、思うようにいかない現実に歯噛みした。
最も、そんな感情すらもジャネタ辺りに言わせれば、「貴族だろうが商会だろうが、組織のトップに立つ者が孤独なのは当たり前さね」と、鼻で笑われる事になるのだろうが。
「・・・お、俺は体の調子が悪い。しばらくは自宅で療養するから誰も呼びに来るな。後の事は全てお前達に任せる」
デミシャンはそれだけ言うと、全てを放り出し、そそくさと支部長室を去って行った。
とても大手ギルドの支部長とは思えない、子供のような無責任な態度だった。
背中を丸めた支部長の姿が建物の外に消えると、白けた空気が辺りに漂った。
誰かがポツリとこぼした。
「あれで支部長なんだからな。ギルドの人事はどうなっているんだか」
乾いた笑いが広がる中、副支部長オミールはヤロヴィナに振り返った。
「あんな支部長からでも後を任された以上、俺達は俺達の出来る事をしないとな。ヤロヴィナだったか、君も俺達を手伝ってくれるかな?」
「も、もちろんでひゅ、ですっ!」
最後にしまらないヤロヴィナだった。
こうして水運商ギルド支部は、有能な副支部長の指揮の下に、本格的に事態の対応へと乗り出す事になる。
デンプション最大のギルドの協力は、ハヤテ達にとっても頼もしい力となるのだった。
次回「釣り作戦」