その21 兵は拙速を尊ぶ
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ここはバンディータの町の水運商ギルド本部。
数多い応接間の一室で、ジャネタは部下から現在の本部に関する報告を受けていた。
「何とも情けないもんだね。これで帆装派最大手ギルドだってんだからね」
「ええ。本部はもうガタガタです。商人からの苦情を処理する事すらままならない様子です」
呆れ顔でため息を吐くジャネタ。
水運商ギルドの本部の惨状は彼女の想像以上だったようだ。
原因はギルド長ドッズの不在。そして彼に代わる人間の不在。
ドッズが自分の派閥の部下を要職に据えるためにやたらと部署を増やした弊害で、責任の所在が曖昧になり、組織は動脈硬化を起こしていた。
普段の業務ならそれでも問題が無かったが、今は非常事態。
彼らはなすすべなく右往左往するだけの烏合の衆でしかなかった。
本部で今、一番問題になっているのがバルム家の岩塩販売の停止である。
とはいえこの問題は、ハヤテ達がリリエラの塩湖の跡地を発見した事で、とっくに解決している。
しかし、本部にはその情報すら届いていないのだ。
いや、実は情報自体は届いているのだが、どこかの部署で止まったままになっていた。
正しい情報が正しく届けられていても、それを処理すべき本部が機能不全に陥っているのでは、届いていないのとなんら変わりはない。
これでは、ジャネタが呆れるのも無理はないだろう。
「これはデンプションまで行っている場合じゃないかもね」
「・・・やりますか?」
ジャネタの部下の瞳の奥が光った。
彼はジャネタの子飼いの部下だ。ジャネタはいずれ来る本部長との争いに備えて、チェクレチュニカのギルド支部に自分の部下を集めていた。
現在彼らは”塩切手”で儲けた莫大な資金を持って各地に散っている。
全ては来るべきクーデターに備えて。各所への根回しのためである。
「今なら十分に行けると思いますよ。というよりも、反対する者は誰もいないと思います」
「話を聞く限りはそうだろうね。問題は事態が収まった後だよ」
今はいわば非常事態。敵対勢力も今を生き延びるためにジャネタをリーダーとする事に反対はしないだろう。
こんな状況でトップに立つのは、貧乏くじ以外の何物でもないからだ。
しかし、事態が無事に収まれば話は別だ。
彼らは助けてやった恩も忘れて手のひらを返すに決まっている。
人間はそれほど恥知らずで欲が深い。ジャネタはその事を良く分かっていた。
そうなる前に、こちらとしては先手を打つ必要がある。
しかし、あまり露骨にその態度を見せれば、本来敵対する事の無い相手まで敵に回す危険がある。
締め付け具合と飴と鞭。
出来ればもう少し根回しのための時間が欲しい所だった。
「――いや。ここは攻め時だね。決めた。やるよ」
「! 分かりました」
ジャネタはここが好機だと踏んだ。
こちらの準備は万端ではないが、時間をかけていてはチャンスを逃す危険がある。
兵は拙速を尊ぶ。
準備を万全に整えるよりも、多少の不足があっても、素早く行動に移した方が良い時もあるのだ。
やると決めた彼らの行動は素早かった。
二人はイスを蹴るように立ち上がると――
「おや。アンタまだそんな所にいたのかい?」
「・・・・・・」
そこには体を小さくして可能な限り存在を消している少女の――逃げるタイミングを失くしてこの部屋で縮こまっていたギルド事務員ヤロヴィナの――姿があった。
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ジャネタお婆ちゃんが、さっきの事務員の女の子――ええと、ヤロヴィナだったかな。彼女を連れてやって来た。
『ナカジマ様、申し訳ございません。アタシはギルド本部の方に用事が出来てしまいました。ですので、デンプションには代わりにこの娘を連れて行って下さい。指示はちゃんと与えていますから全く問題はありません』
『よ、よろひく、よろしくお願いしましゅ、します!』
緊張して哀れなほど噛み噛みの少女に、頼りなさそうな目を向けるティトゥ。
とはいえジャネタお婆ちゃんに用事が出来たのでは仕方ない。
そもそも今回はただの調査で、元々ジャネタお婆ちゃんには、現地の知り合いの口利きをお願いするだけのつもりだったのだ。
この子がその仕事を代わりにやってくれるのなら、別に問題はないだろう。
『ま、任せて下さい! この通り、ちゃんとメモは取ってますから!』
ヤロヴィナはメモ魔なんだろうか? 妙に分厚い端切れの束を掲げて見せた。
そんな彼女にティトゥとカーチャは若干眉をひそめた。どうしたの?
二人の様子がおかしい事に気が付いたのだろう。
ヤロヴィナはハッとすると、慌ててコメツキバッタのようにペコペコと頭を下げた。
『す、すみません! 私、目付きが悪くて! 視力が低いのでどうしても睨むみたいになっちゃうんです! ごめんなさい!』
半べそになって謝るヤロヴィナ。
どうやらヤロヴィナは目が悪いため、物を見る時に睨み付けたようになるらしい。
さっきたまたま手元のメモに目を落とした時の目が、ティトゥ達には睨まれたように見えたようだ。
今にも泣き出しそうなヤロヴィナに、ティトゥは小さくため息を吐いた。
『少しそこで待ってなさい』
ティトゥはヒラリと僕の操縦席に戻ると、フットペダルの奥の空間に隠している彼女の私物箱を取り出した。
箱の中には、僕の落とした薬莢やら、雑多な小物やらが収められている。
これは言ってみればティトゥの宝物箱なのだ。
前々から、僕がアイデアを出してコノ村で作ってもらった小物なんかが出来ると、ティトゥはそれを嬉しそうに集めていた。
ところがある日、たまたまそれらのコレクションが口うるさいユリウスさんに見付かってしまい、ティトゥは大分お説教を食らってしまった。
それ以来、彼女はこうして僕の操縦席に隠すようになったのだ。
ユリウスさんは僕を苦手にしているので、絶対に操縦席には入らないからね。
ティトゥは私物箱の中から金属の枠の付いた二つの丸いガラス――眼鏡を取り出した。
これは老眼をぼやいていたユリウスさんのために、僕がアイデアを出して作ってもらったものだ。
いくつか作った試作品の一つをティトゥがコッソリ手に入れたものである。
要は老眼鏡なのだが、左右のレンズの間のブリッジだけがあって、使用する時には鼻に乗せるタイプのヤツだ。
ティトゥが手に入れたのは、レンズの両脇のリムにテンプルが付いている、普通の眼鏡タイプになる。
顔にかける使い方は馴染めないと言われて没になったのだが、何故かこの形がティトゥの琴線に触れたらしい。
ちなみに老眼鏡自体はユリウスさんに非常に好評だった。
これをきっかけに、ユリウスさんが少しは僕に親しみを覚えてくれたのなら嬉しいんだけどなあ。
ティトゥは箱を元の場所に戻すと、眼鏡を手にヒラリと操縦席から降りた。
『これを貸して差し上げますわ』
『そ、そんな! 私なんかのためにもったいない! ・・・ええと、これって何ですか?』
反射的に断ったものの、ティトゥの差し出す不思議な小物に眉間に皺を寄せるヤロヴィナ。
そうしないと良く見えないようだ。確かに睨んでいるみたいに見えるね。
『こうやって鼻の上に乗せるんですわ。ホラどうぞ』
『こうですか? うっ、グワンとします。ああっ!! 何ですかコレ!!』
ヤロヴィナはティトゥのマネをして眼鏡をかけると、ギョッと目を見開いた。
『物が大きく見えます! それにハッキリと! いえ、遠いものはぼやけてますが。でもスゴイ! 近くの物がハッキリ見えます! スゴイ! スゴイ!』
ヤロヴィナは興奮に顔を真っ赤にしてあちこち見回している。
彼女のかけた眼鏡に商売の匂いを嗅ぎつけたらしく、ジャネタお婆ちゃんは見るからにソワソワと落ち着かない。
『スゴイ! 私の書いた文字がこんなにハッキリ! ナカジマ様、ありがとうございます! こんな素晴らしい物を! 本当にありがとうございます!』
ハードコアなロックバンドのようにブンブンとヘッドバンギング、じゃなくて、お辞儀を繰り返すヤロヴィナ。
その頬にポロリと大粒の涙が流れた。
『物がハッキリ見える事がこんなに嬉しいなんて私、初めて知りました。グスッ・・・ なんだか物が違って見えて・・・ 色まで鮮やかになった気がして・・・ みんなこんな風に見ているんだって思うと私・・・ 私・・・ グスッ・・・グスッ・・・ うわあああああん! 私、嬉しい、嬉しいよお~! うわああああん!』
余程感極まったのか、ヤロヴィナはとうとう大声で泣き始めた。
事情は分からないなりに、雰囲気にのまれてもらい泣きをするカーチャ。
ティトゥは途中まで、『いえ、差し上げた訳じゃないんですのよ』とか、『あの、貸してあげただけですからね』とか言っていたが、今は諦めたように天を仰いでいる。
そんなティトゥにジャネタお婆ちゃんは揉み手をしながら、『それであの、そちらの道具は他にはないんでしょうか? よろしければアタシにも見せて頂きたいんですが』などとすり寄っている。
うん。中々にカオスな状況だ。関わらないでおこう。
僕はティトゥの助けを求める視線に、あえて気付かないふりをするのであった。
次回「港町デンプション」