その7 蜜月の時間は終わった
◇◇◇◇◇◇◇◇
チェルヌィフ王朝の王都ザトモヴァー。
深夜。王城の裏を息を潜めて走る男達の姿があった。
彼らの人数は六人。全員が音の出ないように装備に布を噛ましてある。
僅かな月明かりで暗い城内を危なげなく走っている所からも、彼らが良く訓練された諜者である事が分かる。
彼らが目指しているのは王城の裏にある大きな丘。
極限られた者以外の立ち入りを禁じられている禁足地に作られた、聖域と呼ばれる区域。
一般には王家の霊廟と思われているこの区域の本当の目的を知る者は少ない。
そう。この聖域こそ正にチェルヌィフ王朝の秘中の秘。
叡智の苔の住む施設が存在している場所なのだ。
そして聖域を目指す謎の男達。
彼らはミュッリュニエミ帝国の非合法部隊の者達である。
その目的はただ一つ。叡智の苔の誘拐。もしくは殺害にあった。
小叡智の誘拐を目論んでいた帝国非合法部隊。
だが、マムス・ベネセの厳しい監視にあって今までその動きは制限されていた。
当代の小叡智の姉弟、カルーラ・カズダとキルリア・カズダの二人は、今は王城を逃れて実家のある砂漠の町ステージに身を寄せている。
監視の目をかいくぐって、極秘裏に敵国の中を砂漠まで手を伸ばす事は、いくら凄腕の非合法部隊をもってしても不可能だ。
彼らの協力者であるこの国の大臣イグノス・ヒゴは、この件ではあまり役に立たない。
非合法部隊は動きを封じられたまま、ジッと機会を窺うしかなかった。
やがて彼らの待ち望んだチャンスがやって来た。
少年当主イムルフ・サルートを旗頭とする四部族連合。彼らが兵を挙げてこの王都を目指して進軍して来たのである。
その数なんと7万。
ベネセ家当主エマヌエルは、弟マムスにヴルペルブカ砦の防衛を命じた。
マムスは出兵し、王城には最低限の守備兵しか残されなかった。
監視の目が弛んだ帝国軍非合法部隊は今夜、遂に行動を開始したのだ。
帝国軍兵器開発部が望んでいるのは小叡智キルリアの身柄。代替として姉のカルーラでも良しとされていた。
更に次善の目標として、叡智の苔の名も上がっている。
帝国は、叡智の苔本人よりも、彼の言葉を伝える小叡智の方を重視しているのだ。
これは以前、帝国で天才錬金術師と呼ばれた、先代の小叡智の成功例を考慮しての事であろう。
そもそも小叡智がいなければ言葉が通じないのでは、叡智の苔がいてもさほど意味はない。
小叡智の誘拐。
とはいえ、実のところ帝国軍首脳部はそれほど小叡智の知識を重視してはいない。
先代小叡智が帝国に残した知識も、さほど有用な物では無かったからだ。
どちらかと言えば、今回の作戦はチェルヌィフ王朝に与える心理的なダメージを期待する側面の方が強い。
少なくとも軍首脳はそう考えている。
そのため彼らは、身柄の確保が困難であれば殺害するように命じられていた。
男達は音も無く城内を駆け抜けた。
目の前には大きな丘が見える。聖域だ。
事前の調査通り、監視の詰め所などはないようだ。
そもそも対外的にはここは王家の陵墓だとされている。
周囲に張り巡らされた堀と柵。それと衛兵の巡回で警備としては十分なのだろう。
男達は堀を飛び越えると、そのまま柵に飛びついた。
まるでトップアスリート並みの身体能力である。
古びた柵は風化して凹凸も多く、彼らは容易く2mほどの障害物をよじ登った。
全員が柵の向こうに飛び降りたその時。
「そこまでだ」
男の声と共に一斉にかがり火が灯された。
柵の周囲はかがり火に煌々と照らされている。
何十人もの守備隊が帝国人をぐるりと取り囲む中、四十がらみの男が不快な表情を隠そうともせず仁王立ちになっていた。
「とうとう尻尾を見せたか、帝国の犬共が。弟がいなくなって監視が弛んだとでも思ったか? 馬鹿が。この俺がお前達から目を離すはずがないだろうが」
今にも地面に唾を吐きかけそうな顔のこの男こそ、ベネセ家当主エマヌエル。
若い頃から何度も戦場や交渉の場で帝国と渡り合い、帝国の卑怯さと汚さをイヤと言う程思い知っている彼が、城内の帝国人を自由にさせるはずが無かったのだ。
連絡の隊員が彼の下に駆け寄った。
「柵の向こうには誰もいません! ここにいる帝国人が全てと思われます!」
エマヌエルは無言で頷いた。
「全員殺せ。コイツらは捕らえてもどうせ何も話さん」
隊員達は槍を構えると一斉に距離を詰めた。
翌朝。いつものように執務を執り行っているエマヌエルの下に、大臣イグノス・ヒゴが血相を変えて飛び込んで来た。
「ベネセ殿! 一体何をされたのですか?!」
エマヌエルは書類から顔を上げると胡乱な目で大臣を見つめた。
「何を、とは何だ?」
「とぼけないで頂きたい! 帝国の客人の宿舎に守備隊を差し向けたのはあなたではないですか!」
昨夜、聖域を目指した非合法部隊を排除したエマヌエルは、彼らの宿舎を押さえるように守備隊に命じていたのだ。
だが、仲間の失敗を悟った帝国人達は既に行方をくらませていた。
守備隊は宿舎に残された品を押収。今は彼らの目的と潜伏先を調査している最中であった。
「昨夜、ヤツらのうちの何人かが無断で禁足地の柵を越えた。守備隊は調査のために向かわせただけだ。後ろめたい事が無いならば、この場に出頭して申し開きをすればいい。だがヤツらはコソコソと行方をくらませた。俺の方こそヤツらの目的を知りたいところだ」
「なっ・・・それは本当ですか?!」
どうやら帝国人は自分達の行動を大臣にも告げていなかったようだ。
明らかに顔色を変える大臣に、エマヌエルは興味を失ってしまったらしい。
無言で目の前の書類に視線を戻した。
エマヌエルのこの態度は大臣のプライドを傷付けた。
彼は怒りに顔を赤くすると吐き捨てるように言った。
「たかが禁足地に足を踏み入れたぐらいがどうだと言うのです! 帝国が望むなら叡智の苔の秘密も明け渡してしまえばいい! たかが苔むした岩の塊だ! あんなものを守って帝国との関係が悪くなるなら、むしろ彼らにくれてやればいいんです!」
エマヌエルの部下がハッと息をのんだ。
部屋の空気がピンと張り詰めた。
呼吸をするのもはばかられる緊張感の中、エマヌエルがゆっくりと顔を上げた。
その目は目の前の存在を”物”としてしか見ていなかった。
圧力すら伴う”人殺しの目”。
大臣は虎の尾を踏んでしまったのだ。
本物の殺意は感情を伴わない。ただ静かに重い。
目の前の男は麦穂を刈り取るように、自分の命を刈り取るだろう。
大臣は死神の鎌が自分の首筋に当たる冷たい感触を確かに感じた。
エマヌエルはまるで死刑執行を告げるように、静かに言った。
「お前はどこの国の大臣だ?」
絶対に答えを間違えてはいけない質問に、大臣は青ざめながら答えた。
「無論、この国の――チェルヌィフ王朝の大臣です」
エマヌエルはジッと大臣の目を見つめた。
大臣は腰から力が抜け、足元がフワフワと覚束なくなった。
エマヌエルは一言一言を言い聞かせるようにゆっくりと話した。
「もう一度俺に今の質問をさせるな。分かったな?」
ゴクリ。
緊張に大臣の喉が鳴ったが、カラカラに乾いた口内には一滴の唾液も残っていなかった。
大臣が這う這うの体で部屋を後にすると、エマヌエルの部下が彼に尋ねた。
「よろしかったので?」
エマヌエルはため息を吐くと目頭を揉んだ。
「言うな。俺も昨夜からの騒ぎで気が立っていたのだ。それにしても言うに事を欠いて、帝国に叡智の苔をくれてやれだと?」
叡智の苔の存在はこの国の秘中の秘。
エマヌエルはどんな事があっても帝国に渡すつもりは無かった。
むしろ敵に利用されるぐらいなら、いっそのこと・・・いや、それにはまだ早いか。
「大臣の見張りを強化しろ。あるいは逃亡中の帝国人共と連絡を取るかもしれん」
「はっ」
だが、非合法部隊はこれ以上、大臣の協力を必要としていなかった。
帝国はこの時点で既に数多くの工作員を、この王都に潜伏させていたのだ。
この騒ぎから二日後。
王都のあちこちで火災が発生する。
それは帝国非合法部隊による破壊工作だった。
この混乱に乗じて彼らは再び聖域への侵入を試みた。
結果として彼らの行動は、全てを読み切ったエマヌエルによって防がれるのだが、この時の争いが思わぬ結果を招く事になる。
混乱の中でエマヌエルが非合法部隊の凶刃に倒れてしまったのだ。
ベネセ家当主死す。
訃報は王都を震撼させた。
次回「王都からの使者」