その6 X-DAY
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その日は穏やかな良い空模様だった。
連日続いた晴天に、今日もいつもと同じ毎日が繰り返される。
そんな予感を感じさせる一日の始まりだった。
それがまさかこんな地獄の始まりになろうとは。
バルム領の者達は想像すらしていなかった。
塩切手の新たな値段が公開された途端、商人達の絶叫が響き渡った。
「売値が急落しているだって?! 一体どうしてだ?!」
「馬鹿な! 昨日まであんなに高値を付けていたのに!」
「大量の売り注文があった?! そんな! 一体誰が?!」
「どけ! どいてくれ! 俺は借金をして塩切手につぎ込んでいるんだ! 明日までに現金に換えられないと店を抵当に取られちまう!」
塩切手相場の暴落。
その原因は言うまでも無くジャネタの”売り抜け”にあった。
彼女の所有する塩切手は全体量の約65%にも達していた。
それだけの塩切手が全て売りに出されたのだ。市場に与えた影響は計り知れなかった。
最高52.6倍を付けた価格は、この時点でほぼ元値近くにまで下がっていた。
販売所は阿鼻叫喚の地獄絵図となった。
当然だ。連日の塩切手の高騰に、誰もが限界まで資金を投入していたのだ。
この日の事を織り込んでいたジャネタは、職員の安全のため販売所に多数の警備の者達を雇っていたが、暴動寸前の商人達に彼らの顔は緊張と恐怖に一様に青ざめた。
警備の一人は後日、友人にこうこぼした。
「俺もこの仕事で一度ならず命のかかった現場にも遭遇したが、あの時程身の危険を感じた事は無かったぜ。何せこっちはたった数人。相手は部屋にビッシリと何十人もいるんだぜ。しかもそいつらが全員まともな精神状態じゃないってんだ。目は血走っているわ叫ぶわ暴れるわで、いやはや、まともじゃないヤツらを相手にするのが、あんなに恐ろしいとは知らなかった。あんな経験は金輪際二度とゴメンだぜ」
実際、身の危険を感じた職員達は午前中で販売所を停止し、全員支店の建物から退避している。
午後になってから代官の要請で販売を再開したが、多くの売り注文が殺到した事で販売所は混乱。
やはり半時(約一時間)もしないうちに販売を停止している。
売り注文の多くは塩切手バブルに乗った一般商人達だった。
彼らは塩切手があっても――岩塩を手に入れても、倉庫も販売する術も無い個人投資家だったからだ。
この売り注文によって市場は下げ止まりに歯止めが利かなくなった。
突然の大暴落に誰もが顔色を失い、正気を保つ事が出来なかった。
一体何が起こっている?
これからどうなってしまうのか?
自分はどうすればいいんだ?
商人達は正しい道を――自分が助かるための道を血眼になって探したが、存在しない物を見つける事は不可能だ。
安全圏に逃げる船はもう出てしまっている。
地獄の釜の蓋は開いた。
彼らに残されているのは、真っ赤に煮え上がる未来だけ。
絶望、混乱、無気力、そこはまさしく戦場だった。
ただし完全な負け戦。
敵に包囲され逃げ場のない、絶望的な最前線であった。
現金の量だけで言えば、この日一日だけでバルム領から失われた総額は、全体の約6割にも上ったと言われている。
これによってバルム領は完全に破綻した。
現金の不足は単なる消費の冷え込みに留まらない。
取引はストップし、物流は止まり、領地の経済は完全に凍り付いた。
バルム領はみるみるうちにやせ細り、枯れていった。
なにせ領地の経済を支えるべき、バルム家にすら現金が不足しているのだ。
この未曾有の大混乱に歯止めをかける術はどこにも無かった。
バルム家当主は急遽、徳政令を発布。一部の商人の借金を棒引きにしたが、この決定が更に混乱に拍車をかける事になる。
これによって損害を被った他領の商人が、バルム領の商人との取引から手を引き始めたのだ。
慌てた当主は、棒引きした借金の肩代わりをバルム家で引き受けたが、時すでに遅し。
完全に信用を失ったバルム領と新規の契約を交わす商人はどこにもいなかった。
結局、困り果てたバルム家は水運商ギルドに頭を下げて融資を受ける事になる。
よりにもよって、この原因を作った相手に頭を下げて助けてもらうしかなかったのだ。
この時の当主の気持ちは察するに余りあるだろう。
水運商ギルドが後ろ盾となったことで、ようやくバルム領は再建の道をたどる事になる。
しかし、この一連の損害はこの後も長くバルム領を苦しめた。
全ての負債を払い終わり、ようやく独り立ち出来るようになったのは、この20年後とも30年後とも言われている。
その頃にはバルム家はすっかり力を失い、六大部族からも転落する事になるのだがそれは後日の話。
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大忙しで水運商ギルドの支店を飛び回った僕達は、夕方になってようやくオアシスの町ステージへと戻って来た。
『今日は本当に疲れましたわ』
カズダ家のみなさんにいつものテントに運ばれながら、ティトゥはホッとため息を吐いた。
お疲れ様。
ちなみにジャネタお婆ちゃんの姿はない。
帰る途中のチェクレチュニカの支店で降ろして来たからだ。
何でも今日は、徹夜で各支店に指示を飛ばすらしい。
もういい年齢なのに元気なお婆ちゃんだよ。
『出来ればハヤテ様にも手伝って頂きたいのですが・・・』
などと手を擦り合わせながら猫なで声でおねだりして来たジャネタお婆ちゃんを、ティトゥは『ハヤテは夜には飛びませんの』とバッサリ切ってのけた。
余りの凛々しさに惚れ直してしまったよ。
実際のところはティトゥ自身が疲労でうんざりしていたからだろうけどね。
僕? 僕は疲れ知らずの機械の体だから。
それでも流石に今日は精神的に疲れたかな。
『お疲れ様でした』
『今日は遅かった』
メイド少女カーチャとカルーラがティトゥを出迎えてくれた。
ティトゥはカーチャから冷えた水(※カーチャことポットインポット・クーラーで冷やした水)を受け取りながら、思い出したようにカルーラに報告した。
『そうそう。塩切手ですが、ジャネタさんがウリヌケしたので一緒に売って貰いましたわ。ハヤテ』
ティトゥの言葉に応えて僕は胴体横の扉を開いた。
『これですね――って重っ!』
カーチャが袋を取り出そうとして、予想外の重さに取り落としそうになった。
カルーラは驚いてカーチャの手元を覗き込んだ。
『これって全部お金? どのくらいあるの?』
『さあ。どれだけだったかしら?』
どうだっけ? 確か52.6倍の高値更新とか言ってたかな。
『52.6倍?! 何でそんな事に?!』
僕の言葉にギョッと目を剥くカルーラ。
彼女の声にカズダ家の使用人達も驚いて顔を見合わせている。
『あ、あの、今のは塩切手が元値の50倍になったという事でいいんでしょうか?』
若い使用人が興奮に顔を赤くしながらおずおずと確認して来た。
その様子から、どうやら彼も塩切手を購入しているようだ。
思わぬ大金の予感に彼の手は小さく震えていた。
『ええ。そうですわ。でも――』
『! やった! ああ! ありがとうございます! ありがとうございます!』
天を仰いでガッツポーズをする使用人。
喜びのあまり目の縁に大粒の涙が溜まっている。
あ~、君君。
喜んでいる所をなんだけど、ティトゥの話は最後まで聞いた方がいいと思うよ?
『――でも、今は元値を割り込んでいるはずですわ』
『やったやった! これで――は?』
ポカンと大きな口を開ける使用人。
ティトゥは気の毒そうに彼に告げた。
『ジャネタさんがウリヌケしたと言いましたわよね? 今日一日で一気に値崩れして、元値を割り込んでしまいましたわ』
そう。ジャネタお婆ちゃんは保有していた大量の塩切手を現金化して、一気に売り抜けしたのだ。
これによって塩切手はほぼ元値近くにまで下がってしまった。
しかし、ここで下げ止まり、とはならなかった。
個人投資家の売りが殺到した事で、塩切手は遂には元値を割り込んでしまったのだ。
長期的に見ればそのうち値は戻るだろうけど、それでも元値に達する事は無いだろう。
そもそもバルム領の岩塩は、ジャネタお婆ちゃんが大量に買った事で値を戻していたのだ。
それを全て手放した以上、最大でもジャネタお婆ちゃんが買う前。例年の価格を割る値段にしか戻りようがないと思われる。
・・・いや、現状ではそれも厳しいか。
いわゆる”バブルの崩壊”が起こったのだ。
大量の現金が逃げ出したバルム領は、今後、消費は下がり、資産価値は下落し、経済は冷え込んでいくだろう。
売りたくても売れない。仕入れのためのお金が借りられない。
そんな冬の時代がやって来てしまう。
ここを耐えきる体力が無ければ、最終的にはバルム領の破産まで十分にあり得るだろう。
先程の若い使用人は膝から崩れ落ちていた。
うれし涙から一転、悲しみの涙が彼の頬を伝っていた。
きっと天国から地獄に突き落とされた気分を味わっているに違いない。
彼の醜態に心を痛めたのだろう。ティトゥがカルーラに振り返った。
『何だか見ていられませんわ。私の分からいくらかを彼に払ってあげて下さいまし』
『いいの?』
ティトゥは小さく頷いた。
『元々カルーラ様から借りたお金ですもの。それに――いえ。何でもありませんわ』
カルーラはティトゥの気持ちを量りかねていた様子だったが、気を取り直すと使用人の下へと向かった。
ティトゥの気持ちも分からないではないかな。
多分、彼の姿を通して、塩切手の先物取引で損失を出した不幸な人達の姿を見てしまったんだろう。
先物取引はゼロサムゲーム。
ジャネタお婆ちゃんが莫大なお金を稼いだという事は、逆に、それだけ損をした人が大勢いるって事になる。
優しいティトゥはその事実にきっと割り切れない思いをしているに違いない。
そんなティトゥの横顔を、メイド少女カーチャが心配そうに見つめていた。
次回「蜜月の時間は終わった」