その3 先物取引
時間はちょっとだけ戻る。
あの日、僕は珍しく僕のテントを訪ねて来たカルーラの弟キルリアと雑談をしていた。
確かここの当主のエドリアさんが、ジャネタお婆ちゃんに話があるとかで、僕のテントで打ち合わせをしている最中じゃなかったっけか?
二人はリリエラの塩湖の採掘作業に伴う、今後の協力や資金に関するあれこれを話し合っていた。
そんな大事な話はカズダ家のお屋敷ですれば良さそうなものだけど、ジャネタお婆ちゃんは何のかんのと理由をつけて僕のテントに入り浸る事が増えていた。
そんなジャネタお婆ちゃんに気を使ったエドリアさんが、わざわざここまで訪ねて来たのだ。
ちなみに、この手の堅苦しい話が嫌いなティトゥとカルーラは、さっさとこの場を逃げ出して屋敷に戻っていた。
「水運商ギルドの方がカズダ家よりも立場が上ですから。兄が出向いて来るのもおかしな話ではないと思います」
「ふうん。そういうものなんだね」
キルリア少年は苦笑しながら僕に説明してくれた。
「兄はこの町もリリエラの開発に関わらせたいと考えています。水運商ギルドにはそのための融資に乗って頂こうと思いまして」
現在、リリエラの塩湖採掘事業は、水運商ギルドが中心となって急ピッチで行われている。
エドリアさんは、そこにこの町の商人も参加させたいと考えているようだ。
この提案自体は水運商ギルドにとっても十分にメリットが大きい。
ただし、小さな町の商人には、参加するための資金の持ち合わせが不足している。
というか、プロジェクトの方が巨大過ぎるのだ。
そこでエドリアさんはそのための融資を――資金の貸し付けをお願い出来ないかと、ジャネタお婆ちゃんに相談に来たという訳だ。
「借り入れ可能な金額ではどこまで開発に参加出来るか・・・ かと言って、無担保となると金利の問題がありますし」
「そりゃまあ、当然そうなるよね」
オアシスの町の商人が用意できる担保程度では、借りられる金額にも限度がある。
かといって無担保で借りられるお金には、当然厳しい利息が付く。
町の商人を助けるため、エドリアさんは商人の担保を一部自分で肩代わりしようと考えたのだ。
「この町に降って湧いたようなバブル景気だし、エドリアさんが町の商人を参加させたいって気持ちも分かるかな」
「バブル景気ですか? それはどういう意味なんですか?」
バブル景気の意味?
何となくスゴイ好景気くらいの意味で使ったけど、これってちゃんと説明するとなるとどうなんだろう?
僕が説明の言葉を探していると、そこにエドリアさんとの話を終えたジャネタお婆ちゃんがやって来た。
『お二人で何の話をされているんですか?』
『ハヤテ様からバブル景気の話を伺っていた所です』
単語の意味は分からないながら、景気という言葉にジャネタお婆ちゃんの目がギラリと光った。
『その話、アタシも聞かせて貰って構いませんか?』
「どうでしょうか、ハヤテ様」
「う~ん、別に構わないけど、僕も大して詳しい訳じゃないからね」
ニュース番組や解説動画みたいな詳細な説明を期待されても困るんだけど。
「本当にうろ覚えだから、それでも良ければ」
『ハヤテ様の許可が頂けました』
『そりゃあ有難い。ドラゴンの世界の話を聞かせて貰える機会なんて、そうそうあるもんじゃないからね』
『ふむ。俺も聞いてもいいかな』
ここでエドリアさんも加わって、僕のプチ説明会が始まった。
バブル景気といえばやはり有名なのはサブプライムローン問題。いわゆるリーマンショックだろう。
アメリカのみならず世界中を巻き込んだバブル崩壊。
長い平成不況を生み出した元凶とも言えるこの問題。
このテーマを扱った数多くの書籍や解説サイトもあるので、詳しい説明はそちらに譲る事にして、ここでは特には語らない。
気になる人は各自で調べてみてもいいんじゃないかな。
というか、正直、僕はうろ覚えだし。
という訳で、僕は彼らにサブプライムローンに端を発する、当時の住宅・不動産バブルの成り行きをザックリと説明した。
「そんな風に投資者の数が商品数を大きく上回って、商品の価格が実体経済から離れて天井知らずに跳ね上がる現象を、僕らの所ではバブルと呼んでいるわけ」
「・・・そんな事になるんですね」
キルリア少年は感心しているように見えて、どこかピンと来ていない様子だ。
いや、それは彼から説明を受けている兄のエドリアさんも同じか。
この世界では田舎では未だに物々交換が中心で、ろくにお金を見た事もない人すらいるそうだ。
まだ証券取引所も金融取引所も無いこの世界では、”お金を払って権利を取引する”と説明されても、どうにも実感が湧かないのだろう。
とはいえ、日本にだって江戸時代には既に、今で言う”先物取引市場”が存在していたのだ。
商業の発達したこの国なら、そのうち似たようなシステムを作る人がいるんじゃないだろうか?
『サキモノ・トリヒキですか? ハヤテ様、そいつは一体何なんでしょうか?』
一人だけ興味深そうに頷いていたジャネタお婆ちゃんが、僕の独白に食いついた。
「う~ん、確か大坂(※現大阪府)の堂島米会所だっけ。キルリア、通訳よろしく」
「分かりましたハヤテ様」
堂島米会所は江戸時代に作られたお米の市場だ。
当時大坂は”天下の台所”と呼ばれる程、日本の流通の中心地だった。
そこで売り買いされていたのが”米切手”。いわばお米券である。
「コメ・キッテですか?」
「お米と言ってもこっちの人には分からないか。僕らの国の主食で・・・ そうだ。おにぎりの材料って言ったら分かるかな?」
キルリアを連れて王都ザトモヴァーから逃げ出したあの日、僕は夜食としてみんなにおにぎりを振る舞った。
どうやらキルリアもあの時の事を覚えていたようだ。
「ああ、なるほど。キッテというのは、そのお米の引換証のようなものなんですね」
「そういう事」
いくら大坂が天下の台所とはいえ、取引のために全国各地からお米が運び込まれていては蔵がいくらあっても足りない。
そもそも、長距離トラックも貨物列車もない江戸時代では、大量のお米を移動させるだけでも一苦労だ。
だったら昔の人はどうしたか?
その問題を解決する方法が”米切手”だった、という訳だ。
米切手は大名の蔵屋敷が発行する米の保管証書だ。
これを持って行けばお米と交換してくれる。
つまりは今で言うお米券だ。
堂島米会所では本物のお米の代わりに、この米切手を売り買いした。
こうして、本来はただの引換券だった米切手は、やがて有価証券の意味を持ち始める事になる。
それはそうだろう。お米と同等の価値があるにもかかわらず、お米と違って保管場所を取らず、手軽に持ち運んで誰とでも売り買いが出来るのだ。
やがて米切手は為替の代用品として別口の支払に利用されるようになったり、米切手自体の転売が行われるようになっていった。
更に大名にとっても米切手を発行するメリットがあった。
彼らはまだ蔵に無い翌年以後の収穫分の米切手を発行し、当座の資金の調達にあてたのだ。
もちろんズルだし、そんな事をすれば、もし商人が一斉に米切手をお米に換えに来た場合、その大名は破産してしまう。
しかし先程も言った通り、現実には商人は米切手を有価証券代わりに使っていたため、そんな事は起こり得なかったのだ。
やがて商人達は、この便利な米切手の取引だけでは飽き足らず、将来の米切手の取引までも始めるようになる。
先物取引の誕生だ。
「将来の?! 本当にそんな事が可能なんですか?!」
「可能だから出来ちゃったんだよね」
先物取引が登場してどうなったか?
市場が大いに活性化したのである。
「ええっ?! どうして?!」
いわゆるレバレッジ(テコの原理)というヤツだ。
先物取引の原理をここで説明する必要は無いだろう。
それでも一応読み飛ばし推奨で説明すると・・・
◇◇◇◇ここから読み飛ばし推奨◇◇◇◇
僕の資金が10万円あるとする。”現物取引”はその10万円でお米を買うという行為だ。
これが”先物取引”の場合、僕が買うのはお米ではなく、今年穫れるかもしれないお米の権利となる。
例えば一つの田んぼから毎年大体10万円分のお米が穫れるとする。
僕は「今年は豊作になる」と予想したとして、この田んぼで穫れるお米を買い取る権利を得る事に決めた。
もし僕の読み通りに今年は豊作で12万円分のお米が穫れた場合、僕は2万円得した事になる。もし逆に不作で8万円分のお米しか穫れなかったら、2万円損した事になる。
実際の取引では、先ず僕は資金の中から証拠金と呼ばれる担保を入れて取引をスタートする。
例えばこの田んぼの権利を買うために必要な証拠金が一万円だったとする。
この場合、レバレッジは10倍というわけだ。
一年後、もしこの田んぼが豊作なら、僕は2万円を手に入れる事が出来る。不作なら2万円マイナスだ。
つまり僕は一万円の投資で10万円分相当の取引をした事になる。
◇◇◇◇以上◇◇◇◇
ザックリ言うと、先物取引のメリットは、実体のない権利だけを売り買いするから資本金を超えた高額な取引が可能となる所にある。
誰も商品そのものを買わないし売らない。だから実際の商品を売り買い出来ない一般人だって参加できる。
大事なのは商品ではなく、権利を買った時と売った時の差額だけだからだ。
先物取引で生じる利益と損失は、参加している投資家の間でのみやり取りされるマネーゲームである。
つまり、市場取引という形を取った、ある種の巨大なギャンブルなのだ。
僕の説明が下手だったせいもあるのだろう。キルリアとエドリアさんは狐につままれたような顔をしている。
まあ、商品ではなく、実体のない権利を取引するなんて言われても、何のことだかピンと来ないのも当然か。
僕自身も、ネットの知識やその手の漫画内の解説の受け売りで、自分で株やFX(※外国為替証拠金取引)をやってたわけじゃないからね。
分かってもらえなくても仕方が無いと思うよ。
「折角ハヤテ様に教えていただいたのに、理解出来ずに申し訳ございませんでした」
「気にしなくていいよ。どうせ世間話みたいなものだし」
こうして僕は、こんな話をした事すらすっかり忘れてしまった。
けど、ジャネタお婆ちゃんは覚えていたのだ。
そして彼女は新しい商売を始める事になる。
次回「仕手筋ジャネタ」