その2 塩切手
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ここはチェルヌィフの北西。バルム家のお膝元となる領内最大の町。
北の岩塩坑から掘り出される岩塩によってこの町は、いや、バルム領全体は支えられていた。
そのため、岩塩の売り買いを一手に担う岩塩商ギルドの発言力は自然と大きくなり、バルム家当主といえど彼らの意向を無視する事は出来なくなっていた。
ひと月ほど前に王城から布告された命令。
それは岩塩商ギルドに大きな衝撃を与えた。
「サルート家は国内を混乱させようとしてる疑いがある。特に疑いのある貴族家~これこれ何某家~との岩塩の取引を禁ずる」
つまりは、一部貴族家との岩塩の取引を停止せよ、との命令だったのだ。
指名のあった貴族家と取引のあった商人は大慌てとなった。
何せ売り上げがゼロになったのだ。このままでは死ねと言われているようなものである。
岩塩商ギルドは彼ら会員の損失を補填するため、他家との取引に割り込ませるなど、様々な調整を行わざるを得なかった。
しかし、こうした調整も全体的な売り上げ減少を防ぐ事は出来なかった。
当然だ。採掘量は例年通りであるにもかかわらず、販売先だけが減ったのだから。
そのため倉庫には商品が溢れ、一部では早くも価格の下落が始まっていた。
商人達の不満は高まり、ギルドでは早急に対応策を講じる必要に迫られていた。
一時は爆発寸前にまで高まっていた商人達の不満。
だが、それもつい先日までの事になる。
今、この町では振って湧いたような空前の好景気に沸き返っていた。
町の大通りで二人の商人がバッタリと出会った。
「やあ、最近どんな調子ですか?」
「いやあ昨日は参ったよ。儲けた金で荷車を買って帰ったら女房に怒られてしまって。”なんで今、手放してしまったの、もったいない! 早く買い戻して来なさい!”ってさ。隣の若夫婦が驚いて家にやって来るくらいのドえらい剣幕で、本当に弱ったよ」
ため息をつく痩せた商人に、こちらはふくよかな商人がカラカラと笑った。
「ははは。奥さんの気持ちも分かりますよ。何せいくら金を出しても欲しい連中はいますからね。この値上がりはまだ数日は続くんじゃないですか?」
「確かに失敗したかな。――早く水運商ギルドに行かないと」
「そうですな。実は私は水運商ギルドの発表で値が吊り上がっていくのを見るのが、一番の楽しみになっていまして」
商人達は連れ立って大通りを歩き始めた。
彼らが目指すのはこの町の水運商ギルドの支店。
帆装派の中心地では最大手の水運商ギルドだが、ここ、バルム領はその販売網から外れている。
そのせいもあって、この町には小さな支店しか出していなかった。
つい先日までは閑散としていたこの小さな支店に、今は溢れ出すほどの多くの商人達が集まっている。
町の全ての商人がこの場に集まっているのではないだろうか? そう錯覚してしまう程の人間が集まり、狭い建物の中は人いきれで息苦しさを感じる程であった。
さっきの二人の商人が建物に入ると、部屋の奥で大きなどよめきが上がった。
「丁度、今朝の新しい値段が発表された所みたいですね」
「こうしちゃいられない」
二人は人波をかき分けるようにしながら部屋の奥へと急いだ。
部屋の奥には壁の高い位置に大きな板が打ち付けられており、そこには数字が書かれた板がかけられている。
欲望にギラつく目でその数字を眺める者、失意の吐息を漏らす者、すぐそばの販売所に直行する者。
建物の中は一斉に動き始めた商人達で大混乱を起こしていた。
「やった! 俺が売った時より下がっている! 今買えばボロ儲けだぜ! では失礼!」
「ああ・・・ まさか大口の売りが出たというのか? なんて事だ」
二人の商人の明暗はハッキリと分かれた。
どうやら昨日の取引終了時点よりも値段が下がったようだ。
痩せた商人は昨日売った金で買い戻せば、その差額が丸ごと儲けとなる。
彼はホクホク顔で販売所に向かった。
ふくよかな商人はしばらく悩んでいたが、「ここで投資をするべきでしょう」と呟くと、やはり販売所に向かった。
彼は人をかき分けて販売所にたどり着くと、売り場の職員に叫んだ。
部屋の中の喧噪が過熱し過ぎて、この距離でも叫ばないと声が聞こえないのだ。
「”塩切手”を10枚! 買いで!」
「買いですね。かしこまりました」
商人は手に入れた小さな木の板を、大事そうに懐にしまった。
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”塩切手”。
最近バルムで取引されるようになった新しい商品である。
新しい商品、とは言っても、別に商品自体が新しい訳ではない。
塩切手自体は、水運商ギルドが発行した岩塩との引き換え券に過ぎない。
ちなみに切手と名付けられているが、いわゆる郵便切手とは異なる。
切手とはそもそも料金前納を証明する証紙のことを指す言葉で、必ずしも郵便切手の事を言う訳ではないからだ。
そして、この世界に馴染みのない”切手”という言葉が使われている事からも、この塩切手がハヤテの入れ知恵だという事が分かるだろう。
そう。塩切手こそがハヤテの話を元に水運商ギルドのジャネタが考案した新しい商売なのだ。
ジャネタは閑職となるバルム領内の水運商ギルドの支店をまとめ上げると、チェクレチュニカの町を本社とした一大商業網を形成した。
商品は塩切手。
先ず、ジャネタは水運商ギルドの莫大な資本力に物を言わせて、だぶついて値下がりしていた岩塩を買いあさった。
商品が減れば値段が上がる。
需要と供給の経済原理によって、岩塩の値段は持ち直した。
いや、むしろ品が不足するまでになった。
ジャネタからこの説明を受けた時、ティトゥは不思議そうな顔をした。
「でも、おかしいですわ。今は岩塩は余っているんですわよね? 余った分が売り切れればそこで取引は終わるんじゃないですの?」
「そうはいかない所が商売の面白い所なんですよ」
ジャネタは嬉しそうに説明を続けた。
「ご当主様のおっしゃる通り、現在、岩塩は例年にない値崩れを起こしています。つまり、商人としてはいつもと同じ量を売っても損になるのです。
かと言って塩の市場が急に大きくなるなんてことはあり得ない。つまり、今年はもうどうやっても赤字が確定してしまったという訳です。
そこにアタシが相場よりちょろっと色を付けた値段で買い取ると持ち掛けた。少しでも損を回避したい商人はアタシに売ろうと殺到します」
そうすると市場から商品が不足する。すると今度は値段が上がる。
在庫過剰の状態から在庫不足の状態となるのだ。それも当然と言えるだろう。
しかしここで困った事が起こる。契約上、商人達は決まった量の岩塩を貴族家に売らないといけないのだ。
こうなると商人は損を承知で高い岩塩を購入せざるを得なくなる。
「酷い話ですわ」
「商売では良くある話です。というよりもここまでがいつもの商売の話となります。ここからがハヤテ様に教わった新しい商売の話になります」
『僕が教えた話って何?』
ジャネタの言葉にキョトンとするハヤテ。
メイド少女カーチャは、「またハヤテ様が何かしでかしましたね」とばかりに白い目を向けた。
『いやいや、本当に知らないから。僕は商売の話なんて教えてないから』
「コレを売ります」
「何ですの、コレ?」
「板?」
ティトゥとカルーラは差し出された板をためすがめつ眺めた。
それは小さな薄い板で、表面には水運商ギルドのマークがレリーフされていた。
「実物は偽造防止のために、ここに通し番号を焼き付けます。商品名は”塩切手”。コレをギルドに持ち込めば岩塩と交換出来ます」
「ああ。王家から頂いた目録のようなものですわね」
ティトゥが領主になりたての頃、ボハーチェクの港町に買い出しに向かった事があった。
あの時、ティトゥは現金ではなく、王家から貰った支度金代わりの目録で買い物をした。
つまり、目録は今で言う有価証券の代わりだったのだ。
塩切手も同様に、水運商ギルドが発行した有価証券的な物と考えて貰っていい。
この場合、岩塩に交換出来る商品券となる。
「岩塩の代わりにコレで取引きするのね」
「いいえ、違います。塩切手それ自体を売るのです」
「?」
ティトゥとカルーラそれにカーチャ、少女達は理解出来ずに小首を傾げた。しかし、ハヤテには何か心当たりがあったのか『あっ!』と声を上げた。
『そうか、”米切手”か! ええっ?! マジで?! まさか岩塩で先物取引をやるつもりなの?!』
日本語で叫んだハヤテの言葉は誰にも理解されなかった。
いや、正確に言えばカルーラは日本語が分かるのだが、先物取引という単語の意味が分からなかったのだ。
言葉が通じないとはいえ、今のリアクションでここにいる少女達は原因がハヤテにある事を察した。
「ハヤテ様、何をやったんですか」
「教える」
「ハヤテ。怒らないから言っておしまいなさい」
少女達にジト目で詰め寄られ、ハヤテはしどろもどろになってしまうのだった。
次回「先物取引」