プロローグ クーデター
お待たせしました。第十章が始まります。
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チェルヌィフ王朝の王都ザトモヴァー。
ペルシャ風な石造りの建物が立ち並ぶ巨大都市である。
この大陸でこの都市の規模に並ぶのは、ミュッリュニエミ帝国の帝都アレハンドロだけであろう。
この歴史ある都市は、三百年前の大ゾルタ帝国の頃から栄えていたとも、大ゾルタ帝国建国の遥か以前、今や人類の歴史にも残らぬ古代国家の頃から栄えていた、とも言われている。
そんな王都を睥睨するように、北の高台には荘厳な王城がそびえ立っている。
巨大な塔を何本も持つ立派な王城は、大陸最大の国家を統べるに相応しい威風堂々たる佇まいを見せていた。
その夜、キルリアは一日の仕事を終え、いつものように王城の奥まった一角で就寝前の勉強をしていた。
鯨油ランプの明かりがまだ幼い少年の顔を照らす。
明るい灰色の髪を持つ利発そうな顔立ちだ。
ここは小叡智として彼と彼の姉に与えられた宿舎である。
年老いた世話役の夫婦は既に床に就いているため、この時間はいつも彼一人だった。
彼は数年前から姉のカルーラと二人でここで暮らしている。その姉は現在、重要な用事のためこの国を離れ、遠く半島の小国ミロスラフ王国に出向いている。
彼らの仕える叡智の苔がミロスラフ王国のドラゴンと面会を希望したために、その意向を伝えるために使節団に扮して会いに行ったのだ。
「・・・今日はダメだな。全然集中出来ないや」
書物の内容はさっきからちっとも頭に入って来なかった。
キルリアは読んでいた書物から顔を上げると、大きなため息をついた。
「前々からカルーラ姉さんは、思いがけない事をしでかす人だったけど、まさかドラゴンに乗って戻って来るなんて思わなかったよ」
姉のカルーラは聡明でいながらもどこか天然で、時折突拍子もない言動を取る事があったが、今回の一件はその中でも極め付けだった。
カルーラの旅は予定では後二ヶ月ほどかかる予定だったが、何と今日の昼間、突然件のドラゴンに乗ってこの国に舞い戻って来たのだ。
謎の飛行物体の飛来に王城では上を下への大騒ぎとなった。
王城からも騎士団が出動して、王都の外に着陸した謎の飛行物体を取り囲んだ。
それは今まで誰も見た事もない、緑色の大きな翼を持つ巨大な怪物だった。
騎士団が固唾をのんで見守る中、怪物の背中が開くと三人の少女が降り立った。
一人はレッド・ピンクの髪をした年頃の見目麗しい少女。
一人はメイド服を着たまだ幼い少女。
そして最後の一人はこの国の貴族の正装をした少女だった。
この最後の少女こそがカルーラ・カズダ。
キルリアの姉であり、今代のもう一人の小叡智であった。
現在、カルーラは一緒にやって来た二人の少女と共に王城でもてなしを受けているはずである。
・・・実際はもてなしという名の事情聴取なのだろうが。
キルリアは知らない事だが、明日には現国王代行のクリシュトフ・サルートとの面会が予定されている。
彼が姉と再会するのは少なくともその後、早くても明後日以降になるだろう。
「カルーラ姉さん、ちゃんと弟離れしてるかな?」
カルーラはちょっと常軌を逸するレベルでキルリアを溺愛している。
キルリアとしても、姉弟仲が良いのに越したことはないし、離れている間は寂しい思いもしていたのだが、流石に年頃になって姉の愛情を少々重たくも感じていた。
嫌いではないが、あまりべったり構っては欲しくない。
なかなか複雑な少年心である。
キルリアはふと遠くで騒がしい音がしているのに気が付いた。
この宿舎は王城の中でもかなり奥に作られている。
ここまで騒乱が響いて来るなんてよほどの事だ。
酒に酔った男が暴れているだけ、などという事は到底ありえない。
それにいくら夜とはいえ城内には多数の警備の騎士が詰めている。
そのような狼藉者を自由にさせているはずもなかった。
「こんな時間に何をしているんだろう?」
だからこの時のキルリアに危機感が希薄だったとしても、彼を責めるべきではないだろう。
バタン!
突然ノックも無しに勢いよくドアが開けられた。
血相を変えて部屋に飛び込んで来たのは初老の女。
カズダ姉弟の世話を任されている老夫人である。
「どうした? そんなに慌てて」
「小叡智様! 謀反です!」
謀反?! 一体誰が?! どうして?!
キルリアは驚きに目を見張った。
「謀反人の兵隊が城の中を進んで来ます! ここからお逃げ下さい!」
「逃げるって言ったって・・・ どこに?」
キルリアは聡明な少年だが、突然の事態に混乱を隠せない。
彼はどうして良いか分からずに無意味に部屋の中を見回した。
その目が今は誰もいない姉のベッドの上に止まった。
「そうだ! 姉さん! カルーラ姉さんはどうしている?!」
咄嗟に城内にいる姉の心配をしたキルリアだったが、尋ねてはみたものの老婆がその答えを持っているとは思えなかった。
しかし、意外な事に老婆はすぐにキルリアの言葉に返事を返した。
「夫が知らせに向かっています! 出来れば異国のお客人にも声をかけて騎士団の詰め所に逃げ込むと言っていました!」
キルリアは咄嗟に頭の中に王城の見取り図を思い浮かべた。
謀反人の兵士達がどこから侵入したのかは分からない。
この部屋から騎士団の詰め所に向かうには、どのルートを取れば人目に付かないだろうか?
「分かった。僕達もそこに向かおう」
キルリアは机の引き出しからカズダ家の家紋の入った小刀を取り出した。
小叡智に選ばれて家を離れる際に父親から渡された守り刀だ。
護身のためもあるが、もし仮にこの身が謀反人の兵に討たれる事があっても、死体の身元を確認する助けになるだろう。
老婆を連れて一歩部屋の外に出ると、遠くで男達の叫び声と鉄を打ち合わせる音が聞こえた。
荒事には無縁の生活を送っていたキルリアは、緊張と恐怖で口の中がカラカラに乾くのを感じた。
キルリアは指が白くなるほど唯一の武器である小刀を強く握りしめた。
「い、急ごう。こっちだ」
「は、はい」
声が上ずってしまったのは仕方が無いだろう。
老婆と少年は薄暗い城の廊下を走り出した。
この日、チェルヌィフ王朝の王城はどこからともなく侵入してきた謀反人の兵士達に蹂躙された。
この謀反の首謀者はエマヌエル・ベネセ。
王家の部族と呼ばれる六大部族の中でも武断派を代表する人物である。
城の騎士達は良く戦ったが、混乱の中、現国王代行が討たれた事によりそのほとんどが抵抗の意志を失った。
守るべき目的を失った彼らの一部はベネセ兵に投降し、一部は再戦の決意を胸に城を抜け出した。
そして一部の者は最後まで抵抗を続け、戦いの中でその命を散らしたのだった。
明日からは朝7時に更新予定です。
次回「逃亡者ティトゥ」