その14 悪名
翌朝。僕の所にやって来たティトゥ達は、立ち昇る臭気に一様に鼻に皺を寄せた。
『酷いありさま』
カルーラの言葉が端的に今の状況を物語っている。
僕の前には家畜のフンや動物の臓物が小山を作っていたのだ。
これはバルトネクトル公爵家の僕に対する嫌がらせ――などではなく、僕がこの屋敷の人達に頼んでかき集めてもらったものだ。
彼らは昨日のうちに周囲に連絡を入れて、今朝も早くからせっせと僕の前にこの汚物を運び込んでくれたのだ。
『何だか心が痛みますわ・・・』
ティトゥが目の前の汚物の山と立派なお屋敷とを見比べて呟いた。
まあそうだよね。
この屋敷の使用人達も、まさか自分達の手で屋敷の庭を汚す事になるとは思いもしなかっただろうし。
まあ汚物といっても内訳は家畜のフンや臓物だから、案外庭の土の良い肥料になるんじゃないかな?
『積み込みは終わっていますのね』
ティトゥが僕の翼の下を覗き込んで言った。
僕のハードポイントには投下用増槽が懸架されている。
今朝までティトゥ達の私物が入っていたそこには、屋敷の使用人達によって生ゴミがたっぷりと詰め込まれていた。
『これじゃあ洗っても使えませんね』
カーチャが嫌そうにゴミの詰まった投下用増槽を見ている。
そうだね。今後は君達の荷物は胴体内の空いたスペースに入れるという事でお願いします。
ちょっと取り出し辛くなっちゃうけどゴメンね。
『では行って参りますわ!』
操縦席に乗り込んだティトゥの掛け声で僕はエンジンを始動。
河賊の本拠地と目される港町レーヴェを目指して飛び立つのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
平和な港町レーヴェ。
しかしこの町は今、かつてない恐怖に混乱状態に陥っていた。
「ドラゴンだ! 今度は町の北にドラゴンが来たぞ!」
「みんな外に出るな! 家に隠れているんだ!」
「うるせえ! どけ!」
「何?! 貴様ら――うわっ!」
ドラゴンの襲撃。
それは小さな港町の住人には恐ろしい悪夢でしかなかった。
パニックに陥った住人達には制止する警備兵の言葉も届かなかった。
彼らは少しでも安全な場所を求め、ドラゴンが北に出たと聞けば南に、東に出たと聞けば西にと、必死になって逃げまわった。
足の遅い子供や老人が倒れ、逃げ惑う人々が彼らを踏みにじった。
そんな哀れな犠牲者の悲鳴が更に住民の恐慌に拍車をかける。
町は阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「うわっ! 痛ててっ! 何だこりゃ?!」
「臭え! コイツは獣のフンだ!」
ドラゴンは今朝から何度も町を襲ってはこうして空から汚物をばら撒いていた。
その目的は全く不明だが、それだけに却って住人達は不安でならなかったのだ。
町の通りは汚物が散らばり、更にその汚物を逃げる住人が蹴散らし、小さな町は目を覆わんばかりの惨状と化していた。
そもそも最初にドラゴンがやって来た時は、これ程の騒ぎにはなっていなかった。
聞き慣れない騒音に住人は空を見上げ、見慣れない飛行物体に驚きと困惑のまなざしを向けるだけだった。
パニックの引き金は警備兵による警告だった。
この町の代官はバルトネクトル公爵家から派遣された役人だ。
彼は先日の南制軍の敗因がミロスラフ王国のドラゴンによるものである事を知っている。
代官は町の空を飛び回る謎の飛行物体の報告を受けて、それがドラゴンである事を察し、町の住人に外に出て無駄にドラゴンを刺激しないように警告を発令したのだ。
だがこれが見事に逆効果になった。
ドラゴンの噂はこんな小さな港町にまで轟いていた。
謎の飛行物体の正体がドラゴンと知った住人は、パニックになって我先にと逃げ出したのだ。
代官が自分の失敗に気が付いた時には後の祭り。
事態はあっさりと彼のコントロール出来る範疇を外れていた。
恐るべきはドラゴンの悪名である。
「ええい! ドラゴンは一体何がやりたいんだ!」
代官は代官所でうろたえる部下達を怒鳴り付けた。
彼らは困惑した様子で顔を見合わた。
返事こそしないものの、彼らの表情は雄弁に物語っていた。
ドラゴンの考えなど人間である自分達に分かるはずがないではないか。と。
既に公爵家には急を告げる早馬を飛ばしている。
しかしレーヴェは公爵家の領地の端に位置する。屋敷まではどんなに急いでも一日はかかる。
バルトネクトル公爵家が対策を取る前に、町はドラゴンに蹂躙されているだろう。
――と、言いたい所だが、報告によるとドラゴンは町の上を飛び回っているだけのようである。
そして高度を下げると町に汚物をばら撒く。
そうしていずこへと飛び去ってしまう。
しばらくするとまた町の上空に現れ、やはり少しの間飛び回った挙句、やっぱり汚物をまき散らして去って行くのだ。
そんなドラゴンによる汚物攻撃が今朝からもうかれこれ五回は繰り返されている。
ドラゴンの理解不能な行動に、代官は頭がおかしくなりそうになっていた。
ひょっとしてドラゴンの狙いは我々の頭を狂わせる事にあるのかもしれない。
そんな益体の無い考えまで浮かんでくる始末だった。
「代官様大変です!」
その時、血相を変えた警備兵が部屋に駆け込んで来た。
余程急いで来たのだろう。大きく息は弾み額からは滝のように汗が流れている。
警備員から報告を受けた代官は、ギョッと目を剥いて立ち尽くした。
「なに?! 本当か?!」
ヤツの狙いはそれか!
ドラゴンの恐るべき悪辣さに代官の顔からサーッと血の気が引いた。
町の騒動は河賊のボスの所にも届いていた。
彼は恐怖と苛立ちを紛らわすため昼間から部屋の中で酒を煽っていた。
(ドラゴンはきっと逃げた手下を追ってこの町に来たに違いない。全く厄介な相手を連れ込んでくれたもんだぜ)
ボスは部下の不始末に腹立ちを抑える事が出来なかった。
その時、部屋にノックの音が響いた。
「誰だ?! しばらく一人にしろと言っておいたはずだぞ!」
「私だ。船長」
彼を船長と呼ぶ者はほとんどいない。ドアが開くと予想通りそこには町の漁業ギルド長の姿があった。
神経質そうな痩せた壮年の男だ。
「昼間から飲んでいるのかね?」
部屋に立ち込める酒の匂いに、ギルド長は眉間にしわを寄せた。
「ギルド長がこんな場所に来てもいいのか? もし部下にバレたら面倒だろう」
ボスはギルド長にイスと酒を勧めたが、ギルド長は軽く手を上げて両方断った。
そんなギルド長の様子に何を感じたのか、ボスは剣呑な気配を漂わせた。
「確かに誰かに見られては私も困る」
「そうだろうそうだろう。漁業ギルドのご立派なギルド長様ともあろうものが、金貸しと顔見知りと知れたら世間が黙っちゃいねえ」
河賊のボスの表の顔は金貸しを営んでいた。
もちろん河賊達が奪って来た金品を資金洗浄するための仮の姿である。
建前上、河賊の手下は彼とは無関係――ただの漁師という事になっている。
そのため代々レーヴェの漁業ギルド長は河賊の息のかかった人間が据えられ、河賊達の隠れ蓑として利用されていた。
「今日は船長に手切れを言い渡しに来た」
ギルド長の言葉にボスの片眉がピクリと跳ねた。
「それはどういう意味だ? 返答次第ではただじゃ済まさねえぞ?」
「言葉通りの意味だ。今後レーヴェの漁業ギルドは船長達との縁を切らせてもらう」
ボスはイスを蹴って立ち上がると腰の大型ナイフを抜いた。
「吐いた唾は飲み込めねえぞ。ギルド長になってのぼせ上ったか? テメエなんぞ俺の一言でいつでもそのイスから引きずり降ろして、棺桶に突っ込む事が出来るんだぞ。その覚悟があって言っているんだろうな?」
「・・・も、もちろんだ。むしろ遅すぎたくらいだ」
ボスの迫力にのまれながらも、ギルド長は先程の言葉を撤回するつもりはないようだ。
「テメエ誰のおかげで今の地位に就いていられると思ってやがる」
「・・・船長の協力があっての事だ」
「そうだ。そして今まで俺達のおかげで散々うまい汁を吸っておきながら、今になってそれを無かった事にしろとはどういう了見だ?」
ギルド長は怯えた目でボスの顔とボスのナイフを交互に見ながらも、それでもやはり引かない様子だ。
(このヘタレの俗物が一体全体どういう風の吹き回しだ?)
あくまでも脅しに屈しないギルド長に、ボスは訝し気な表情を浮かべた。
その時、外から大きな悲鳴が聞こえて来た。
どうやらドラゴンから逃げ惑う住人が近くの通りを走っているらしい。
ギルド長はチラリと悲鳴のした方へと視線を送った。
「船長も知っているだろう。今、この町はドラゴンに襲われている」
「それがどうしたい?」
「あれは船長の部下を追って来たんだろう?」
ボスは大きな舌打ちをした。
そして、この話が終わったらおしゃべりな部下を始末しよう、と、心に決めた。
「だからそれがどうしたって言っているんだ! 俺達をドラゴンの前に突き出すとでも言うつもりか?!」
「町の井戸がやられた」
ボスは一瞬、ギルド長の言葉の意味が分からなかった。
「ドラゴンがまき散らす汚物が六か所ある町の井戸に入った」
「・・・それがどうだってんだ」
レーヴェの町は河口に近い場所にある。そのため川の水には海水が混じり生活水には使えない。
井戸が使えなくなれば町は干上がるしかないのである。
「そんなのは水を抜いて洗えばいいだろうが!」
「明日もドラゴンがやって来れば? 一度抜いた井戸の水がまた使えるようになるには一晩はかかる。使えるようになった頃にはまたドラゴンがやって来るかもしれない」
「それは・・・」
この時ボスは、レーヴェの町が今まさに崖っぷちに立たされている事を知った。
「ドラゴンというのは本当に恐ろしいものだ。誰一人殺さずにこの町を滅ぼそうとしている」
次回「時代の流れ」