プロローグ ティトゥ・マリミテ
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「商人のレオミールが来ただと? 面会予定は入っていなかったと思うが?」
ここは帝国のバルトネクトル公爵家の屋敷の執務室。
白い髭の神経質そうな老紳士が、まだ屋敷に入って日の浅い部下の言葉に白い眉をひそめている。
老人はこの屋敷の家令・ボルドー。
帝都に滞在中の当主に代わって、このバルトネクトル公爵領を預かる代官でもある。
若い部下は上司のうろんな眼差しを受けて冷や汗を浮かべた。
「はっ! その・・・国外の要人から、ボルドー様に大至急取り次ぎを頼まれたとの事で」
「要人? 国外の貴族か何かか?」
公爵家の家令であるボルドーに取り次ぎを請う者は国内外を通じて数知れない。
実際に既に来月まで彼の面会予定はビッシリと埋まっている。
しかも現在はとある問題の対応に追われ、それすらも滞っている状態だ。
御用商人であるレオミールがその事を知らないはずはなかった。
相手は余程の要人なのだろうか。
あるいは相手はレオミールの母国であるチェルヌィフの貴族なのかもしれない。
だが――
「だがそれは相手の都合だ。私が会う必要は無い。レオミールには帰るように伝えろ」
大陸の大国であるミュッリュニエミ帝国。
そして現在のバルトネクトル公爵家当主は現皇后の兄――つまりは皇帝の伯父にあたる。
仮に相手が国外の貴族だったとしても、ボルドーが気を使う理由は何も無かった。
「・・・はっ。しかし、その」
それでも煮え切らない部下の態度に、ボルドーの額に青筋が浮かんだ。
「何だ?! まだ何かあるのか?! いい加減仕事に――待て、何だこの音は」
部下に苛立ちをぶつけようとしたボルドーだったが、屋敷の上空から聞こえる異音に言葉を切ると耳をそばだてた。
「虫の羽音のような・・・ 聞いた事の無い音だが?」
部下も不安そうに天井を見上げている。
ボルドーは立ち上がると窓を開けてテラスに出た。
辺りを見渡すと、屋敷の庭師が空を見上げて大きな口を開けている。
ボルドーは大声で庭師を呼んだ。
「おい! これは何の騒ぎだ?!」
「あっ! ボルドー様! あれをご覧下さい! 馬鹿デカい大きな鳥です!」
「鳥だと?」
庭師は余程慌てているのだろう。”デカい”と”大きい”では意味が被っている。
ボルドーは彼の指差す先、春の抜けるような青空を見上げた。
「あれは・・・ 何だ?」
ヴーンヴーンと唸り声を上げながら屋敷の上空を旋回しているのは、見た事もない灰色の巨大な鳥?だった。
時折、陽光を反射して体がキラリと光る。
その巨大鳥は猛禽類のように翼を大きく広げて、優雅に大空を飛んでいた。
というか――
「というかあれはまさか・・・ まさかウルバン将軍の南征軍を退けたという、ミロスラフ王国のドラ――「これはこれはボルドー様。お目にかかれて幸いです」
ボルドーの呟きは軽やかな声に遮られた。
振り返った視線の先にいたのは、うさん臭い笑みを浮かべた小太りの中年の商人だった。
「さるお方から取り次ぎを頼まれて急いで来たのですが、どうやら先方はしびれを切らして私の返事を待たずに来てしまったようですな」
「・・・レオミール。お前、一体何者に頼まれてこの屋敷に来たのだ?」
どうやらレオミールは、先程ボルドーが庭師を呼んだ声を聞きつけて控室から出て来たようだ。
ボルドーの顔は緊張に引きつっている。
その表情は、「返答次第ではただでは済まさない」と雄弁に物語っていた。
もし、彼の予想通り相手がアレであるならば、とてもではないが”要人”などという生易しいものではない。
レオミールは帝国の怨敵をみすみすこの屋敷に招き入れた事になる。
決して笑って済ませる事ではない。
ボルドーはしたり顔で大きく頷いた。
「私が取り次ぎを任されましたのは、ミロスラフ王国の貴族のご令嬢でございます。あちらのチェルヌィフ商人からの伝手で――」
「ミロスラフ?! やはりか! 貴様、よりにもよってミロスラフのドラ――」
「ボルドー様! 鳥が! 鳥がこちらに向かってきます!」
ボルドーの怒鳴り声は庭師の悲鳴に遮られた。
彼がハッと空を見上げると、いつの間にか大きな鳥は高度を下げ、この庭に目掛けて襲い掛かって来ようとしていた。
「屋敷に逃げ込め! 急げ!」
ボルドーは一声叫ぶと、率先して転がり込むように屋敷に飛び込んだ。
「うわあああっ!」
「きゃあああっ!」
何事かと外で空を見上げていた屋敷の使用人達も慌ててボルドーに倣った。
ボルドーは、ちゃっかり自分に続いて部屋に飛び込んだレオミールの胸倉を掴んだ。
「貴様どういうつもりだ! あれはミロスラフのドラゴンだろう?! このバルトネクトル公爵領を滅ぼすつもりか?!」
ボルドーの部下がギョッと目を見開いた。
今やこの帝国でミロスラフのドラゴンを知らない者はいない。
ドラゴンの悪名は、帰国した南征軍の将兵達から盛大な尾ひれはひれを付けられて帝国中に広まっていた。
しかしボルドーの剣幕も、レオミールの顔に浮かんだうさん臭い笑みを消す事は出来なかった。
レオミールはいけしゃあしゃあと言ってのけた。
「ミロスラフのドラゴン? 違います。あれはミロスラフの翼馬です」
ミロスラフの翼馬から降り立ったのは、幼いメイドを従えたレッドピンクの髪の少女だった。
「初めまして。私はミロスラフ王国のティトゥ・マリミテですわ」
「・・・バルトネクトル公爵家の家令・ボルドーでございます」
ティトゥ・マリミテと名乗る少女に続き、こちらもまだ若い灰色の髪の少女が降り立った。
「私はカルーラ・チリメン」
「彼女はエチゴのチリメン商会の娘です。この度はマリミテ様をミロスラフから案内してまいりました」
レオミールの説明にうさん臭さそうな目を向けるボルドー。
しかしボルドーの目は直ぐに巨大な翼馬の姿に吸い寄せられた。
「翼馬・・・ですか。あの、ドラゴンじゃ――」
「いえ、翼馬ですわ!」
ドラゴンもとい翼馬は、庭の草木をなぎ倒して、屋敷に鼻面を突っ込まんがばかりの距離で鎮座している。
その緑色の体は光沢を放ち、巨大な鎌首をもたげ、今も圧倒的な威圧感で周囲を睥睨していた。
屋敷の中では使用人が固唾をのんで事の成り行きを見守っている。
ボルドーは久しぶりに胃が痛くなるような緊張感を味わっていた。
「あの、それで本日は当家に何の御用でしょうか?」
この質問に、ティトゥはその立派な胸を張って堂々と答えた。
「レオミールからそちらの窮状を聞きつけて参上したのですわ! 私とハヤテ――翼馬が来たからには、大船に乗ったつもりで任せて頂いて結構ですわ!」
「当家の窮状? それをあなた方が?」
ティトゥの申し出は意外なものだった。
彼女の言う通り、現在バルトネクトル公爵家は厄介な問題を抱えている。
現在ボルドーが休む間もなく忙殺されているのもそれが原因だ。
確かに手助けは欲しい。それが五万の帝国軍を退けたドラゴン――翼馬なら願っても無い話だ。
だが、本当にこの怪しい巨大生物と国外の貴族令嬢に任せて大丈夫なのだろうか?
ボルドーは巨大な翼馬を見上げた。
『翼馬です。よろしく』
「「「「「喋った!!」」」」」
驚く屋敷の者達に、何故かティトゥがドヤ顔で誇らしげに胸を張った。
次回「不運と踊る」