その1 雪解け
四月。ようやく雪も消えて、今では地面のぬかるみもすっかり収まっていた。
僕はアノ村のみんなに押されて、テントの中からうららかな春の日差しの下に引っ張り出されていた。
『こうしてハヤテと飛ぶのも久しぶりですわ』
ティトゥがいつもの飛行服で眩しそうに青空を見上げている。
まあ確かに久しぶりだね。
冬の最中にも一度飛んだけど、あの時は酷い有様だったからね。
この地方では冬は結構雪が積もる。
そんな長い冬に痺れを切らしたティトゥは、雪かきをしてまで僕を飛ばそうとしたのだ。
もちろん滑走路はいつものようにコノ村の生活道である。
まあ、飛ぶ時はまだ良かったよ。
でも降りる時が大変だった。
みんなが散々歩き回ってぬかるんだ道に僕が着陸すればどうなるか?
泥は跳ね飛ぶわ、プロペラの風圧が跳ねた泥をまき散らすわ、ナカジマ領代官のオットーは怒るわ、メイド少女のカーチャは転んで泥だらけになるわ、僕も泥で汚れるわで、大騒ぎになってしまった。
結局ティトゥはオットーに山ほどお小言をもらう事になり、雪がとけてぬかるみが消えるまで次の飛行はお預けとなった。
まあ僕も体が汚れるのはイヤだからね。自分では綺麗に出来ないし。
また帝国軍が攻めて来たとかならともかく、ティトゥの気晴らしに付き合って泥だらけになるのはちょっと・・・
冷たくないかって? いやいや、機体の中に泥が入ったら後で大変なんだよ。
そんなわけでようやく昨日オットーから飛行許可が下り、僕は久しぶりにテントの外に引っ張り出されたのだった。
いくら僕が元引きこもりとはいえ、三か月近くもずっとテントの中というのは流石に退屈だったよ。
僕は爽やかな春の空気を気化器一杯に吸い込んで、久しぶりの飛行に胸を躍らせていた。
『当主様、少しお待ちを』
オットーがふと何かに気が付いてティトゥを呼び止めた。
オットーが見つめる視線の先、そこにはこちらに向かって馬を進めて来る騎士団員の姿があった。
あの装備は王都騎士団のものだね。
去年はナカジマ領のあちこちで見た姿だが、今の彼らはナカジマ騎士団に移行した際に装備も一新されている。
あの恰好もなんだか久しぶりに見た気がするよ。
騎士団員は村の入り口で馬を降りると、ナカジマ騎士団員に左右を挟まれる形でこちらにやって来た。
僕達が見守る中、騎士団員は直立するとティトゥに告げた。
『失礼します! カミルバルト国王陛下からの書状を持って参りました!』
元カミル将軍こと、カミル国王からの書状だって?!
思わぬ大物の名前に周囲にサッと緊張が走った。
ティトゥはオットーに目配せすると騎士団員へ声を掛けた。
『分かりました。あちらで承りますわ』
国王からの書状となれば、そこらでおいそれと渡せるものではないのだろう。
ティトゥは先頭に立って歩き始めた。その後ろを騎士団員、オットーが続く。
いつの間にかやってきていたメイドのモニカさんが、弟子のカーチャに「ユリウス様を呼んでらっしゃい」と命じている。
なんだろうか。何だかイヤな予感がするな。
それはそうと今日の飛行は取りやめになるんだろうね。
僕はガッカリしながら、ティトゥ達が消えて行った家のドアをぼんやりと眺めていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
騎士団員が取り出した書状をティトゥは恭しく受け取った。
書状に捺印された家紋を確認した上で、かたわらに控えたオットーへと渡す。
オットーは書状の封を切ると、丸まった書状を文鎮で丁寧に伸ばし、再びティトゥへと返した。
この辺りの作法は、現在ナカジマ家の食客となっているユリウス元宰相が口を酸っぱくして徹底させている。
メイド少女カーチャは、今まで自分達がいくら言っても聞かない主に言い聞かせてくれる人が出来て、心底頼もしく思っていた。
ティトゥは書状に目を通すと、小さく眉をひそめた。
その様子にオットー達が訝し気な表情を浮かべる。
「確かに受け取りましたわ。王都からご苦労様でした。メイドに案内させますので部屋でお休み下さい」
「ご配慮感謝致します」
騎士団員が中年のメイドに連れられて部屋を出ると、ティトゥは緊張を緩めてイスに深く腰掛けた。
「帝国との戦の褒賞ですか」
オットーは書状の癖を取るために文鎮で紙を均した際、軽く内容に目を通していた。
ティトゥは書状に目を落とすと不思議そうに呟いた。
「”列侯の称号を送る”とあるけど、これってどういう位なのかしら? ユリウス様はご存知ですの?」
ティトゥの問いかけにユリウス元宰相は大きく頷いた。
「勿論知っております。その称号を当主殿に賜るように陛下に進言したのは、他でもないワシですからな」
ユリウス元宰相は、現在の彼の唯一の手ごまであるチェルヌィフ商人のシーロを通して、王城のペラゲーヤ元皇后へと連絡を取り、ティトゥに列侯の位を送るようにカミルバルト国王に進言をしたのである。
そういえば最近シーロは忙しく動き回って、すっかりコノ村に戻って来なくなっている。
今はどこで何をしているのやら。
「列侯は位や官職ではありません。貴族の称号ですな」
「確か初代国王が即位した時に、特に功績のあった七人の配下に送った称号でしたか」
オットーは嬉しそうにしているが、ティトゥはどこか納得出来ない様子だ。
「でもそれって名前だけで褒賞金が貰えるわけでもないのでしょう? 戦に参加した他の人は収入があって、私だけ称号だけなんて、何だか損をしている気がしますわ」
「そ、そんな、名前だけって・・・ 八人目の列侯に任じられるなんて大変に名誉な事なんですよ。それにナカジマ家は現在お金に困っている訳ではありませんし」
つまらなさそうにするティトゥに慌てるオットー。
しかしこの場合ティトゥの言い分にも一理ある。流石にオットーにもその事は分かっていたため、その言葉はどこか歯切れが悪かった。
ユリウス元宰相は自分の弟子に助け船を出してやる事にした。
「オットー。お前が知っている列侯の知識はそれが全てか?」
「いえ。列侯はその後それぞれに家を興しました。現在の上士位はその時の列侯の家系という話です」
そう。列侯は当代にのみ与えられる称号だが、列侯の称号を持つ者は上士の家を興してもいいのだ。
これは歴史によって証明されている。
つまりティトゥは現在小上士位だが、列侯の称号を得た今、その気があればいつでも上士の家を興す事も可能となったのだ。
ユリウス元宰相の説明を受けたオットーは愕然とした。
「列侯の称号にそんな意味があったなんて・・・」
「まあ列侯の称号は建国時以来使われておらんし、どちらかといえば無理筋の屁理屈にも近いかもしれん。しかし、それを面と向かって論破出来る者はおるまいよ」
列侯の称号を持つ者が上士家を興すのを否定するという事は、引いては現在の上士家の成り立ちの否定にもつながるからだ。
現実的に考えて、上士家全てを一度に敵に回すような事は王家であっても出来ないだろう。
「それは・・・確かに」
「ご当主殿。これであなたは事実上いつでも上士家の仲間入りが出来ますが、いかがなさいますか?」
少し意地悪なユリウス元宰相の問いかけにティトゥは即答した。
「必要ありませんわ」
上士位になれば多くの権力を手にする事が出来る。部下に下士位の家を興させる事も出来るし、関所を築いて他領との流通に対して自由に関税を掛ける事も可能だ。
ちなみに現在のティトゥの立場でも関税を掛ける事自体は可能だが、小麦に塩や酒、輸入高級品等は専売品として王家の許可なく関税をかける事を禁じられている。
だれあろうユリウス元宰相がティトゥを小上士位とする際にそのように定めたのだから、彼がその事を知らないはずはなかった。
ティトゥの返事にユリウス宰相は満足そうに頷いた。
「それがよろしいでしょう。今は背伸びをしても得る物よりも負う事になる責務の方が大きいでしょうからな」
上士位は多くの特権を得るが、その代償として王家に対してもまた多くの責務を負う。
それは巨額の税だけにとどまらず、王家主導の公共事業に対する協力、国防のための兵役の負担、祭祀の際の資金や人材の提供、と、その義務は多岐に渡る。
更にその義務の中には、一門の主要な者を王城に勤務させ、それら王家の事業へ即座に対応させる、というものもある。
要は王家に人質を差し出さなければならないのだ。
王家としても手放しで領主の権利を認めている訳では無いのである。
また、この王都勤務者と領地の者達との考え方の違いが溝を作り、派閥争いやお家騒動にまで発展するケースも見られていた。
ユリウス元宰相から以上の説明を受け、ティトゥは大きく胸を張った。
「その通りですわ」
あ、コレは絶対に分かってなかったやつだ。
メイド少女カーチャは主の反応を見てピンと来た。
多分ティトゥ様は「これ以上の面倒はごめんですわ」と思って「いらない」と言っただけに違いない。それがたまたま良いように誤解されたので、これ幸いと乗っかったのではないだろうか。
実はカーチャの推測はズバリ真相を突いていた。
とはいえそれはカーチャだけではなく、付き合いの浅いユリウス元宰相を除くこの場の全ての人間が思った事だった。
「じきにナカジマ領は港を得て大きく発展します。その時必ず王家からの横やりが入るでしょう。上士の位を得るのはその時点でよろしいかと存じます」
「正に私もそう考えていましたわ!」
ウソつけ。
この場の全員の心が一つになった。
ユリウス元宰相にも流石にこの言葉は信用されなかったようだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
カミルバルト国王、ナカジマ家当主に史上八人目の列侯の称号を送る。
この決定は貴族達の間に不満を高めた。
とはいえ今回の戦いはミロスラフにとって防衛戦で、土地を得たわけでも金を得たわけでもない。
帝国軍の貴族でも捕虜にしていれば身代金の要求も出来たのだろうが、あまりにも早く帝国軍が壊走に移ったためにその機会も逃していた。
被害は最小限だったが得る物も無かった。
今回の帝国軍の南征はミロスラフ王国にとってそういう戦いだったのである。
この戦争で得たものといえば、せいぜい帝国軍の残した軍事物資くらいだ。
王家としては、大きな槍働きのあった竜 騎 士に対して報いる物が無いのが実情だった。
竜 騎 士には、大変な名誉ではあってもなんの益も無い列侯の称号を贈る。
苦しい王家の台所事情なら仕方が無い。いや、むしろこれは妙手と言っても良いのではないだろうか。
多くの者はそう考えて納得した。
誰もユリウス元宰相の思惑――いつでも上士位の権利を得る事が出来るようにして、将来の保身を図った――とは考えなかったのだ。
それは、現代のように国の歴史が学問として整頓されていないこの時代、建国時の事例を詳しく知る者は少なかったから、という事情もある。
例外的に王家の歴史を詳しく知る者の中にはカミルバルト国王もいたが、彼はこの時期は他にも手を回さなければならない案件が目白押しで、ユリウス元宰相の真意を深く洞察する余裕が無かったのである。
こうしてミロスラフ王家は将来においての大きな分岐点を、それと知らない間に通過してしまった。
この一件が後々何をもたらすか。この時点で知る者は誰もいなかった。
次回「王都からの手紙」