閑話7-4 聖国の宰相夫妻
◇◇◇◇◇◇◇◇
クリオーネ島ランピーニ聖国。
その王城の執務室では宰相夫妻が頭を抱えていた。
「帝国軍が負けた事は知っていたが、よもやこれほど一方的な戦いだったとは・・・」
報告書を読んだアレリャーノ宰相の正直な感想である。
そう彼がそうぼやきたくなる程、報告書に書かれた内容は信じ難いものであった。
「帝国軍五万に対してミロスラフ王国軍三千八百。結果は帝国軍の敗北。帝国軍は全軍の約二割を失って帝国に引き上げた。驚いたわ。圧倒的な戦果じゃない」
アレリャーノ夫人が報告書の資料を読んで夫の言葉を補足した。
軍隊は、人員損耗率が概ね三割から五割に達した時点で戦力として機能しなくなる、と言われている。
二割の兵を失った帝国軍が撤退を選んだのもやむを得なかったといえるだろう。
もっとも、仮に再びミロスラフの砦に攻め込むと決めたところで、ハヤテに怯える兵士がその命令に従ったかどうかは疑問だが。
「本当にあの子の言った通りになったのね」
「カシーヤス嬢か。彼女には最初からこの結果が分かっていた、という事か」
カシーヤス嬢ことモニカは、現在はミロスラフ王国でナカジマ家のメイドとなっている。
異例とも言えるこの人事だが、本人の強い希望と、ナカジマ家のドラゴン・ハヤテを(色々な意味で)警戒する宰相夫人の働きかけで可能となったものである。
今回の帝国軍の南征にあたってモニカは、「帝国軍がナカジマ領を目指すなら、竜 騎 士が必ずそれを撃退する」とし、「帝国軍の目論みを阻む気があるなら、聖国は帝国軍がナカジマ領を目指すように誘導すべきである」と、彼らに献策していたのだ。
今回の戦いの結果は、モニカの分析が正しい事を証明するものであった。
「それにしたってこの結果は予想外だ。ミロスラフ王国側は一割程の犠牲しか払わなかったというじゃないか」
「始まった途端に追撃戦だものね。人的な被害はともかく、砦も無傷なら物資もほとんど消費していないという事になるわ。――いえ、帝国軍の残したものを得た事で、むしろ物資は増えた事になるのでしょうね」
今回の帝国軍の南征で、小ゾルタは国がボロボロになる程の大きな犠牲と被害を被った。
しかし、ミロスラフ王国は、被害と呼べる程の被害は無かった。
ミロスラフ王国と小ゾルタの国力は、ほぼ同程度と言っても良いだろう。
よく似た小国が、なぜこうまでも運命を分けたのか。
二人には言うまでも無くその原因が分かっていた。
「ドラゴンの立てた作戦がこうも見事な結果を出すとは――これは軍部に命じて検討を重ねるべきだね。使うにしろ使われるにしろ早急に戦法として確立させる必要があるだろう。恐るべきはドラゴンの深淵なる智謀という事か。・・・恐ろしい相手と知ってはいたつもりだったが、我々はドラゴンに対する認識を更に改める必要があるだろうね」
「そうね。そしてあの力を利用しようとする者が出ないように、何か手を打つ必要があるわ」
苦々しい表情を浮かべる宰相夫妻。
現状の所、ドラゴン・ハヤテはその力と知略を自衛のためには使っていても、積極的に他国を攻めるためには使っていない。
しかし、もしその力が彼らの守る聖国に向けられたとしたら――
今回の戦いで、彼らはその恐怖を嫌と言う程思い知らされた気がした。
「もし、ドラゴンがこの王城を狙った場合、何か打てる手はあるかい?」
「・・・お手上げね。あなたも見たでしょう。私達が竜 騎 士の接近を知った時には、既に彼らは城の中庭に降り立っていたわ」
妻の言葉に、嫌な事を思い出した、という表情を浮かべるアレリャーノ宰相。
先日ハヤテはモニカの指示のもと、王城の中庭に直接着陸を果たしている。
二人はあれはモニカによる「聖国は絶対にドラゴンを敵に回してはいけない。もし敵対すればどうなるか、嫌でもこれで分かるでしょう」という警告だと考えていた。
あれから城の見張りは空から接近するハヤテの事も警戒するように命じられているが、彼らが伝令を走らせる間にハヤテが到着してしまうために、何の効果も果たしていなかった。
もし聖国が本格的にハヤテを警戒するつもりならば、国のあちこちに見張り塔を立て、ハヤテの飛行速度を超える高速な伝達手段でいち早く城に知らせるしかないだろう。
だが、この世界の文明レベルでは、時速380kmで飛行するハヤテを上回る伝達手段は未だ存在しない。
つまり事実上、彼らがハヤテの行動を先回りする事は不可能なのである。
「仮にハヤテの接近が分かっても、私達には空を飛ぶ彼に対する有効な攻撃手段が無いわ」
「確かに。この報告書にも、”帝国軍の攻撃はドラゴンに対して何の効果も無かった”とあるね」
アレリャーノ宰相は机の上の報告書を手に取った。
帝国南征軍もハヤテ相手にいいようにやられてばかりではなかった。
憎き化け物を撃ち落とそうと、何度も攻撃を繰り返していたが、その攻撃はハヤテにダメージを負わせるどころか、かすりさえしなかったのである。
「ここにも”弓矢の速度はドラゴンの速さに全く追いつけず、それどころかドラゴンの飛ぶ高さに届かない始末で、かえって落ちて来た味方の矢で負傷する者もいた”とあるね」
「そもそも人間を相手にするために作られた武器で、ハヤテにどれだけ効果があるかは疑問だわ。以前のあの子の報告では、ミロスラフの貴族がハヤテに剣で切り付けた事があるけど、かすり傷しか負わせられなかった、とあったわ」
それはハヤテ達が王都で開かれる戦勝式典に出向いた時の事だ。
夜中に酔った元第四皇子ネライ卿はハヤテに剣で切りかかった。
結局彼の剣はハヤテの翼を軽く傷付けただけに終わり、その傷も数日もすれば跡形もなく消えて無くなってしまった。
しかもハヤテはまだ誰にも話していないが、現在のハヤテはあの頃よりも大幅に性能が向上している。
今ならひょっとして、ネライ卿のなまくら剣術ごときなら無傷で跳ね返すかもしれない。
「ドラゴンに対する有効な手段は絶対に敵対しない事。最初からあの子の言った通りだったのね」
「――ナカジマ殿が野心の薄そうな女性なのは幸いか」
ハヤテと契約するティトゥ・ナカジマは、良く言えば素朴な田舎貴族の娘で、これといった野心も持たない大人しい少女である。
大人しい、と言うには若干お転婆が過ぎる気もするが、そこはまだ若い娘なので仕方が無いだろう。
領主という立場にもなったし、いずれは落ち着くのではないだろうか。多分。
そして彼女の契約するハヤテの野心も、せいぜいベアータと協力して多くの銘菓を作り、将来ナカジマ領を「お菓子の里」と呼ばれるようにする、という程度のものである。
一国を預かる宰相夫妻から見れば、微笑ましいというか、しょうもない野心と言ってもいいだろう。
「今はハヤテよりも帝国を気にした方がいいんじゃないかしら」
「――何か動きがあるのかい?」
最近帝国は隣国のチェルヌィフ王朝に多数の諜者を放っている。
宰相夫人はそれが気になっていたのだ。
「そんなにおかしな事かい? 南征軍が敗北して大きな被害を被ったんだ。帝国が仮想敵国である王朝の動向に神経質になるのも当然なんじゃないか?」
今回帝国軍は、春の遠征に敗北して軍事力が低下した小ゾルタに攻め込んだ。
同じことを今度は自分達が王朝にされないとは限らない。
だからこそ諜者を放って敵軍の動きに目を光らせる。
アレリャーノ宰相には特におかしなことは無いように感じられた。
「そうね。私の気のせいだと思うんだけど・・・」
情報を得るために敵国に諜者を送る。それ自体には何ら不自然な点は無い。
ただ帝国皇帝ヴラスチミルの人となりを考えた時、そんな慎重な行動を選ぶだろうか? そこに宰相婦人は違和感を覚えたのだ。
実は彼女の直感は正しい。
皇帝は国の守りのためではなく、この度の敗北によって低下した軍事力の補強のためにこそ、王朝の情報を欲していたのである。
しかし、宰相夫妻にはこの件においてとある決定的な情報が欠けていた。
そのため彼らには皇帝の真意を推測する事は不可能だったのだ。
これは今は亡き帝国宰相ベズジェクが、聖国の情報網から最後まで秘密を隠し通して来た事による賜物なのだが、彼女達がそれを知る事は無かった。
「どのみち春になるまでは帝国も身動きが取れないだろう。それは帝国を攻めるかもしれない王朝にとっても同じことだよ」
「そうね。この話はここまでにしましょう」
夫の言葉に夫人は軽く頷いた。
宰相夫妻がこなさなければならない政務は多岐に渡っている。
いつまでも他国の戦争にばかり関わっている訳にはいかないのだ。
それに昨年は夏の大規模な海賊退治にかかった費用と、今回のナカジマ領への支援金とで国庫に大きな負担を掛けていた。
そのため今年の予算編成は例年にない見直しを要求されていた。
「そのどちらにもハヤテが関わっているんだものね。ひょっとしてドラゴンは聖国にとっての疫病神なんじゃないかしら」
「・・・君。流石にそれはいいがかりが過ぎるんじゃないか?」
夫人は呆れ顔の夫に小さく肩をすくめてみせた。
もしこの夏、たまたまハヤテが聖国に訪れていなければ、パロマ王女は海賊に攫われたままどこかに連れ去られていただろう。
その捜索には年単位の費用を覚悟しなければならない上に、それで王女が無事に戻って来たかどうかは分からない。
そもそも大掛かりな海賊退治でかかった費用は、商用航路の安全の確保による交易の活発化で帳消しに出来る、と財務の担当から試算が上がっている。
どのみち昨年は海賊の活動が活発だった。あのまま放置しておくことは出来なかったのである。
それは今回の帝国軍の南征も同様だ。
もしあのまま帝国が半島を征服していれば、次の狙いが聖国に向く事は誰の目にも明らかだった。
そうなれば軍備の出費もかさむし、もし仮にクリオーネ島に上陸でもされれば、国土にどれほどの被害が出たか分からない。
”対岸の火事”のうちに消火してもらって、聖国としては大助かりだったのである。
いうならば、昨年聖国は二度も厄介な病気にかかったが、そのどちらもハヤテという劇薬を服用する事で早期治療が叶ったのである。
もしハヤテがいなければ今頃聖国は病気が悪化して入院していたのは間違いない。
こうして後始末の心配をしているどころではなかったはずである。
もちろん夫人はその事を良く分かっている。
だが後始末をしなければならない自分達が大変なのは確かだ。
だから多少愚痴をこぼしてみただけなのである。
アレリャーノ宰相は黙って机の報告書を片付けると、別の資料を広げた。
二人は頭を切り替えると、今度は国内に抱える諸問題についての議論を始めるのだった。
そして四月。
聖国の空に僅かにチラチラと雪が舞っている。
久しぶりの雪だ。きっとこの冬最後の雪になるに違いない。
この日、聖国のレブロンの港町からチェルヌィフ王朝の外洋船が出航した。
そこには、彼らの信仰する叡智の苔から直々に重要な使命を帯びた少女が乗っていた。
少女の目的地はミロスラフ王国・ナカジマ領。
彼女のもたらす知らせはハヤテにとって大きな運命の転機となる。
だがこの時点でそれを知る者は誰もいなかった。
第七章の閑話はこれで終了となります。
第八章が始まるまでお待ちください。