プロローグ 皇帝ヴラスチミル
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ミュッリュニエミ帝国。
ハヤテ達の住む半島の根元に位置する大陸の強国である。
代々領土的野心の強い国として知られ、実際にその領土は拡張を続けていたが、30年ほど前に東の大国であるチェルヌィフ王朝と国境を接した時からその拡張路線は停滞している。
現皇帝ヴラスチミルは現在42歳。
前皇帝である父は彼を嫌い、結局、最後まで帝位を譲る事はなかった。
皇帝が崩御してヴラスチミルが戴冠したのは37歳の時。
この世界では遅すぎる即位であった。
皇帝になったヴラスチミルは、強い帝国を取り戻す、を目標に軍事強硬路線を打ち立てた。
それは自分を認めなかった前皇帝を超えるため――悪く言えば死んだ父親に対する当てつけであった。
この方針に最も強く反対したのは、帝国の屋台骨を支えると言われている宰相ベズジェクだった。
しかしそのベズジェク宰相もこの夏に、流行病で亡くなった。
これにより皇帝を諫める者はいなくなった。
帝国の仮想敵国である王朝は、数年に一度”ネドモヴァーの節”に入り、対外的な軍事行動が一切取れなくなる。
”ネドモヴァーの節”とは、彼らの信じる神から啓示が降り、王朝の民は東の海からやって来る厄災に備えなくてはならなくなる、というものだ。
王朝はこの夏に突然”ネドモヴァーの節”に入り、現在帝国との国境には最低限の軍しか残されていない。
皇帝ヴラスチミルはこのチャンスを逃さなかった。
かねてからの計画通り帝国は五万の大軍を編成し、電撃的に半島へと進軍した。
王朝も帝国の動きを知ったが今はどうにもならない。彼らは歯噛みしながら見ている事しか出来なかった。
この南征軍の最高司令官は名将ウルバン将軍。
ウルバン将軍はケレン味に欠ける人物ながら、その用兵は堅実。部下にも公平で私欲の無い、皇帝の信任の厚い良将であった。
ウルバン将軍の率いる帝国軍は瞬く間に半島の小ゾルタを落とす事に成功した。
しかも味方の損害は軽微なものだという。
正に名将の名に恥じない華々しい戦果であった。
この快挙に帝国の国民は沸きに沸いた。
今や皇帝ヴラスチミルの名声は歴代の名君に並ぶものとなりつつあった。
皇帝の威光は飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
新年まであと一週間。この日帝都では国民に対して、皇帝自らの言葉で小ゾルタ戦の戦勝発表が行われる事になっていた。
城の入り口、帝都の大通りには現在急ピッチで巨大な門が建設されている。
南征軍が帰国の際にはこの凱旋門をくぐって登城し、皇帝に拝謁する事になっている。
本日はその凱旋門の上に飾る巨大な皇帝の像の除幕式の日でもあった。
これらの慶事に、帝都の国民の気持ちは否が応でも高まっていた。
さらに間近に迫った来年は帝国が誕生して100周年を迎える。
誰しもが、来年は帝国にとって最も輝かしい年になるに違いない、と確信していた。
それは戦勝発表に挑む皇帝ヴラスチミルにしてみても同様であった。
皇帝の姿が城のテラスに現れると、今日に限って解放された城の入り口広場に詰めかけた群衆の興奮はピークに達した。
そんな国民たちを見渡す皇帝ヴラスチミル。
群衆から大きなシュプレヒコールが上がった。
「「「「皇帝ヴラスチミル万歳! 帝国軍万歳!」」」」
自分達は今、皇帝に拝謁している!
彼ら一人一人が自らが帝国国民である事の誇りと喜びを感じ、抑えきれない感情を万歳の叫びと共に爆発させた。
そんな民衆を皇帝はバルコニーの上から満足げに見下ろした。
父である前皇帝に虐げられていた自分が、今やこれほどの支持を集めている。
時間と共に前皇帝の名は忘れ去られようとも、自分の名は英雄として後世にまで語り継がれるだろう。
自分は正しかった。
彼は大きな達成感を胸に、国民からの惜しみない賞賛を浴びていた。
――思えばこの瞬間が、この南征での彼の絶頂だったのかもしれない。
皇帝はふと空の彼方に小さな点を見つけた。
それは空に空いた穴のようにも見えた。その影は不自然に空の一ヶ所にとどまっていたからだ。
いや、とどまっているのではない。一直線にこの場所を目指しているから動いていないように見えるだけなのだ。
それは翼を広げた猛禽の姿にも見えた。
みるみるうちに近付いて来る大きな翼。
ここまで来ればそれを”飛行機”だと断定できる。
だが、この世界にはまだ飛行機そのものが存在しない。
ただ唯一、半島の小国・ミロスラフ王国で”ドラゴン・ハヤテ”として存在が知られるのみであった。
そしてこの帝国でハヤテの姿を知る者は誰もいない。
この時点で皇帝以外にも謎の翼に気が付く者が出始めた。
皇帝の背後では皇后や皇太子、大臣達がざわめき、周囲に控える親衛隊が浮足立っているのが分かる。彼らもどう判断して良いか分からないのだ。
そんな中、皇帝は不思議な物を見るような目で、その翼が大きくなっていく様を見つめていた。
やがて空からハヤテのたてるヴーンというエンジン音が届いて来た。
それは勝利と栄光に沸く帝国に不幸を奏でる、ある意味呪いの旋律であった。
次回「帝都襲撃」