その10 隣国ゾルタの最後
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「神に導かれし白銀の地ゾルタ王朝」。隣国のミロスラフ王国からは「隣国ゾルタ」と呼ばれ、それ以外の国からは概ね「小ゾルタ」と呼ばれるこの国に、今、最後の時が訪れようとしていた。
小ゾルタの王都バチークジンカ。小国ながら15万の人口を誇る大都市は、現在征服者の軍靴に踏みにじられ、断末魔の悲鳴を上げていた。
街のあちこちからは黒い煙が上がり、都市に住む者達のみならず、周辺の村々から避難していた者達も、財産を奪われ、個人の尊厳を汚され、唯一残された己の命すらも彼らの気まぐれに弄ばれていた。
ミュッリュニエミ帝国の軍によって王都が落とされた翌日。
今朝から遂に町の蹂躙が許され、欲望の群れと化した獣達が、身を寄せ合って怯える牙無き者達へと一斉に襲い掛かったのだ。
王城の塔から一人街を見下ろしていた痩せた壮年の男が力無く呟いた。
「帝国兵による乱取りが始まったか・・・」
眼下の街からは幾筋もの煙が上がっている。
男はもう何日もろくに寝ていないのだろう。目の下に大きな隈を作り、顔は土気色をしている。
”乱取り”とは戦争の時に雑兵達が庶民に行う乱暴狼藉の類の事だ。
食糧を奪い、財産を奪い、女には辱めを与え、気分次第で命を奪う。
見下ろす街はいつもと変わらぬ姿だが、近寄れば目を覆いたくなる程の残酷な景色が広がっている事だろう。
帝国兵は獣欲の赴くまま街をうろつき、犠牲者を見付けては蹂躙を繰り返している。
その光景は、戦争の常とはいえあまりに惨たらしく、救いというものが無かった。
「カメニツキー殿。ウルバン将軍がお呼びです」
帝国軍の兵に呼ばれて壮年の男――カメニツキー伯爵は眼下の陰鬱な景色から目を離した。
カメニツキー伯爵は一度目頭をもむと背筋を伸ばし、征服者の下へと向かうのだった。
王城の一室。来客用に作られた一室でその男は待ち構えていた。
机に向かい、何か報告書の類にサインをしているようだ。
「カメニツキー殿をお連れしました」
案内の兵の声にその男――ウルバン将軍は顔を上げた。
40絡みの巌のような男だ。太い眉にくぼんだ目、整えられたカイゼル髭。いかにも軍人といった男が正面からカメニツキー伯爵を見つめた。
「待て」
敬礼をして去ろうとした案内の兵をウルバン将軍は呼び止めた。
「貴様、なぜ先程カメニツキー伯爵を爵位で呼ばなかった」
「そ・・・それは・・・ その・・・」
ウルバン将軍に問い詰められ、冷や汗を流しながらしどろもどろになる兵士。
負けた敵国の貴人に敬称など不要。とてもではないがそんな事が言える空気ではなかった。
「た・・・大変失礼致しました! カメニツキー伯爵閣下!」
「貴様には後で罰を与える。これでよろしいか? カメニツキー伯爵」
「・・・全ては将軍閣下にお任せする。そちらのよろしいようにして下さい」
敬礼をして今度こそ部屋を出て行く兵士。
カメニツキー伯爵は「どうせこの場の口約束だけで罰など与えまい」と思いながらもそれを口にする勇気は無かった。
「伯爵の賢明な判断によって、双方にこれ以上の犠牲を強いずに済んだ。正に感謝の言葉も無い。この度はそちらの王家との不幸なすれ違いにより多くの犠牲が出てしまったが、皇帝陛下の御心は平和を望んでおられる。伯爵の行いにはきっと陛下もお喜びになられる事だろう」
「・・・犠牲を望まれないのであれば、王都での乱取りは一日限りとの約束を守って頂きたい」
「もちろんだとも。帝国軍が敵するのはあくまでもゾルタ王家。貴国の民を虐げるつもりはない」
今も帝国兵に虐げられている王都の民の事を知りながら、いけしゃあしゃあと綺麗ごとを口にするウルバン将軍。
最もこれに関してはウルバン将軍だけに非を鳴らす訳にはいかない。
国民を根絶やしにして更地に変えるつもりならともかく、この後の統治を考えればこの時点での略奪などしない方がいいに決まっている。
住民感情は悪化するし、多くの流民や餓死者を生み、翌年以降の税収が悪化するだけだからだ。
ウルバン将軍としてもやらずに済むならこんな蛮行は願い下げなのである。
ならばなぜ将軍が兵に乱取りを許しているのかと言えば、いくら帝国が強国とはいえ、五万の兵全てに褒賞を与えるだけの資金力が無いからだ。
この時代はまだ国家の生産力がそれ程高くは無い。
そのため、こうして現地で略奪を許す事で兵の給与としているのである。
カメニツキー伯爵もそれが分かっているからこそ、断腸の思いでこの非道を受け入れているのである。
いや、伯爵は自分の無力さを「仕方が無い」と諦めることで誤魔化しているだけなのかもしれない。
帝国軍はカメニツキー伯爵の内通によって予定よりも早くこの王都バチークジンカを攻略する事に成功していた。
カメニツキー伯爵は以前から帝国に与して密かに情報を流していたが、国家転覆の片棒を担ぐまでの覚悟を持って行っていた訳ではなかった。
あくまでも政争の手段として帝国を利用していたつもりだったのである。
それがまさかこんな悲劇を招き入れる事になろうとは。
小賢しい小悪党に過ぎない伯爵は、もう何日も罪の意識でまともな睡眠をとる事が出来ずにいた。
「約束通り伯爵の領地は安堵しよう。こちらが帝国宰相の印の入った本領安堵状になる。確認をされよ」
「・・・確かに」
カメニツキー伯爵は瀟洒なデザインの金縁で箔押しされた書類を広げた。
国を売り、王家を裏切った結果得た物がこれである。
伯爵はこみ上げて来る後悔と激しい罪悪感に目の前が暗くなった。
「顔色が悪いな。少し休まれてはいかがかな」
「そうさせて頂こう・・・」
「失礼します! 逃亡中の王妃と王子と思われる母子が発見されました!」
部屋に入って来た兵士の報告に伯爵は目に見えてうろたえた。
兵士に引き立てられてウルバン将軍の前に連れて来られたのは、みすぼらしい町人の恰好をした女と幼い子供だった。
変装して街に潜伏していた所を行方を追っていた帝国兵に見付けられたらしい。
「こちらが王妃と王子なのか?」
ウルバン将軍に鋭く問い詰められ、俯いて目を反らしていた伯爵は絶望の表情を浮かべた。
伯爵はウルバン将軍が自分に首実検――二人の身元を確認しろと言っていると気が付いたのだ。
ウルバン将軍からの無言の圧力を受け、伯爵は渋々顔を上げると母と子を見た。
そんなカメニツキー伯爵の顔を見て、母親の方が驚愕に目を見開いた
「! あなたはカメニツキー家の叔父上! 叔父上がどうして帝国軍の兵と一緒に?!」
「あ・・・いや・・・これは・・・」
「ふむ。その様子、どうやら王族で間違いないようだ。他の者達と一緒に監禁しておけ」
「はっ!」
まだ幼い子供は泣きじゃくり、兵士に槍の石突で背中を打たれて固い床に倒れ込んだ。
自分も兵士に腕を引かれながら、王妃は伯爵に向かってヒステリックに叫んだ。
「叔父上は本家の私を売ったのね! そうよ! そうなんだわ! この卑劣漢! 恥知らず! エドが生まれた時にあんなに喜んでくれたのはウソだったのね!」
「違う・・・違うんだ! 私は・・・私は本当に心からお前達の事を一族の誇りに思っているんだ」
「だったらどうしてそんな場所にいるのよ!」
「! ・・・それは 違う・・・そうじゃないんだ・・・」
伯爵の言葉は力無くしぼんでいった。
暴れる王妃とぐったりとしたままの王子が兵に引きずられながら部屋を出ると、伯爵は遂に耐えきれずに声を殺してすすり泣いた。
王城の門の前で戦犯として小ゾルタ王家に連なる者達がことごとく斬首に処されたのはそれから三日後の事である。
その中にはカメニツキー伯爵の親類にあたる例の母子もいたが、伯爵は結局彼女達の最期を見る事は無かった。
彼らの首は長く城門に晒された。
こうして直系の小ゾルタ王家の血は絶え、小ゾルタは事実上消滅した。
この後小ゾルタの地は、王家の血を継ぐと称する者達が各地で乱立する混迷の時代へと突入する。
その混乱の最中、カメニツキー伯爵の領地も他の領主達に攻め込まれて消滅した。
国を売ってまで得た本領安堵状だが、同国の領主相手には何の効果も持たなかったのだ。
あの日以来、衰弱して床に伏していたカメニツキー伯爵は略奪中の兵士に見付かって殺されたという。
次回「アネタの一日」