その6 別室の兄妹
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「失敗した・・・ 俺はどうしてあそこで言葉に詰まってしまったんだ。みすみす自分の言葉に理が無いと認めたようなものじゃないか」
「・・・トマス兄様」
中年のメイドに案内された漁村の一室でトマスは頭を抱えてうずくまっていた。
安っぽい作りの部屋だ。到底貴族の子女を案内するような部屋ではないが、コノ村には他に客を通せるような部屋が無い上に、当主であるティトゥですら似たような部屋で寝泊まりしている。
この家などまだましな方なのだ。
急ピッチで建築の進むコノ村だが、住宅設備が充実するのはまだまだ先の事になるだろう。
後悔に臍を噛むトマス。心配そうに自分を見つめる幼い妹に気を使う余裕すらない様子だ。
いつも頼りになる兄の見せる苦悩に満ちた表情に、アネタは小さな心が不安で一杯になったが、気丈にもその目から涙をこぼす事はなかった。
彼女も幼いといえども、オルサーク男爵家の薫陶を受けて育った貴族の子なのである。
アネタは兄に負担をかけないように、歯をグッと噛みしめて溢れる不安を押し殺した。
アネタの足には包帯が巻かれ、その上から清潔な布で覆われている。
アネタの靴擦れを治療した若いメイドは、治療を済ませると客にお茶を淹れるためにこの部屋を去っていた。
そこに先程、丁度入れ替わるようにトマスが部屋に案内されて来たのだ。
トマスは力なく部屋に入ると共にイスに座り込み頭を抱えた。
「今も兄上達が帝国軍と戦っているかもしれないのに、俺はメイドにすら言い負かされてこの有様だ・・・ こんな事で本当に俺はお爺様から命じられた使命を――ミロスラフ王国と同盟を結んで援軍を要請する事が出来るんだろうか」
苦悩するトマスだったが、いかに聡明な彼でも所詮は10歳そこそこの子供でしかない。
まだ幼い可愛い孫達を憐れんだ先代の当主が、耳あたりの良い役目を与えて二人を国外に逃がした事にまだ気が付いていない。
実はこの件に関しては、彼の妹の方がそれとなく察していた。
まだ幼い彼女は祖父母からの愛情を真っ直ぐに受け取っていたため、なまじ賢しい兄と違って祖父母の隠し切れない気持ちに気が付いてしまったのである。
トマスは自分では国の存亡を掛けた重大な使命を果たそうとしているつもりが、その実は実現不能な目標を追い求める、世間知らずの貴族のお坊ちゃまに過ぎなかったのだ。
メイドのモニカが辛辣な評価を下したのも仕方が無いだろう。
トマスは彼女の最も嫌う身の程知らずの貴族のボンボンだからだ。
とはいえそれはトマスのせいではない。彼はまだ幼く、社交界にすら出ていないのだ。将来の美酒も寝かせる時間が足りなければ口当たりの悪い荒い酒でしかない。だがそれを酒のせいにする者はいないだろう。
経験も足りずに知識も無い彼が、現在は才能を活かせていないのは当然の事なのだ。
その時、部屋の薄いドアをノックするベンベンという軽い音が響いた。
トマスは憔悴した顔を上げて自分の身だしなみを簡単に整えると、アネタのスカートの皺を伸ばした。
「入れ」
入って来たのはトマスとさほど変わらない若いメイドだった。
先程アネタの治療をしてくれた少女だ。ナカジマ家当主がまだマチェイ家の令嬢だった頃から彼女付きのメイドだった少女だが、当然彼らはその事を知らない。
少女メイド――カーチャはお茶を支度すると、お茶請けとして薄く焼かれた焼き菓子と見慣れない茶色いジャムのようなモノが入った小瓶をテーブルに置いた。
アネタはテーブルの上の見慣れないお菓子にパッと明るい表情を浮かべたが、トマスの目はカーチャの手元のティーセットにくぎ付けになった。
「それは、聖国の陶器だな?」
「はい。そう伺っております」
陶器は元々は遠い東の国からもたらされた器で、東方陶器として貴族達に珍重されたと伝わっている。
現在は東の海の先はこの世の果て――魔境となっているため、完全な形で現存する東方陶器は存在しないとされている。
ランピーニ聖国は可能な限りの東方陶器の破片を集めると、長年の研究の結果、独自の方法で東方陶器を再現する事に成功した。
現在、聖国製の陶器は各国に輸出され、聖国の国庫を潤すと共に、他国の貴族達に非常に珍重されていた。
「見事な茶器だ。僅かな歪みも無く、曇りも無く磨かれた鏡のようだ。さぞや名のある工房で焼かれたものに違いあるまい」
「えっと、あの、私は詳しくないので・・・ 申し訳ございません。調べてまいります」
トマスの指摘にしどろもどろになりながら答えるカーチャ。
ぶっちゃけ彼女は適当に見栄えの良いカップを選んだだけに過ぎない。
現在ナカジマ家はランピーニ聖国から贈られた陶器を大量に保有している。
目利きの出来る者が誰もいない中、それらの大量の陶器はすっかり宝の持ち腐れとなってしまっていた。
以前ティトゥが高価な大皿を普段使いにしようとしたのがその良い例だろう。
「あ、いや構わない。当主様に立派な茶器を見せて頂き眼福だったと伝えて欲しい」
「・・・かしこまりました」
トマスはあまりに立派なティーセットに、これはさぞや当主自慢の一品だろうと考えたのだ。
カーチャは何とも言えない微妙な表情を浮かべて頷いた。
ちなみに後でカーチャから話を聞かされたティトゥは「あなたどのカップを使ったんですの?」と、逆に驚いたという。
カーチャが「これです」と実物を見せると「だったら今後お客様に出すお茶はこれに入れましょう」と喜んだという話だ。これのどこが自慢の一品なのだろうか。
「焼き菓子にはこちらの”竜甘露”をかけてお召し上がりください」
「「竜甘露?」」
マチェイ家の料理人テオドルからレシピを託されたベアータは日々改良を重ね、今では安定して良質な水あめを生産することに成功していた。
カーチャは焼き菓子の一枚にたっぷりと水あめをたらすとアネタに勧めた。
アネタは上品に一口食べると――目を丸くしてものすごい勢いで兄の方へと振り返った。
「美味しい! 甘いの!」
アネタはそれだけ叫ぶと、小さな口で貪るように残りの焼き菓子を平らげると顔を幸せにとろけさせた。
さっきまで上品にかしこまっていた妹のあられもない姿にトマスは驚きに目を見張った。
カーチャはもう一枚、焼き菓子に水あめをたらすと次はトマスに勧めた。
ゴクリ・・・
漂う緊張感にトマスは喉を鳴らすと、一口サクリと焼き菓子を口に入れた。
「これは! 甘い!」
兄の驚きの表情に何故かアネタも嬉しそうな顔になった。
トマスはカゼをこじらせた時、お湯に蜂蜜を溶いた蜂蜜湯を飲んだ事がある。
蜂蜜は貴族にとっても貴重品で、病気の時くらいにしか口にする機会は無かった。要は滋養強壮の薬のような扱いなのだ。
水あめは蜂蜜ほどのガツンと来る甘さはなかったが、上品な甘さで、ついつい次の一口が欲しくなる不思議な魅力を秘めていた。
その証拠にアネタはワクワクしながらカーチャの手元の小瓶に見入っている。
カーチャは少し苦笑をすると、次の焼き菓子の水あめかけをアネタのために作ってやった。
「美味しい! 竜甘露美味しい!」
「・・・俺にも頼む」
年齢の割には賢しいとはいえ、トマスもまだまだ子供だ。
甘いモノには目が無いらしく、おずおずとカーチャの前に空になった皿を差し出した。
「この竜甘露はハヤテ様が屋敷の料理人に教えたものなんですよ」
「だから”竜”甘露なのか・・・ ドラゴンの食するものなんだな」
カーチャの説明にしきりに感心するトマスだったが、元々ハヤテは料理人のテオドルにはちゃんと”水あめ”と伝えていた。
それを”竜甘露”と名付けたのは当時マチェイ家の令嬢だったティトゥなのだが、カーチャはその事を説明するべきかどうか少し悩んだ。
「もう一枚下さい」
「あ、今作りますね」
しかし、貴族兄妹に請われて代わる代わる水あめかけを作っているうちに、完全に説明するタイミングを逸してしまうのだった。
「竜甘露・・・ 大変貴重なモノを頂き感謝する」
「大変好ましゅう存じました」
「・・・お二人から感謝のお言葉を賜り当家の料理人も喜ぶと思います」
貴族でも滅多に味わう事の出来ない甘味を存分に味わい満足そうな幼い兄妹。
そしてどこか微妙な表情のカーチャ。
貴重も何も、水あめこと竜甘露は今ではすっかりナカジマ家の使用人のおやつの友だ。
急な来客とはいえそんな”まかないメシ”を貴族のお茶請けに出した料理人のベアータの心臓も大したものである。
カーチャはすっかり恐縮してしまい、申し訳ない気持ちで一杯になってしまった。
「何か?」
「あ、いえ、何でもございません。おつきの騎士団の方々にはこちらで食事と宿泊の用意をしておきます。何もない村ですがお二方も必要なものがございましたら何なりとお申し付けください」
「かたじけない」
「ありがとう存じます」
丁寧に言葉を返す幼い兄妹。メイド相手にも偉ぶらない二人にカーチャは好感を持った。
(この方達の国が帝国軍との戦争になっているんだ)
隣国ゾルタといえば春にはこのミロスラフ王国に攻めて来た、いわば憎っくき敵国だ。
とはいえカーチャも、今では元ゾルタ兵の家具職人のオレクを始め、多くの開拓兵を見てきてそんな気持ちはすっかり消えていた。
このお二人の未来が不幸にならなければ良いのだけど。
カーチャは胸を締め付けられるような思いと共に、そう強く願わずにはいられなかった。
次回「男達の飲みニケーション」