プロローグ 聖国の執務室で
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第六章の更新を始めます。
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ミロスラフ王国から西に船で三日。クリオーネ島のほとんどを統べるランピーニ聖国が存在している。
多くの良港を持ち、裕福で気候穏やかな国土を持つランピーニ聖国は、歴史的に見ても常に他国からの侵略の脅威にさらされていた。
そのため、ランピーニ王家はその豊かな財力に物を言わせて、常日頃から他国の権力の中枢に多くの協力者を作り、大陸に一大スパイ網を形成していた。
ランピーニ聖国は文化的で美しい島国である反面、裏ではそうした策謀渦巻く陰謀国家の一面を持つのであった。
ランピーニ聖国の王城。その奥に存在する執務室では今、この国の頭脳とも言うべきアレリャーノ宰相夫妻が一通の報告書を前に眉間に皺を寄せていた。
「帝国軍は小ゾルタの王都を包囲したか・・・」
「思っていたよりも早かったわね」
夫の言葉に苦々しげに吐き捨てたのは30歳ほどの美貌の女性。この国の元第一王女カサンドラ、現アレリャーノ宰相夫人である。
元々ミュッリュニエミ帝国は領土的な野心の強い国だった。
しかし、帝国にとって運の悪い事に、すぐ東にさらに強大な力を持つチェルヌィフ王朝が存在していた。
おかげで帝国は王朝に対する備えに戦力を割かれて他国を攻める余裕がなかったのだ。
「今は王朝にとっては大事な”ネドモヴァーの節”だからね。王朝は他国に対して軍事行動が取れない。いや、取る余裕が無い。今回帝国はその隙を突いたわけだ」
アレリャーノ宰相は髭を撫で付けながらこぼした。
「そんな事は言われなくても分かっているわ。問題は帝国軍が今後どう動くかよ」
夫人は報告書を手に取って広げた。そこには今回の帝国の遠征軍の最終的な編成が書かれていた。
過去に例のない大兵力だ。
その数なんと五万。
小ゾルタとその隣国ミロスラフ王国が三千や四千の戦力で国境線で争っているのを考えると、十倍以上にあたる。これが彼らにとっていかに桁外れな戦力か分かるだろう。
ましてや小ゾルタは近年不作に悩み、春には隣国との戦に負けて戦力を失っている。そんな小ゾルタに対するにはあまりに過ぎた大軍だ。
正に牛刀をもって鶏を割くに等しい。
これでは小ゾルタを丸ごと手に入れても、遠征軍に払う褒賞だけでも帝国の皇帝は頭を悩ませる事になるだろう。
となればこの大軍が必要とされる理由は一つしかない。
「帝国の狙いは王朝の動けない間に、短期間での半島の統一! それしかないわ!」
「それは・・・ いや、あの皇帝ならあり得るか」
さっきも言ったが帝国は領土的な野心の強い国だ。特に現皇帝ヴラスチミルはその傾向が強いといわれている。
その皇帝が小ゾルタを手に入れただけで満足するとは二人には思えなかった。
おそらく帝国の狙いはさらに南。
この大軍をもってして一気に南下。隣国のミロスラフ王国を抜き、さらにはその南の都市国家連合まで至り、半島の全ての国を残さず平らげるつもりなのだろう。
「そんな事が本当に可能と思うかい?」
「皇帝は出来ると踏んでいるんでしょうね。皇帝は野心家な上に有能と聞くわ。勝ち目のない戦を仕掛けるような馬鹿な真似はしないんじゃないかしら。それに帝国にはあのベズジェク宰相がいるわ」
「・・・あの老人か」
夫人の言葉に苦々しげな表情を浮かべるアレリャーノ宰相。
彼も帝国の宰相には外交で何度も煮え湯を飲まされていたのだ。
ベズジェク宰相は先々代の皇帝の代から帝国を支え続ける皇帝の懐刀だ。噂に名高い天才錬金術師も彼が発見、スカウトしたとの噂がある。
あまりにも有能なため、聖国は何度も暗殺者を送り込んでいる程である。
帝国との関係がこじれるよりも、彼を生かしておく方が何倍も危険、と、元第一王女のアレリャーノ夫人が判断したためである。
幸いというか残念ながらというか、この暗殺計画は実行前にいずれも未遂に終わっている。
「そこが疑問なんだよ。あの慎重な宰相が今回の軍事行動を良しとするとは僕にはとても思えないんだがね」
「けど、実際に軍は動いているわ。そんな事より、もしこの遠征が成功したら、皇帝の名声は建国の英雄に並び立つものになるという事実の方が重要だわ。そして統一された半島に、王朝をも上回る強力な国家が誕生する事になるでしょうね」
夫人の言葉にアレリャーノ宰相は危うく舌打ちをこらえた。自分の妻とはいえ、元王女の前で取るには品のない行為だ。彼は理性を働かせて咄嗟の衝動をグッとこらえたのだった。
「チッ! 何とかする必要があるわね」
「君ね・・・ まあいい。確かに我々もこのまま手をこまねいて見ている訳にはいかないよね」
宰相の心づかいは当の夫人が盛大に舌打ちをした事で無駄になった。
それはさておき、ランピーニ聖国が行動するとして、取れる方法は三つある。
一つ目は小ゾルタに対する支援である。
が、これは現在王都まで攻め込まれている以上、あまり効果が大きいとは思えない。既に機会を逸している。
もちろん、まだ帝国に抵抗している小ゾルタの有力貴族に対して支援をするのは有効だろう。
帝国がミロスラフ王国へと軍を進めるのを遅らせる事も出来るだろうし、実際に帝国が軍を進めた際には、後方かく乱が期待出来るかもしれない。
上手くやれれば帝国軍を前後から挟み撃ちして痛手を与える事も・・・いや、そこまで望むのは望外か。
二つ目はミロスラフ王国に対する支援である。
これに関しては即応性が期待できる。
が、最大の問題はミロスラフがこの件をどの程度まで真剣に受け止めているか分からないという点である。
帝国が小ゾルタを得た事で満足するだろうと甘く見ていれば――ないしは、いずれ攻めて来るにしてもすぐではないだろう、などと根拠のない甘い考えに浸っていた場合は対応が後手に回る危険性がある。
ミロスラフの宰相は内政問題においては有能だが、こと軍事においては腰が重く、保守的な判断をする事で知られている。
圧倒的な戦力を持つ帝国に対して手をこまねいて、みすみす貴重な時間を無駄にする事にならないだろうか?
三つ目は帝国内部における反皇帝派への工作である。
これについては現状では難しいと言わざるを得ないだろう。
なぜなら現在遠征軍は破竹の勢いで快進撃中だからだ。
こんな時世に反皇帝派を組織しても同調する者は誰もいないだろう。
逆に組織が育つ前に皇帝派に一網打尽にされるのがオチである。
この工作が実を結ぶためには最低でも遠征軍が足止めを食うか、何かしらの犠牲を払う事が必要だ。
そうして厭戦ムードが出来上がった時、初めて反皇帝派の言葉に耳を貸す者が出るに違いない。
「いずれの場合も問題になるのは、どこまで聖国が支援をするかだが・・・」
アレリャーノ宰相は顎に拳を当ててうなり声を上げた。
半島を得た帝国がそれで満足するとは思えない。だとすれば当然次に狙われるのは王朝か聖国となる。
聖国は四方を海で囲まれているが、本土の戦力は王朝には到底かなわない。
帝国とすれば狙いやすいのは聖国の方だと言える。
かといって、「狙われそうだから」という理由でこの時点で反帝国陣営に大ぴらに支援をしたり、ましてや戦力を送り込んでしまうと、半島統一の暁にはそれを理由に帝国は聖国に軍を向けるだろう。
そうなると時間的な余裕も無くなる上に、国内の貴族の王家に対する支持も下がるに決まっている。
彼らの目には帝国軍を呼び込む原因を作ったのは王家だと映るからだ。
「それでも最大の支援をするべきだわ。私達には残された時間は少ないもの」
「流石に戦力は送れないが支援はするべきか。・・・返す返すも、事前に帝国の軍事行動の兆候を掴めなかったのが痛いね」
この時期、帝国は毎年大掛かりな軍事演習を行っている。そのため帝国に入り込んだ諜者も、例年通りの軍事行動と判断してしまったのだ。
しかし、帝国は事前に何回にも分けて国境沿いの砦に遠征用の物資を密かに蓄積していた。
聖国の諜者が帝国軍の意図を察した時には、既に帝国軍は小ゾルタの国境線を突破した後だったのだ。
「まさか皇帝があんな策を弄するとはね」
「それだけ今回の遠征にかける意気込みが強いという事よ。成功のためには他国に付け入られる隙を一分も見せないつもりなんだわ」
実はこの計画は帝国のベズジェク宰相が考え、いざという時のために温めていた策だった。それを今回皇帝が流用したのだが、流石に彼らがそれを知る事は無かった。
「それにしても厳しい・・・ 仮に聖国が全力で反帝国派を支援したとして、君はどれほどの効果が見込めると思う?」
「・・・条件にもよるけど五分。いえ、もっと低いでしょうね。どだい彼らに帝国軍を防ぐ事は不可能なのよ」
「不可能なのに五分って? ・・・なるほど。彼らが全力で抵抗している間に王朝が動けるようになるかどうか。時間との戦いというわけだね」
チェルヌィフ王朝は現在”ネドモヴァーの節”で軍事行動が取れない状態だ。だがそれは逆に言えば”ネドモヴァーの節”が終わりさえすれば軍を動かせるという事になる。
今回の帝国の南征には明確なタイムリミットがあるのだ。
問題は、既に王都が陥落しかけている小ゾルタと、戦力的には小ゾルタと大差ないミロスラフ王国にその時間を稼ぐだけの力があるかどうかだが・・・
「帝国軍の総司令官はウルバン将軍か。厳しいな」
ウルバン将軍はいささか杓子定規な所はあるが優秀な将だ。冷静沈着な人格者で兵の支持も高い。奇策を好まず、王道の用兵を得意とする。
つまり勝てる戦を隙なくかっちりと勝ち切る事が出来る将という事だ。
勝てるだけの戦力を用意する事が出来る帝国においてはまたとない人材といえる。
敵に回すには非常にイヤな相手だ。
宰相夫妻が見通しの悪さに表情を曇らせる中、ドアの外から部下の声が掛けられた。
「失礼します! カシーヤス伯爵令嬢様より緊急の報告書が届いております!」
「モニカから?」
カシーヤス伯爵家は代々王家にメイドとして仕えている。そのカシーヤス家の令嬢モニカは、現在ミロスラフ王国のナカジマ領に滞在している。
本人が強く望んだ事だし、聖国王家も竜 騎 士との関係を深めたいという事情があった。
そういった理由で彼女は現在、ナカジマ家当主ティトゥにメイドとして仕えていた。
アレリャーノ宰相は未だ難しい顔をして考え込んでいる夫人に代わって部下から報告書を受け取った。
部下から二三報告を受けた後で下がらせた宰相は、夫人がモニカの報告書を手に目を見開いているのを見て驚いた。
「何か意外な事でも書いてあったのかい?」
「意外? これを読んでもあなたはそんな言葉で済ませる事が出来るのかしら?」
宰相は訝し気な表情を浮かべながら夫人が突き出した報告書を受け取った。
「んなっ!」
報告書を取り落とさなかったのはたまたまだ。それほど宰相は報告書の内容にショックを受けていた。
「彼女は・・・その、ここに書いてある事は本気なんだろうか?」
アレリャーノ宰相は何とか言葉を選びながら辛うじてそれだけ言った。
頭脳明晰な宰相をもってしても、モニカの報告書をそう表現するしかなかったのだ。
「そうね――多分。あなたも知っての通り、あの子は軍事の専門家じゃないわ。でも諜者として一通り軍事に関するレクチャーは受けている。その子が言うのよ。決して根も葉もない妄言じゃない・・・と私は思うけど」
宰相夫人の言葉は尻すぼみに小さくなった。彼女も自分の発言に自信が持てなかったのだ。
それほどこの報告書に書かれている内容は常軌を逸していた。
「しかし、いくらなんでも”帝国軍がナカジマ領を目指すなら撃退する事は可能”とは・・・」
そう。モニカの報告書を要約するとこう書かれていたのだ。
帝国軍がナカジマ領を目指すなら、竜 騎 士が撃退するだろう。
ならば帝国軍を撃退するために聖国は密かに”帝国に協力するべき”である。
帝国に協力すると称してミロスラフ王国の地理情報を流し、”帝国軍が必ずナカジマ領を目指すように仕向ける”のだ。
そうすれば確実に竜 騎 士が帝国軍に当たる事になる。
逆に帝国軍がナカジマ領を避けた場合、ミロスラフ王国には帝国軍の進軍を防ぐ力は無い。
進軍経路から外れたナカジマ領は無傷で残るが、帝国軍は彼らの予定通りミロスラフ王国を抜き、都市国家連合を平らげ、半島制圧という長年の野望を果たすだろう。
つまりこの度の帝国軍の南征の成否は、竜 騎 士が帝国軍本隊と直接戦闘を行うか行わないか、この一点にかかっているのだ。
要検討されたし。
付随した地図にはちょっとした但し書きと、ミロスラフ王国の大雑把な地形と主だった街道と砦の位置が描き込まれていた。
「確かに帝国軍がこの地図と但し書きを見れば迷わずナカジマ領を目指すだろうね。わざわざこちらが策を弄して思考を誘導するまでもない事だ。・・・でも本当に彼女の言うように五万もの帝国軍を撃退する事が彼らに可能なのだろうか?」
アレリャーノ宰相の言葉に夫人は答えられなかった。
普通に考えればあまりに突拍子も無い話だからである。
そもそもモニカの発想は自分達とは全く前提が異なっているのだ。
夫である宰相と二人でこの数日、散々頭を悩ませても結論を出せない帝国軍の脅威を、モニカは竜 騎 士であれば一蹴出来ると言い切っているのだから。
当然、宰相夫人はこの提案を中々受け入れる事が出来なかった。
しかし結局、彼女は内容をいくらか調整した後でモニカの策に乗る事にした。
他に有効な手段が思いつかなかったというのもあるが、彼女も半信半疑ながら「ひょっとしたら、あの竜 騎 士達なら本当にやりかねないかも」という考えを捨てきれなかったのだ。
もちろん各方面への支援も密かに行う。とはいえこちらはさっきも言ったがどの程度効果があるかは不明だ。すでに破竹の勢いで電撃戦を展開する帝国軍に対し、明確に後手を踏んでいるためだ。
この聖国の決断により、帝国軍の遠征はやがてこの世界の誰もが予想もしない結末を迎える事になる。
だがこの時点でそれを知る者は誰もいなかった。
次回「ナカジマ領の現在」