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訪れた願い

 高校生活二度目の夏休みも早二週間ほどが過ぎたというのに、俺は女っ気のない至極残念な生活を送っていた。

 半そでシャツに短パン姿で畳の上に体を投げ出し、ぼんやりと天井を見る。古き良き日本家屋である我が家には縁側があり、障子を開け放てばなかなかに風通しがいい。吊るされた風鈴が心地良い音色を立てている。

 俺は大きく欠伸をした。

 昼飯をたらふく食ったこともあり、出かけるのはおろかこの場で体を動かす気すらまったくない。というか、昨日もこうしていたしその前の日もこうしていた。もう日課かもしれない。

 ふすまと廊下を超えた先から、母さんが見ているであろうテレビの音が聞こえてくるが、容赦なく鳴いている蝉の声がそれをかき消してしまう。

 その一方で、風鈴の音は不思議とはっきり聞き取れた。音の種類が違うのか、意識を集中させやすいのか。理由なんて皆目見当がつかないが、ともかく心地良い音が俺の耳に届く。

 そうやって寝そべっていると、自然と瞼が落ちてくる。

 飯を食べたこともあって汗ばむぐらいには暑いのだが、部屋には扇風機もあるのでさほどつらくはない。つまり、寝るには良い状態なのである。

 今日は誰とも会う予定はないし、何かやろうという気もしなかった。であれば、体に正直に生きるのが吉である。

 襲ってくる睡魔に抗う理由もないので、俺はあっという間に眠りに落ちた。

 いや、正確には半起半寝とでもいうか、半分起きていて半分寝ていた。授業中の居眠りとかテレビを見ながらのうたた寝とか、眠ってはいるけれど耳からは周囲の音が聞こえていて、状況をぼんやり把握できているようなあの感覚だった。

 そんな状態でうつらうつらとしていると、俺は不意に何かの気配を感じた。

 縁側に何かがいる。人の気配がしたのだ。

 母さんが様子を見に来たのだろうか。そんなことを考えながら、瞼を開ける。ただ、体の方はすっかり眠る態勢に入っているみたいで、瞼はやけに重くてぱっちりとは開けられない。それでも力を込めて開けようとすると、自然と薄目の形になってしまった。

 仕方なしにそのまま縁側の方に視線だけを向けると、そこには確かに人らしきものがいた。しかし、その姿が判然としない。白い靄がかかったような、ぼやけた姿だった。

 俺の頭には疑問符が浮かんだ。それが母さんではないとわかったからだ。人影は、一般的男子高校生並みである俺の身長よりも十センチばかり背が高かった。ほっそりとしてひょろりと長い。そんな印象だった。母さんは俺よりも頭一つ分背が低いし、横にもデカい。いまこの家にいるのは、俺と母さんを除けば八個下の妹のみ。目の前にいる人影と比べれば体格は全然違う。

 これはいったい誰だろう。

 半分眠っている頭では、ただただ疑問に思うだけだった。慌てることすらしなかった。

 ぼうっと見ていると、人影はゆっくりとした足取りで部屋に入ってきた。俺の方に一直線に近づいてくる。

 俺はその動きを大人しく目で追うだけ。

 人影は俺のすぐ傍まで来て足を止めた。そこまで近づいたのに、やはりその顔や体は確認できない。すりガラス越しにでも見ているような感じだ。

 人影は静かに畳に膝をついた。その瞬間、黒く長いものが揺れた。髪だ。長く伸びた髪がはっきりと見えた。

 女か。俺はなぜかそれを確信した。そう思うと、身のこなしや雰囲気が女のそれにしか見えなくなってきた。

 そうやって女を注視していると、不意に俺の脚に何かが触れた。冷たい感触。氷のようにひんやりとしたものではない、やさしい冷たさだった。それに、少し柔らかさもあってしっとりとしている。

 触られている。女は前かがみになり、俺の太腿に指を這わせていた。

 さらに、空いた方の女の手が、俺の顔に伸びた。頬をひと撫でし、首筋をなぞる。そしてそのまま上半身を過ぎていき、腰まで来たところで上着を捲られた。

 突然のことだったが、俺は何の反応も示さなかった。頭はぼんやりしていて、体の方はほとんど眠りに落ちていた。半ば金縛りのような状態だった。

 女の手は、露わになった俺の腹を撫でた。指を立て、あばら骨をなぞり、背中にまで手を回す。脚の方も同じようにまさぐられた。細くしなやかな手が俺の体を這いまわる。

 いつの間にか蝉の声がとても小さくなっていた。テレビの音なんて最早聞こえやしない。その代わり、風鈴の音がする。やけにはっきりと。儚いあの音が、鳴り響くと言っていいぐらいに存在を主張していた。

 俺はされるがままになっていた。目だけを力なく開けて、状況を受け入れていた。

 そうしているうち、女は腰を上げた。一瞬どこかへ行くのかと思ったが、違った。女は俺の腰の辺りに尻を落とし、馬乗りになったのだ。

 女は両手で俺の腹をまさぐり、それを胸の方まで伸ばしてきた。俺はそれを享受する。

 心地良い。それは心地良かった。思考がほとんど停止したような頭でも、それだけはわかった。

 体を預けて、このまま眠ってしまおうか。そんなことを思ったその時、不意にぞくりとした。いましがた女の手が触れた箇所が、ひどく冷たくなった気がした。決してやさしいものではない。痛みすら感じるほどの冷気だ。

 それは、気のせいではなかった。女の手が動くと、それに沿って冷たさが俺の体を襲った。熱を奪われでもするように、体が冷えていく感覚。

 やばい。

 一瞬でわかった。その感覚は、俺に恐れを抱かせるに十分だった。のぼせ上がった頭の熱が冷めていく気がする。寝ぼけた頭に、一瞬で警鐘が鳴った。それほどまでに恐ろしい感覚だった。

 しかし当然、女の手は止まらない。そして、俺の体も動かない。頭の中がいくら動こうが、体の方は寝ぼけたままだ。俺の体の上で、女は何にも邪魔されることなく手を滑らせる。

 焦り始めた俺の心に呼応するように、風鈴の音がやけにうるさく聞こえる。

 どうにかしないといけない。そう思った矢先、女が前かがみになった。そうして、その顔を俺の方へと近づけてくる。

 やばい。

 直感だ。何をするつもりか、検討はすぐについた。

 やばい。

 女の唇が視界に入る。あんなに見えなかった女の姿。青紫色をしているその唇だけが、なぜかいまはくっきりと見えた。

 やばい。やばい。やばい。

 真っ直ぐに向かってくる。

 やばい。やばい。やばい。やばい。やばい。やばい。やばい。やばい。やばい。やばい。やばい。やばい。

 恐怖に駆られ、思い切り瞼を閉じた。

 直後、唇に柔らかな感触。

 それだけだった。

 恐る恐る瞼を開ければ、そこに女の顔はなかった。馬乗りになってもいなかったし、部屋の中に女の姿そのものがなかった。

 俺は、のろのろと体を起こした。目は覚めている。頭も体も。

 唇に触れた柔らかさは、確かに感じる。しかし、体を襲っていたあの冷気はなくなっていた。じんわりと汗が滲み、むしろ夏らしく熱を持っている。ただ、シャツの裾はめくれていた。

 いまのは何だったのか。白昼夢でないことは確かだ。

 俺は静かに息を吐いた。

 蝉の声は相変わらずやかましく、ふすまと廊下の向こうからはテレビの音が聞こえてくる。

 そして、ちりんと風鈴が鳴った。

 風鈴。やけにうるさく聞こえていた風鈴。

 俺は立ち上がり、ふらふらと風鈴の方へ歩いた。風に揺れて鳴り続ける風鈴に、そっと手を添えた。透明で花の模様がついた見飽きたものである。

「……あれ?」

 だが、いつもと違うところがあった。垂れ下がっている短冊。鈴部分と対になっている花柄のものじゃない。手に取って見てみれば、それは無地の短冊で、そこには文字が書かれていた。

『彼女ができますように!』

 下手くそな俺の字だ。これは、俺が今年の七夕の時に書け書けと言われてやけくそで書いた短冊だ。なんでこんなものが残っているのか。そしてなんで風鈴についているのか。

 わけがわからない。

「あっ、お兄ちゃん今日は起きてるのー?」

「え?」

 突然の声に視線を向ければ、庭を走ってくる妹の姿が見えた。

「ああ……」

 混乱している頭で、それを気取られないよう言葉を返す。

「お前はこれから遊びに行くのか?」

「それ、気づいた?」

 問いかけに対し、返ってきたのは別の問いかけだった。笑みを浮かべながら、妹は俺の方に指を差す。

「それ?」

「短冊!」

「短冊って……もしかして、これお前がつけたのか?」

「うん!」

 妹は無邪気かつ元気よくそう答えた。

「そのお願い叶ってないみたいだから、つけといた!」

 自信満々にそう言ってのける。

 確かに俺に彼女はできていないし、この夏休みの過ごし方を見ていれば、それは妹にも一目瞭然であろう。だけど風鈴につけるって。吊るしておけば願いが叶うってものでもないだろ。

「叶うといいね!」

「……うん。まあな」

 曖昧な返事をしながら、俺は考える。

 さっきの出来事はこの短冊のせいだったのだろうか。兄を想う妹のいたいけな心にどこぞの神様が感激して、ほんの少しばかりいい思いを体験させてくれたと。俄かには信じがたいが、しかしいましがたのことは確かに起こったことである。

 そうだとしたら、ビビったのは損だった。なんであんな恐怖を感じてしまったのかは謎だが、最後まで楽しめがよかった。

 俺は少しばかり後悔した。二度目はないだろうし、思う存分満喫すべきだったのかもしれない。

 思わずため息が出た。

「どうしたの?」

 妹に心配され、改めてその顔を見てふと思う。

「お前、これどうやってつけたんだ? 母さんに頼んだのか?」

 妹の身長ではいくら背伸びをして手を伸ばしても風鈴には届かない。母さんにつけてもらったか、わざわざ椅子でも持ってきたのか。

「お母さんじゃないよ。別の人に手伝ってもらった」

「別って?」

「お姉さん。手も足も細くて背が高くって、黒くて長い髪のお姉さん」

「……え?」

「昨日お兄ちゃんが寝てる間につけようとしてたら、それに気づいて庭に入ってきて、それで抱っこしてくれたの」

 弾むような妹の声と裏腹に、俺の心は重く沈み始めていた。

 腹が、胸が、そして唇が、瞬く間に冷たくなっていく。

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